赤い女神・極東の街・第1話冬風 狐作
「へぇ、それは面白い話だね」
 みぞれ交じりの風が吹く冬の街、コートを脱ぎながら聞いた話に対して陽平はどこか聞き流しながら返した。それはある種の相槌と言うべきだろうか、取り敢えずかけられた言葉に対して礼儀として返す、そんな具合であったから言葉がすぐに続いた。
「面白いってそりゃそうだろう、普通に考えたら有り得ない話だからな」
「その通りだよ、あの事故で生存者なんていないってのが公式な話じゃないか」
「つまり与太話って捉える、そうだろう陽平?」
「その通りだ、シュッカート。そんな噂話を聞いた、そういう事だろう?」
 部屋の中に満ちるエアコンからの暖気、それに体を多少伸ばしつつ彼は更に言葉を返す。ここは彼の事務所と言うべきだろう、共に出資して経営する仲間のヨアヒム・シュッカートはそんな彼に対して幾らかの訛りを除いたら、下手な日本人よりも流暢な日本語にて色々な情報を回してくる。勿論、それから色々と稼ぎのタネにつながる事もあるので陽平もその都度耳を傾けているのだが、半ばは他愛もない、特に意味がない、あるいは役に立たないものである事も多い。
 今、耳にした話もそうした類であった。幾年か前のアフリカで発生した航空機事故、邦人女性が巻き込まれているとして注目を集めたが乗客乗員全員死亡、かつ現地情勢不穏の為、注目が集まっている間にさしたる続報もないまま新たにもたらされた出来事にすっかり注目を奪われてそれっきり、との具合になっていた一件だった。
 陽平にしてもそうした報道の事等、すっかり忘れていたもの。ただ言われてみるとあったな、と記憶の内から引き上げられる程度の印象は抱けていた。だからシュッカートのもたらした内容と照らし合わせた結果、それはないだろう、と判断出来た次第。
 そもそも遠いアフリカの話、幾ら彼等が事業として小規模ながらも輸出入等に携わっているとは言え、アフリカとの取引はそうあるものではなかった。特に事故の起きた地域は下手に取引をすれば制裁対象となりかねないのもあるから、とても手出し出来る話にはどうしても届かず、またそうとは認識出来ないものだった。
 だから陽平はシュッカートは噂話として聞いた程度の話を挨拶代わりに寄越してきた、とすっかり捉えていた。しかしどうやらそうではないらしい、と考えを改めたのは間もなくの事。それは彼の机の上に置かれていた幾らかの書類、その内のひとつをシュッカートがわざわざ引っ張り出して彼に読む様に、と迫って来たからである。
「全く、大分強引じゃないか…珍しいね、手書きか」
 シュッカートが陽平に示した書類、それは手書きの文面。今時、完全に手書きとなるのは中々に珍しいものでその手触りすら、何だかしばらく歴史が遡ったかの様なそんな心地で彼は視線を文面に落とす。恐らくは万年筆か何かだろうか、インク特有のにじんだ文字の連なりが伝えんとしている内容には最初はふとした期待を、しかし読み進めていく内に大きな疑問符が膨らんで行き、終いにはさっと読んだ振りに近い具合になってシュッカートへ言葉を発する方に意識は傾く。
「どうだい?」
「どうだいも何も、何だいこれは?まるでうちに何の関係があるのか、と言う内容じゃないか」
「まぁそう言うと思ったよ、君の事だから。でも陽平、だからこそどうして届いたのか、考えてみる価値があるんじゃないかと思うんだ」
 考えてみると、とはシュッカートの口癖であり、また彼の行動の基本でもあった。確かにそう言い得てるところはある、どうしてここがこうなっているのか、どうしてこれはこうなのか、一歩立ち止まってみた事で気付いたり、見直せたり、そうした事は振り返れば幾らもある。
 しかし、今、手中にある手紙からはそうしたものはどうにも陽平は見い出せなかった。それ故にとても表情にその気持ちが出ていたのだろうからシュッカートは説明を続ける。それは丁寧に、そもそもどうしてこの手紙がこの事務所に届いたのかをきっかけから説明してくれたのだが、どこかで納得いかぬまま聞いていた陽平にとり、その多くは耳から入って消えていくだけでしかなかった。

 暖かい空間があれば圧倒的に凍える空間がある、それが冬。家々の中は暖房の暖気で満たされている一方、ここしばらく日本列島を覆っている強い寒気にはとどまる気配がなかったからみぞれは次第に雪に変わるのも時間の問題だった。
