読めない返事・前編冬風 狐作
「また来てるし・・・。」
 その言葉と共に携帯を見ていた少女の顔が一瞬曇った。すると間髪置かずに指が動くと共に画面上の表示が変わり、ようやく安堵の表情を再び浮かべた。
「誰からのメール?」
 一部始終を眺めていた少女の女友達が机の向い側から、片手にファーストフード店のロゴの入ったカップを掴みながら尋ねて来た。ここはそのロゴのファーストフード店の店内、小声で返されてきた言葉を聞いて女友達もまた眉間にシワを寄せる。
「ウザイね・・・しつこくない?アイツ。」
「うん・・・かなり、アドレス変えても送ってくるしさ。」
「ストーカーじゃないそれって、警察とかに相談した方が良くなくない?」
「まぁね・・・それも考えてるけど、事は大きくすると面倒だから・・・。」
 呟いて少女はストローに口をつけ、女友達の言葉を聞きながら白い天井の蛍光灯を眺めつつ甘ったるい中身を吸うのだった。

「あぁ・・・届いたかなぁ、雪野さん・・・僕に無断で変えちゃうなんて酷い事してくれるよねぇ・・・。」
 同時刻、然程離れていない漫画喫茶の個室の中で片手に漫画を、もう片手に携帯を掴んだ一人の男が真に幸せそうな笑みを浮かべてその画面を見詰めていた。彼の名前は時野慶太、今雪野と読んだ少女にメールを送りつけた張本人である。時野にとって雪野は憧れにして理想の人だった、それは彼の内心では神にも等しいと書くのは大袈裟かもしれないがそれに匹敵するほどの想いを抱くその姿に、かつて学年でも有数の秀才としてだけ名を馳せていた面影は何処にも見当たらなかった。

 時野が今に至るまでの道は短く殆ど労を要しない物であった。ほんの数ヶ月前まで先にも書いた様な評判で知られていた彼は、恋愛とかそう言った物には無縁な学業一筋に打ち込む少年であった。そんな彼が変わったきっかけは本当に些細な事からだった。ある日の事1人で図書室にて勉強に打ち込んでいた時野は、息抜きに本でも読もうと荷物の一式をその場に置いて書棚の林の奥へと足を向けた。
 物語、小説、伝記・・・様々な棚を尻目に奥へと進む。彼の目指す種類の書籍の置かれている棚は図書室でも際奥にあり、正直そこに行くと埃がうず高く積み上げられた本と共にまるで地層の様に積もっているのだ。それは本の上ばかりではなく廊下、そして棚の上とその棚の付近の全てが埃の世界と言っても過言ではない。
 どうしてそこまで汚れているのか、理由は簡単である、その区画の掃除が全くなされていないからなのだ。この高校の創立は日露戦争よりも前の事、校舎の一部は創設当時の物を未だに使っておりその建物に多くが占められているのが図書室であった。そしてそれだけでもかなりの広さを誇るのだが、幾つか増築が成されており4つの建物に渡って広がっているのが現状である。ただそれも箱の様に広くしたというのでは無いから厄介な事で、既にあった建物の間を埋める様に最後の辺りでは建てられた事もあり、一部が大きく食い込み入り組んだ形をしている。
 当然そう言った箇所は死角であり見通す事は出来ない、また基本的に隅等にある為人気の無い本や時期の過ぎた内容の資料集などを捏ねて置くには最適の場所だった。そしてそれらは将来的には捨てられる運命の筈だったが、人間とは真に都合よく出来ている物で一度視界から消えてしまうと記憶もまた消えてしまうのである。だからここには先程も書いた様に正しく地層の如く、埃と共に無数の日に焼けて変色する等した教材も混じった、本来の主たるこの空間の棚の書籍との山が作られていた。
 その何者にもまず邪魔される事の無い静かな空間・・・埃っぽいという欠点を除けば、学校の敷地内にて最も自分を守れ出せるこの場所を時野は心置きなく好んでいた。これほど癒される所は無く、そこに恐らくずっと放置されて来たであろう置かれている本を手にとり、しばし読む事はこの上無い楽しみと言えよう。そして今日もそうしようと一歩一歩と近付き角にわずかに近付いた瞬間、ふと彼の耳には小さな物音が角の奥から響いている事を感じ取った。
「・・・・・・・。」
 それは女の声の様に聞こえた、声と言っても蚊の鳴く様に小さい物で規則正しい様だが、特に意味を持った物にはとれない。
"誰だろ・・・?こんな所で・・・。"
 自分だけの聖域である場所に入り込んだ何者か、時野は非常な興味を抱いた。そして彼は気が付かれぬ様そっと角から様子を窺い・・・目を細める。

 そこには1人の女子の姿が、ちょうど本の山の一角に置かれた数脚の椅子の内の一つに腰掛けてあった。その瞳は閉じられて全身から力が抜けている、ただ瞳を閉じている事を差し引いても時野にその顔の覚えは無かった。ただ校章の色が自分と同じ緑色、である事から同級生であるという事だけしか分からない。
"誰なんだろう・・・まぁ邪魔するのも悪いから・・・。"
 時野は非常に気になって仕方が無かった、その思いは自分だけの場所を他の人も知り使っていた事、同時に思い通りの行動が出来なくなった事への憤りとか喪失感を完全に超越しており、全く気にされないほどにまで高まっていたのだった。そしてその時以来、彼の脳裏の片隅には何処かあの寝顔が、加えて細い体が焼き付き常に付きまとうのだった。

