ラベンダーフォックス・序章冬風 狐作
 床野夜半島、数千年前の造山活動にて島が衝突して出来たと言われるその半島に何時の頃から人が住んでいたのかは定かではない。ただそこにはその周囲の如何なる文化とも異なる系統と発展を見せた独特の文化が相当古くから芽生え栄えていた事は研究者の間では知られており、数十年前に大規模な炭鉱が発見されそれを期に始まった半島外の地域との交通網の改善以前まではまだまだその色が濃かったと言われているが、外との交流が活発化した時期から急速に薄れつつありその保護が長く一部から強く叫ばれていたものの中々人々の関心を呼び覚ます事は出来なかった。
 しかし石油を基幹エネルギーとする政府の資源政策変更以降良質かつ豊富である事から各地の炭鉱が相次いで閉山する中で、唯一拡大し生き残ってきた半島の石炭産業も近年は衰退著しく半島経済は落ちぶれる一方。その状況を打破する1つの材料に成るのではないかと言う含みのある視線ではあるが多くの人々の注目が今、その古くからの文化に注がれ始めているそんな半島にてこの物語は動き始める。

 海に面した窪みにある半島先端の町、その郊外の田園地帯にその家は会った。季節は春、庭に生えた桜の木がとても美しく咲き誇るその家から出てくる2つの人影・・・一方は自転車に乗りもう一方は歩く2人は大変仲が良く見える、最もそれは当然と言えよう。何故なら2人は兄弟いや姉弟なのだから、肉親の情そして繋がりと言う物の強さは思う以上に深く強いものである。当然それの例外となる事無くこの姉弟の関係もその通りでありある意味では理想的な関係であるとも言えるほどだった、そして炭鉱へと続く鉄道沿いに歩いた2人は揃って同じ門をくぐり中で分かれていった。姉14才、弟11才の春であった。

"ふぅ・・・久し振りの体育は疲れたなぁ。"
 更衣室から体育袋を片手に教室へと戻ってきた少女、東堂美根子は自分の席に座ると腕を投げだしてふとそんな事を感じた。教室の中は更衣室から戻ってきた女子が元からいた男子と混じって段々と騒々しくなり始めていた、それはちょっとバテ気味で静かにしていたい美根子には鬱陶しく感じられたが自分が1人そう感じ文句を言った所でどうなるものではない、むしろ火に油を注ぐだけ・・・そう思うと彼女は更に力を抜き机へとへばりついたとその時。
「おーい美根子、何しけてんのよ。」
 急に降りかけられて来た声、それは忘れたくても忘れようの無い馴染みの深い声だった。彼女はその声の主の顔を思い浮かべながらのっそりと頭を上げて目を細くして見ると、そこには当然の事ながら思った顔がいかにも元気が有り余っていると言った表情をしてあった。加藤光子、幼馴染で同じクラスにいる友人である、どうやら今教室に戻ってきたらしくその片手には体操着袋が握られておりその額には薄っすらとまだ汗の残滓が残されていた。
「・・・疲れたのよ、本当久し振りの体育だからさ・・・やらなくちゃならないのは分かっているんだけれど。」
 そう言って美根子は長く深いため息を吐く、そこには疲れの色が色濃く現れており人によってはそこで話を切り上げて退散するかもしれないだろう。だが今目の前にいる相手にそんな理屈と思いは通じない事を美根子は長い付き合いの中で十二分に承知していたからこそ、顔を正面に上げて軽く首を回して調子を整えると何時もの通りに装って向き合った。
「ふふふ真面目なんだから美根子は、もっと楽に考えなさいよ・・・そんなに改まる事ないし疲れてたら適当に理由つけて見学すれば良いじゃない。」
「そうは言うけどやっぱりさ何か受け入れられなくて・・・ずるいじゃないそんなの。」
「そんな事言うのは美根子位よ、ほんと。まぁそこが美根子の良い所なんだけれどね・・・っと先生来ちゃった。」
 そして光子は足早に美根子の前から立ち去って行った、入れ替わりに開いた視界の先には無精ひげを生やした壮年の教師がひげを弄りつつ教卓の上に立ち号令を今にもかけようとしていた。そして軽い欠伸をかまして彼女もまた起立するのだった。

