「ちっ・・・やられたか。」
時を同じくして某所、薄暗い空間の中に小さく呟きが響く。そこはカーテンによって閉じられているからなのか、それとも元から光が少ない空間だから薄暗いのかは分からないが、雑然として埃っぽくそして然して広くは無い部屋の中ほどに置かれた座椅子に寄り掛かる形で足を伸ばし投げ出していた。膝の上には一冊の古惚けた冊子と思しき書物があり、腰の傍らには幾つかの革張りの鞄が数段の幾つかの山に積み重なって置かれている。
その山の一つを肘掛代わりに片手をかけながら忌々しげな表情を口元に浮かべる青年、薄暗いのではっきりとした表情を窺い知る事は出来なかったが明らかに不機嫌である事だけは気配から容易に知れる。
「・・・申し上げます。」
「どうした、何だ。」
その座椅子の影から聞こえる静かな低い声、影の中に溶け込んでいてその相手の姿は完全に分からない。しかし青年はもう慣れているといった感じでそれに対して言葉を返した。
「リョッコが少女と接触したとの報告が・・・。」
「何と・・・あの少女は素質が無いのではなかったか?」
途端に驚きの表情を一瞬浮かべて再び元の顔に戻り呟く青年、それに対して影は答える。
「それがリョッコの術により隠されていた様でして・・・申し訳ありません。」
「むぅ・・・仕方ない、とにかくその件に関しては後回しだ。それよりも早急に接触を解く方が先決だ・・・今、リョッコと少女の直近にいるのは誰だ。」
「・・・43号が監視に。」
「では43号に命じろ、今すぐ妨害せよと・・・そして可能ならば少女をこちらに連れて来る様に。」
「はっ御意に。」
そう言うと声はぱたりと消え気配も完全に絶える、薄く脂汗を染み出せながら全身の力を抜いて息を軽く吐いた時、その頃合を見計っていたかのように再び声が入る。とは言えそれはこれまでの影の声とは違う丁寧さと明るさとを兼ね備えた声であった。
「へぇ・・・43号で大丈夫なのですか?リョッコ相手に・・・。」
声のした方角へと垂れていた頭を上げて視線を向ける青年、その先には明らかにこの空間を満たす気配そして色には似つかわしくない純白のふかふかな獣毛にて体を包み、犬のお座りをする様な姿勢をしている生き物の姿があった。背中の翼と首もとのペンダントを吊るした赤い首輪に特徴的な形をした三尾の尻尾が印象的である。
「何だ氷室か・・・話を聞いていたのかい?」
青年の口調もそれに合わせて変わる。先程までの命令調で何処か偉そうな態度を漂わせていたのとは対照的に、ぶっきらぼうであるのは変わりは無いとしてもやや丁寧で丸みを帯びた物へと変わっていた。
「聞いていましたよ、初めて出会った時だってそうだったでしょう?」
「それはそうだな・・・なぁ氷室、とうとうリョッコが動き出してしまった・・・どうなると思う?」
「さて・・・それは僕の知る範囲では無いですね。あなたなりにするしかないのではないですか?僕はあくまでも傍観者ですよ・・・。」
「そうだな・・・氷室はそうだったな・・・。」
反芻する様に同じ内容を繰り返し呟く青年、その様を氷室はじっとその水色の深い瞳で静かに見つめ続けていた。
一方、場所を戻ってリョッコと美根子の病室・・・笑いも今となっては収まるとようやく静かに本題へと話は進んでいた。リョッコの話に美根子が耳を傾けている。
「知らなかった・・・そんな話・・・おじいちゃんも話してはくれなかった。」
リョッコの話に聞き入っていた美根子は話が終わるとそう小さく呟いた。美根子の祖父とは以前にも出て来た様に、幼い頃の美根子にこの地域に伝わる昔話や伝承などを事ある毎に言って聞かせリョッコの事も教えた人物である。しかし今リョッコから聞かされた話はその一部すらも祖父の口から耳にした事はなかった、祖父でも知らない事があった・・・いや若しかすると知っていたのかも知れないけれど教えてくれなかったのか。後者の場合はどうしてなのかと疑問が湧き出て来てなら無い所に再びリョッコが口を開く。
「君のおじいさまとは色々と親しくさせてもらったもの、だから今話した事は承知していた筈よ。でも何故それを話さなかったか・・・わかる?」
「・・・私が子供だったから?」
「それもあるわね・・・だけれども一番は・・・。」
と言ったところでリョッコもまた言葉を詰まらせそして押し黙る。恐る恐る美根子が様子を窺おうと顔を近づけると軽く首を振ってこう続けて閉じた。
「止めておきましょう、これはその内自然と分かる事だから・・・君自身の手で掴むべき事。私はただそれを掴むのに必要な全てを与え教えるだけの存在だから、さああなたに託す物を上げるわね。先ほど言ったようにして・・・。」
「はい・・・。」
美根子はあえて詮索せずにリョッコの言葉に従った。どうしてもその雰囲気からは聞き出すのは余りにも不粋な事に思えたし、何よりも彼女自身が聞く事を恐れたと言うのもあるかも知れない。リョッコがこうまでして自らの口で言うのを憚り自ら掴む様にと言う事なのだからむしろそう感じたのだろう、そして思いを鎮めつつ目を閉じリョッコの確認の声に小さく顎を縦に振る。
すると額にリョッコの指が付けられそして詠唱・・・静かな精神の底にまで染み渡る声が美根子の全身を包み空間に満たされる。それは今までになく心地良く癒される瞬間だった、それこそ鬱積していた思いが解けて1つになっていく・・・球体だろうか、丸い白い球体に纏まって行く様が不意に脳裏に映し出され展開される。そしてそれは何時の頃からか色に染まり始めた、それは淡くそして濃く・・・紫色へとその球体を染め上げた。
だが不思議な脳裏の光景はそれだけでは終わらない、新たなる球が姿を現したのだ。1つ、2つ、3つ・・・赤に青・黄緑・深緑・白・黒・黄色・銀の8色の球が紫の球を中心にして1つの円となって周り始める。そして何の前触れもなしに強い光が全てを包み脳裏の光景は白濁して消えた。美根子もそれを気に目を覚ます、目を覚ました先の光景は何一つ変わりなく目の前にリョッコの姿が目を閉じる前と変わらぬ姿であり、そして微笑んでおり彼女もそれに微笑み返す。
「球が見えたでしょう・・・あれが私が君に託す物だよ。」
「あの9色の・・・?」
「正確には8色だね、9色あっただろうが・・・紫の球があっただろう?」
「えぇ・・・。」
そう返すとリョッコは軽く再び微笑み呟く。
「その紫の球は君自身だ、大事にしなよ・・・っと詳しくまだ説明する事はあるんだが、お客さんが来てしまった様だ。」
「お客さん・・・?」
「そうだ、お客さんだよ・・・っと臥せてっ!」
その声と共に美根子を庇うかの様にリョッコが美根子の上に覆いかぶさる。それにあわせて美根子も身をベッドの上で縮めた瞬間、強く熱い風が部屋を満たした。