赤い女神・下冬風 狐作
 目を閉じていても砂が目に入った様で痛みが走るも、取り除こうと向ける手にも砂が付いている。何とか払って時間を掛けて落ち着かせると辺りは真っ暗闇であった、足元の感触から自分の後方は全て砂であり前方には硬い先程まで歩いて来たのと同じ路面が続いているのは分かった。空気の流れは無いようだ、カナリヤではないのでガスがあるかどうかは分からないが恐らくは大丈夫な気がした。
「ペンライト・・・ライトはどこ・・・?」
 その一方で美沙はペンライトを失くしていた。探そうにもどうも手立てが無い、深い闇の中だからだ。彼女の手には砂の上に落下するまでは確かにペンライトを握っていたと言う感触が残っていたので、恐らく滑り落ちていく際に手から離れて砂の中に埋まってしまったのかもしれない。勿論砂の上に残っていたとしてもその拍子に電源を切れてしまったならその位置に関わらず問題に大差は無い。要は再び手に取り戻すのは困難と言う事なのだ、その時彼女はただでさえ何も見えないその暗闇が尚更一層濃くなった様な錯覚を受けた。
 それでも何とかして取り戻そうと探し回る。明かりが無いことには何も始まらないのだから砂塗れになる事も厭わずに果敢に砂山を探索し、そしてようやく着地した付近と思われる辺りの砂の中よりペンライトを掘り出した。ライトの電源は予想通り切れていて再びボタンを押すと、勝手の分からないこの空間にて自分の最大の拠り所となる光が眩いばかりに照らし出した。これほど心が安らいだ事は無い・・・気分は光が無い時と比べて信じられないほど軽くなっていた。
 そして辺りを光で照らし出す、そこは想像していた新たな通路ではなく一室の狭い小部屋。さきほど自分が上から落ちてきた穴以外には外部からは全く遮断されていた。部屋の半分ほどは砂山で覆われており壁には寸分の隙間もなく彫られたヒエログリフ、残された本来の姿そのままに現している箇所には石段がありその上には・・・もうお約束とまで化した感のある棺が置かれていた。どうもここは何者かの墓であったようだ、恐らくは王族かそれに匹敵する者の。しかしどうして回廊の床下に設けられているのかがどうもおかしな点ではあった。

「墓泥棒対策なのかしら・・・でもこんなの聞いたこと無いし、まぁこんな破片がある事からしてかつては上下を石版で大磯の中に砂を詰めていたのが、下部の石版が老朽化で破損し砂と上部の物が落下したという事なのだろうけど・・・。」
 と砂の中から半ばのみを突き出していた端の欠けた石版を手にして呟く、通常玄室と言うのは墓の最深部に設けられている。それはピラミッドにしろツタンカーメンにしろ同じだ、長さ構造には相違こそあれ基本的な配置にそう差は無い。
 そして大規模になるにつれそれだけの有力者の物と言うのもまた事実である、回廊はまだ続いている気配があったし一体どの様な者が埋葬されているのかは容易には想像できなかった。古代エジプト史の研究者であれば何かヒントが掴めるかも知れないが、美沙は生憎地域民俗学・・・交流史等の関連でそれに関することなら知っていた。それ以外は趣味的にヒエログリフを読める様にしただけであり考えが及ぶ筈が無いのだ。