 学校が終わったのは午後16時を過ぎた頃、もう太陽は岬とは逆の水平線に向かってかなり高度を落としているのが良く分かった。とは言えそれで美根子の学校での一日が終わったと言う訳ではなくその足で彼女は、学校から然程遠くない駅へと向かい列車に飛び乗った。列車の行き先は深東雲、その走る路線は西の半島の付け根付近より本線から分岐し沿岸に沿って東にある深東雲まで至る全長70キロでありその最後の区間である23キロを今乗っていると言う訳だ。
 そして美根子を乗せた気動車はゆっくりと次第に深くなっていく闇の中を30分ほどで走り抜けると終着の深東雲駅へと到着し、列車から折り改札を抜けると駅舞うにある雑居ビルの中へと消えていく。そこに掲げられている看板に浮かぶ「予備校」の文字・・・半島の付け根にある町、要は半島を周回する形で走る鉄道路線の本線からの分岐駅のある町にある私立高校への進学を考えている彼女は週に3回の塾通いをこなしていたのだった。ようやく二時間余りの授業を受けて再び姿を現した時に駅前の時計は19時半を少し回った辺りを指していた、もうこの寒冷な地方で桜が咲く季節となってもまだまだ夜は冷え上着はとても手放す事は出来ない。美根子はそっと体に力を込めると海から吹き付ける冷たい風に立ち向かう様に歩を進めて駅舎の中へと転がり込んで行った。
 20時過ぎに発車した快速列車で再び元来た道を辿り駅へと降り立った彼女は、上手く接続している炭鉱地区へ向かう列車に乗り換えて自宅の最寄駅へと向かう。乗り込んでからしばらくして発車した車内に人影は疎らでそれは暗闇の車窓に思い出したかの様に街頭に照らされて姿を現し消えていく町の様子とどこか似通っており、ぼんやりと眺めている内に右手に小中学校の敷地を大きなカーブに沿ってかすめた列車は今度は左手に美根子の自宅を見せながら1キロほど行き過ぎた駅に止まった。そこで美根子は下車するが彼女以外に降りる人、加えて代わりに乗っていく人の姿は基本的に存在せず今日もその例外とはならなかった。
 そんな辺鄙な場所にある無人駅で駅舎と線路以外は見渡す限りの田園地帯が広がっていて夏場、そうでなくても昼間であればその広大な景色を目の当たりにする事が出来るが夜では暗闇と静けさ以外の何も存在しない。その中の線路に沿った一本道を美根子は唯1人静かに歩んでいく、初めてこれをし始めた頃にはろくに街灯も車の通りもないその道が恐ろしく見えて仕方が無かったが、今ではそこまでの恐怖心は無く慣れ切ってしまいむしろ週に何度かのこの事に楽しさを覚えていたと言うのも過言ではないだろう。とは言えここ最近は色々と物騒な事件が町のそこかしこにて発生している事から暗闇自体を怖がるよりもそちらに対して警戒心を抱かねばならないから夜道を楽しんでばかりはいられないのは少々残念で仕方が無かった。
"本当月がきれい・・・いい夜だな。"
 空に浮かぶは銀に輝く大輪の満月、見ていると何処か心がぞくぞくとしてならず美根子は足取りも軽やかに砂利道の石を軽く蹴りながら歩いていた。そしてふと思い出された幼い頃夜外で遊んだ時の記憶を今一度噛み締めながら更に調子を上げていく。
"そう言えばこんな夜になるとリョッコが舞うなんておじいちゃんが言っていたなぁ・・・もう5年も経つんだ・・・。"
 そして何時しか頭の中を巡るのは5年前に他界した祖父の事へ、次いでリョッコの事へと至る。リョッコとは古くからこの半島に宿る守護神とも言われる存在で中央駅の東と郊外のちょうど降り立った駅と美根子の自宅の中間地点にそれを祭る神社が建てられており、郊外にある方が本宮でそこに住まわれているのだと祖父は彼女に良く昔話として聞かせてくれたものだった。そんな事を不意に思い出している内に美根子は自分が何処か熱くなって来ているのに気が付いた、感傷なのだろうか一体正確には何なのかはすぐには分からなくとも頬を伝う一筋の筋がその答えを示していた。
   思わず思い出された記憶によって神妙な気持ちになっていた美根子には最初その音は聞こえていなかった。正確には耳に届いていたものの感じてはいなかったと言うべきであろうが矢張り何時しかふとした事で気が付いてしまうものである。それでも当初と言えば極々小さな物で微風に揺られる草かそれとも木の葉の音程度にしか感じられず気にされるものではなかった。しかし次第に大きくなって来た事もあって他の音と異なる物と認識した時にはもうそれはかなりの音になっていた、もうそこまで来れば誰もが気が付く・・・最もここまで気が付かなかったのも幾ら自然の音と勘違いしていたとは言え彼女にしては珍しい事だった。何かが狂っていたと言うのは容易くそして安易であるかもしれないがそうと言うべきであるのもまた事実であろう、そして美根子は振り返った。夜空を音のする方角へ向かって・・・。
 しかしその方角には何者も存在しなかった、何者と言っても羽ばたきの音を立てるのは羽を持つ鳥だけなのだからおかしいかも知れない。だがそれ以上におかしな事として何者もその方面にいないと言うのに相変わらず羽ばたきの音が聞こえると言うのは一体どう言う事なのだろうか?これが新月やその前後の極めて闇の深い夜であれば溶け込んで見えないと言うのもまた考えられるであろう、しかし今晩は素晴らしいまでに美しい満月が雲1つ流れていない夜空に浮かんで辺りを煌々と照らしているのだから溶け込む事自体が有り得ないのだ。
 だが疑問に思った所で羽ばたきは聞こえている、それは必ず彼女の背後からそしてそちらを向く度に新たな背後へと移動していくのだから気味が悪い以外の何者も無いまま再び歩き出そうとした時、彼女は奇妙な感覚に囚われた。そう何かが空気を切り裂いて自分に接近してくると言う・・・そして体の軽さを、それが体が浮いていく感触だと気が付くのには数秒も時間は要らなかった。次いで何かが自分の肩を強く食い込む様に力を込めて掴んでいるのを掴まれる事による痛みから悟ったのであった、次いで脳天にあたる柔らかくそして暖かい感触も、その感触は両肩を掴む物とは対照的にどこか日に干されて膨らんだ羽毛布団に近い気配を直感していた。
 巨大な鳥に食べられる・・・それを思い浮かべた途端に美根子の心は、唐突の事に対する虚脱感から一気に蘇ると混乱と戸惑いそして逃げたいの一心から大きくその場で暴れ始めた。当然彼女の両肩に半ば食い込む様に掴んでいる足の指が食い込んだり力が変なかかり方をして痛かったが、上着を着ていた事から服は破れようとも下着までは破れず肌が傷つく事は無かったのは幸いのだが痛いのには変わりは無い。だからこそより焦りは募り必死になった美根子は強く暴れた、それは決死の必死の闘争であった。その介あってなのだろう彼女を捕まえていた巨鳥は気を取られて次第にバランスを崩し拙い飛び方となり何時の頃からかは失速しかけていった。
 流石にそれに危機感を抱いたのかは分からないが巨鳥は獲物である美根子をいきなり何の前触れも無しに切り離すと言う暴挙に巨鳥は打って出た。そして彼女は新たな体の軽さと共に力から解き放たれて宙を舞い落ちる、眼下に見えるの鬱蒼とした黒い茂みとその間に垣間見える建物の屋根・・・何を言う事もない、それは謎の巨鳥に捕らえられる直前にふと思い出していた祖父の言っていたリョッコの住まうとされる神社とそれを囲む広大な鎮守の森ではないか。
 だがそれに思いを馳せている間に見る見る内に木々が接近し同時にあの空を切って接近してくる感覚を再び感じつつあった。だから美根子は祈ったあの巨鳥に捕まらない事を巨鳥では無く木々の茂みの中へと身が落ちる事を・・・そして奇跡は起こった、何とあの巨鳥の体とかすりこそはすれどもあの足に捕まる事は無かったのだから。そして彼女は落下していく、ややその弾道を変えて拝殿と本殿の方角へ向けて急激に落下して行った。