 正体が判明したのは、それはそれから数週間も経過した頃の事だった。塾からの帰り道、ふと気分が向いて書店に立ち寄った時野は単行本を物色しながら店の中を、特に当ても無しに回って目を通していた。
"ふーん、まぁこんな程度か。"
 そうして大きく首を回したその時、彼の視線の先にはどこか見覚えのある顔が捉えられた。一旦通り過ぎてしまった視線を首と共に戻して、メガネの奥で更に目を細めてみたその顔はあの記憶に鮮明な、図書室のあの一角にて居眠りをしていた女子の顔ではないか。服装は制服ではない、しかしあの短髪は正しく・・・彼女がいるのは書店に併設された喫茶店の店内だった。
 入ろうか、入るまいかと思わず躊躇してしまった時野ではあったが見た所、彼女の周りには友人と思しき別の女子の姿が1人あるだけで他は一般の客で賑わっているのみだった。これは彼にとっては天恵とも言える状況であると言えよう、まず第一に人が多いと言う事は気が付かれ難い。少々不審な行動を取っても席を探している様に見せかければよいし、他にも色々と利点があるのは明らかであろう。
 それに気付いた途端、時野は勇み足になりつつも自制しつつ傍らにあった適当な漫画雑誌を手に取り買い求め、一旦外へ出て今度は喫茶店の扉をくぐった。そしてしばし待たされた後、ようやく通された席は何と彼女等の斜向い・・・その時内心にて彼はようやくある確信を抱いていた。

 恐らく、彼がある方向へと傾き走り始めたのはその間のわずかな時間に違いない。その場で首尾良く彼女の名前を盗み聞く事に成功した時野は怪しまれぬ様、注文した者を平らげてから足早にその場を立ち去った。そして家に帰るとすぐに学年名簿を開いた時野は名前を探した。田舎の高校ではあるが単独では立ち行かなくなったとは言え、複数の高校を統合して出来たのだから規模は今の所は大きい。それだから探すのは手間取るだろうと予想していたが、幸いにして彼女の姓の頭文字と同じ人は少なかったのでそう労を要する事は無かった。
「向山雪子・・・かぁ・・・。」
 呟くと共に脳裏に浮かび上がってくる彼女の顔・・・それは顔と名前が一致した事にかすかな喜びを感じ、そして心に引っ掛かっていた憑物がようやく落とせた瞬間であった。だが人間とは因果な物でようやく心を軽くする事が出来たと言うのに、その場で再び重くし始めてしまう。
 どう言う事かと言えば要は更なる興味を抱いてしまったと言う事、つまりもっと彼女を雪子について知りたいと思ってしまったのだ。その時からこれまでは全く思ってもいなかった、趣味を始めとした様々なプロフィールへの関心は急激に強まり、最終的には名前以上に彼の心を奪う事となった。そして結果としてその日々強まる欲求へ対処すべく彼は行動する事となる。
 それは最初の内は自分で御しつつ能動的に立ち回ってはいた。しかし何時しか受動的に欲求に付き動かされるかの如くになり、やがては御している筈の欲求に付き動かされる形で求めまわる様に変貌を遂げていく。これから予想される様にその後の展開は酷い物だったと言えよう、時野の一方的な思い込みそして片思いに彩られた愚かで馬鹿馬鹿しい傍から見れば良い見世物であった。
 だが当事者にとっては双方共に重大な問題である事に変わりは無い。彼は無駄な情熱を費やし、彼女は要らぬ不快感を抱き気を散らす・・・2つの異なる必死さの競演であり争いとも言えた。そして何時終わるとも知れぬ神経戦へと深度化していくのである、だがその様な戦いを何時までも続け耐えられるほど人は頑丈ではない。
 特に邪とは言え情熱に支えられた時野と、本意ではなく巻き込まれた雪野とではその差が余りにも大き過ぎた。だからこそ心から時野とこの事態を嫌悪していた雪野は解決の道を模索していった。まずはこの事態を理解してくれる人物を求め、次に解決への道筋を己と共に考え見つけ歩んでくれる者を求めた。
 喜ぶべき事に、彼女にとってそれはそう難しい話ではなかったと言えよう。何故なら彼女には勉強一本槍の時野よりも豊富な人間関係が存在していたのだから、それは学業に限らず趣味を始めとした多岐に渡るかけがえの無い物を持ち合わせていたのだ。それに加えて雪野には共に想い合う仲の異性がいた、対して方や片思いに過ぎない異性・・・その関係の強さの差は目に見えていた。

「なんだ、また来たのかよ・・・しつこい奴だなぁ。」
 雪野からの訴えを聞いていた1人の男が途端に顔をしかめ、次いで呆れた表情を浮かべて溜息を吐いた。
「ごめんね、折角京一が手配してくれたのに・・・。」
「何、気にするな・・・ばれてしまったものは仕方ない、また変えれば良いだけだし。でもそろそろいい加減にしてもらいたいね。何処から仕入れているのかは知らないけれど、そろそろ黙らせないと限がない。」
「そうなのよねぇ・・・何か良い方法はない?京一、解決するなら私何でもするからさ。」
 そう言う彼女の顔は切実さに溢れていた、そしてその影には何処か焦燥した気配が漂っている。それを一目見てしまった京一は、雪野だからと言う事もあるのだろうがとてもいても立ってもいられない気持ちとなってしまった。解決してやらないと・・・思いに突き動かされる様に京一は頭を絞り始めた。


 後編へ続く
読めない返事・後編
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