「本尊はともかくとしてとにかくはここに何の目的で作られたかよね、殉死にしては妙だし・・・でも墓を守るという意味合いなのかしら?それならまだ考えられるか・・・。」
 専門外とは言え流石は研究者である、次から次へと考えを巡らせていく。そして棺に彫られたヒエログリフへと目を走らせると頭に引っ掛かった幾つかの単語の中に"セクメト"と言う物があった。読めるとは言えその意味を解するとなると学んだ際に読んだ本に載っていた単語程度しか知らず、余りに長かったり神聖な事柄に関する物については要領を得ない。故に今回もその様な分からぬ単語が幾つも頭に浮んだ訳であるが、その中で最も多く登場したのがこの"セクメト"なのだった。
"セクメト・・・この中に埋葬されている人の名前かしら?多分そうね。一体どんな人が入っているんだろう・・・開けてみたいなぁ・・・。"
 美沙はそう決め付けると今度はその中身、つまりは中に入っている筈のミイラに興味を持ち始めた。当然ながら墓を暴いて金品だけをかっ去ろうとか、そう言う事をしようとするのではない。ただ純粋な好奇心による物である、勿論彼女とて墓を暴くのは余程の事が無い限りしてはならないタブーと承知している。だがここ数百年の間ならいざ知らずもう何千年も前の墓、埋葬された人の魂だってもう何かに転生してここにはいないだろう、それに多くの墓が考古学者によって暴かれているのだから自分だって・・・。
 そして手をかけた、石造りの棺の蓋は当然ながら重い。もしこれがツタンカーメンの物の様に豪勢な装飾がなされていたらどうなっていただろう・・・そんな事を思いながら精一杯の力を加え、わずかに持ち上げてそのまま押しずらす。下手をしたら指を一二本失いかける危険もあったが何とか乗り切って、そのまま勢いに任せて蓋を更に押した。すると蓋はバランスを失って棺の上から外れ棺と壁との間に出来た空間へと落下し、砂埃と揺れとを起こして静かになった。
 もう棺の中を見るのに遮る物は無い、わざわざ楽しみの為に目を瞑っていた美沙はどの様な立派なミイラが眠っているのか期待して、そっと目蓋を開けた。そして続くは喜びの声・・・の筈が何も聞こえなかった。

「何よこれ・・・空っぽじゃない・・・どういう事なの?もう盗掘されたとしても綺麗過ぎる・・・。」
 彼女の言葉の通り、棺の中には何も無かった。埃すらも積もっていない見事に何も無い棺の中・・・盗掘防止用のダミーなのならもっと目立つ所にある筈である、ただ見事なまでに真紅で彩られた以外には何の特徴も見られなかった。それでも何かあるかも知れないと勘繰った美沙は手を差し入れた次の瞬間、まるで見えない何者かに引き摺り込まれる様に棺の中へと入り込んだ。
 そこからは信じられない光景が続いた、あれだけの勢いで引き摺り込まれ衝撃を感じたと言うのに痛みの類は全く無い。その事に驚いていると今度は何か重い物が擦れる様な音が耳に届き、何と先程奥へと外し落とした蓋が戻って来て再び蓋として本来の位置に戻りつつあるではないか。驚きの悲鳴を上げようとしても声帯が麻痺した様に機能せず強く息が吐かれるのみ、出る筈の脂汗すらもかかれないと言う有様。そして目を見開き見詰めるその場で蓋は重い音と共にしまり、棺の中へと閉じ込められた。
"なっ・・・何、助けて、誰か・・・何々が起きたのよっ!?"
 瞳と口とを限界近くまで大きくし息を荒くして恐怖に脅える美沙、だがその時何者も見えない先程以上の暗闇の中であるのに何かが見えた様な気がした。それは半透明で青白い光を放つ物、空中を紫煙の如く漂いそしてそれは一瞬消えた後再び現れ見ている前で形となった。その形は漠然とした物だが人の様な格好・・・女なのだろうか、とにかく人の形となって宙に向いたまま向き合う。
"ゆっ幽霊!?何で・・・あぁっごめん、開けた私が悪かったんです。許して、お願いします、何でもしますからっ。"
『言ったな、女・・・その言葉を・・・。お前はラーを信じるか?』
 彼女が誰とも知れず、恐れと矢張りあった墓を暴いたと言う後ろめたさから大慌てて混乱の中その様な思いを紡ぐと、今度は脳裏に冷たく思い女の声が響いた。それはより一層混乱を深めさせる物だったが美沙は不覚思う事無くすぐさま了諾して返す。
"はっはい信じますっ信じますからっ!だから許して下さい・・・!"
『・・・良かろう、許してやろう。お前の魂を・・・残されしお前の肉体は我が貰い受けるとしようか。良いな?』
"えぇ良いです、良いですとも許してくれるのなら私の体なんて好きな様に・・・えっ!?ちっちょっとまさか・・・。"
 美沙はようやくそのおかしな内容に気が付いた。そして別の意味で慌てようとするが事は既に遅かった、急激に意識が遠退いて行き寒さを感じる・・・体の芯から冷えたのとは別の有無を言わせない真の冷たさ、何とも形容し難いその冷たさに恐怖する余裕も無く淡々と受け入れる自分に疑問からも示せない。唯一分かるのは自分が何処かへと旅立つと言う事、疑問も何も無いただそれだけが唯一の心理となっていた。そして蝋燭の火が消えるかの様に消えた。