 何かがぶつかる音と共に一斉に鳥の鳴き声が響き渡る、それはあの巨鳥の鳴き声ではなく鎮守の森をねぐらとしている鳥達の鳴き声であった。そして寸分の間を置く事無く再び鈍い音が響き渡る、それは何かが地面と衝突した音でありその具合からして直接ではなく間接的に・・・恐らく拝殿と本殿の間にある参堂の両脇に広がった植え込みの中へ落ちたのだろう。そして再び辺りに響き渡る羽ばたきと折りしも間の空に浮かぶ満月を背景に旋回するあの巨鳥の姿、その鳴き声は木々をねぐらとしていた鳥達とは違う次元の巨大な物であった。
 そのある意味では耳をつんざかんばかりの鳴き声は静寂な月夜を引き裂く。それこそ強くそしていきなり反転し狙いを定めて落下し横たわったままの物体へと、つまりは美根子目掛けて再び急降下をかけて来たのだ。そして三度目の正直と言わんばかりにその太くいかにも力強い足にて掴みかけたその時その巨鳥は吹き飛んだ、一体何が起きたと言うのだろうか余りの急展開にそれは全く分からない。吹き飛ばされた巨鳥も理解していないようで勢い良く拝殿の壁に叩きつけられて喘いでいる、ただその姿には何処か鳥らしかぬ所を感じられてしまうのは気のせいなのであろうか?どうにも素直に取れない格好をしている様にしか見えなかった。
「キエェェェッ!?」
 次の瞬間、急に辺りが明るくなると共に巨鳥の悲鳴が辺りに響いた。見れば本殿の中より幾つもの火の玉が姿を現し巨鳥の体を拝殿の壁へと体の要所要所に張り付いて捉えている格好にしているではないか、その火の色は薄く淡い青色をしておきながら全く羽や壁を焦がしてはいなかった。ただ熱いのか何なのかは知らないが巨鳥・・・もうそう呼ぶのは相応しくないだろう、人の様な体付きをして両腕両足を伸ばされてその手首足首に青白い炎の枷をはめられて磔にされている姿を目の当たりにしてはとても呼ぶ事は出来ない。むしろ鳥人と呼ぶのが相応しい。
 鳥人は絶叫の後に尚も騒ぎ続け先ほどの美根子の様に逃れようと身を捩じらせた瞬間、一際大きな火の玉が現れたかと思うとそれはその首筋を押さえ完全に行動を封じたのであった。それと共に極めて強い気配が拝殿の中より発せられる。それを受け感じたと単に鳥人は静まり返り元々丸い目を更に大きく見開いて茂みの中にて気絶したままの美根子を隅に置きつつ、拝殿の中へと視線を向ける以外には何も動く事は出来なくなっていた。そう拝殿の中より現れる何者かの影を見る他には完全に。


 序章 終
ラベンダーフォックス・第一章記憶
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