 一方残されたのは抜け殻となった体、瞳を閉じて眠っているかのような体は息をしていない以外はまだ温もりが残っている。その様な体の上に滞留するあの青白い気配、存在は確かにそこにあった。そして何時しか静かに全身を包み込むと体は底から5センチほど浮遊し、気配の半ばは鼻を通じて体内へと消えて行く。残りも身に纏っている物そして皮膚に染み込んで行き・・・ある時点にて身に纏っている衣服が変容し始めた。同時にその体も変化を見せる。
 鼻を中心に前方へと持ち上がり小山の様な格好になり、先端には黒々とした形に収められた鼻と平板な人中を介して唇を失った口があった。そして何本かのヒゲが生え、頭頂に近い方へと移動し丸くなった耳、ショートカットであり茶色に染められていた髪毛は豊かに長く厚みを持った漆黒の物へ、他の表面は薄黄色の細やかな貼り付く様に生える獣毛で覆われていた。そして体へと目を回せば全体的に大柄になった様だ、低かった乳房は丸みを持った適当な大きさへと膨らんで首筋までが矢張り顔と同じ毛が生えていた。
 変化は体のみに留まらずその衣服にまで及んだ、軽快で活動的な服装は一旦何もかもが融けあった様になりそこから分化していく。腰から下を足元まで追おう白地の薄いスカート、その上の部分は金色に輝く黄金の装飾品を身に付け緑色のエメラルドがアクセントとして大きなスペースを取る。そして首筋にもそれと蔵ぼれば細いが同じく黄金の装飾具、そこから左右にY字を描く様に白いスカートと同じ布地が走り、胸の多くを覆って背中へと周り腰元の装飾具にて再び合流していた。
 他にも腕や足首などに見られる輪にして巻かれた黄金の装身具・・・非金属でない物から現れた黄金、それこそかつて中世ヨーロッパにて多くの錬金術師が目指した黄金の生成に他ならない。そして一段楽した所で再び何者の力に依らず棺が、今度は横で無く上方へと上昇していく。どうした訳かその部屋にはどこからとも無く明るい穏やかな光が灯っていた、あの砂の山も無くなり代わりに現れたのは荘厳な空間。狭いながらも威厳と気品が満ちている中、蓋の持ち上がった棺の中から影が起き上がる。

「全く我とした事が情けない・・・最も、ようやく酔いも醒めた様であるし・・・。」
 棺から出、それを背景に呟く何者か。それは女であった、だが普通の女ではない、その身に纏う物は博物館等にて見られる古代エジプト神の姿であった。そしてその顔は更に異なる、それは雌ライオンの物であった。開かれた瞳はエメラルドに輝き妖しく縦の瞳孔が浮かぶ・・・それは神話においてラーの名の下にラーを信じぬ人間を殺戮したと伝えられる女神、セクメトその姿だったのだ。
「さてとこうして目覚めた手前、課せられた使命を果たすとするかな・・・楽しみだねぇ・・・。」
 そう呟くと一歩前へと踏み出した、壁であった筈の場所からは長い回廊が何時の間にやら出現している。等間隔に立つ柱の間、遠くに輝く光の中へと消えて行った。かつて余りに大規模かつ徹底した殺戮を展開したが故に、自らの命じた事を思い直したラーの送った赤いビールによって酔わされて、その使命を忘れていた女神は今ここに甦ったのである。しかしこの遥かなる時代に何を成すと言うのだろうか、それは誰にも分からない。ただ何かをする・・・それだけは確かなのだ。


 続
赤い女神・極東の街・第1話
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