 特に最初に雪に変わるのは大体において湿気があり、そして風が変わりやすい場所となるもの。そういう点で見れば、川沿い等は真っ先にそれに当たる訳であり、次いで港湾地帯となれば同等程度の意味合いを有する。加えて人の通りが時間帯によって限られる場所となれば、一度降り積もり出したらその後の展開とはおおよそ想定出来るからこそ彼、警備員は懐中電灯片手に防寒着で身を固めながら担当している地区を巡回していた。
 巡回自体は定められたものだった。ただ何時もよりも念入りに、とは彼自身も考えていたものだし、勤務に就く前の点呼の際にも悪天候が今後予想されるので確認がまだ容易に出来る内にしっかりと見ておく様に、とされていたから吐く息の白さに時折注目しながら、幾つもあるドアや南京錠の状態を一つ一つ確認していく。
 皆して金属で構成されたそれ等の冷たさは支給されている軍手越しにも強く感じられる。加えて今は止んではいるが先ほどまで降っていたみぞれによって水滴を纏っているから注意したところで、染みてくる水分が軍手の効果を弱めてならなかった。とは言え外せば直接皮膚が冷たい外気と触れてしまうもの、それにより更なる辛さが来るのを思えば巡回が終わるまではめていて、終わり次第事務所のストーブにさらして温めよう、とするのが最善の考えであったし繰り返し伝わってくる金属の冷たさがそれをより補強してくれるものだった。
「ふーさむ…っ、んと少しここで中に入れるから助かるわ」
 確認出来る内にしっかり、との指示を守る通り、彼は職務に対する忠実さを強く持ち合わせた男だった。だから仲間の中には勝手に省略してしまう事もある区画への立ち入りも怠らない。最もその空間は暖房こそないが建屋の中であるから風雨からは無縁故に、一時をしのぐ場所として貴重な場所と彼は実利的な面でも認識していたから特に冬のこの時期は決して欠かす事は無かった。
 当然ながらその中を規定通り、もといそれ以上にしっかりと巡回するのは手間なものである。手早く終わらせてしまう仲間達よりも余計に時間はかかってしまうばかりか、その後に何かあれば元々余裕のない設定となっている巡回時間を超過してしまう事すら容易に起きてしまう。
 しかしそうなったとしてもしっかりと報告して対処すれば良いだけの事、との考えが彼にはあった。そしてそれは彼にとり職務上の自信のひとつでもあったから、それらの気持ちのままに彼は今日はいつも以上に逸る気持ちで中へと立ち入る。そして扉が閉まったのを確認してから大きくため息を吐きつつ、残置灯の明かりを頼りに窓のない空間の照明を灯す。
 窓のない、とは書いたものの正確に言えば換気用の通風孔の類はある。しかしその中にある機器は時として大きな騒音を発する事もあるから必要最低限しか設けられていないので、結果として窓は無い、と出来るだろう。そんな巨大なコンクリートの空間の中は冷え切ってこそいたが、矢張り風がないだけで全く違うもの。それを実感しながら彼は機器の間を行く巡回用通路へと入り込む。

 造りからしたらそれは地下に向けて掘り下げられた箱。その中に金属とコンクリートの組み合わせによる区分けが三段ほど、そしてその多くの箇所をつなげられた様々な機器が置かれて稼働している。技術的な事は単なる警備員である彼には分からないし、何より把握する必要は求められていなかった。しかし、どう言った施設であって巡回時に確認すべき事、そしてその中で異常と明らかに認められて通報すべき事象はどれか、と見分けられる程度の教育は受けていたからそれ等が分かる点を一つ一つ見て回る。
「よし、よし…こちらもメーターは規定通りっと」
 静かな空間に彼の確認の声、そして機器の唸り音に掻き消されがちだが金属網からなる巡回通路を踏む足音が時折響く。
 最も、通報が必要な事態に当たった事は殆どないのが本当のところだった。機器自体は遠隔で監視している部署があるし、その部署の監視体制の漏れを補うのが役割の巡回であるのもまた承知している事。だからこの空間を丹念に見たところで、との考えが同僚の間に散見されて黙認状態に近い形になっているから前述の通りになっている次第であり、この空間を見て回るのをしっかりとこなす彼はどこかでは真面目、裏を返せば融通が利かないと評する向きがあるのも分かっている。
 即ち、彼のしっかりと巡回に努めるとの自信はどこかで他者に対する優越感の裏返しでもあった。だから時として形だけとなり、その中身が薄れている時もあったし、ことに今日の様な悪天候の際はしっかりとしているのだから、との気持ちから必要以上に気が緩んでしまう事もまたしばしば。
 言うなれば、確認こそすれど周りへの注意が弱くなる、外の悪天候の中にいた時の方がずっと感度のアンテナを張り巡らせていると出来るだろう。
 正にそんな具合の中、一段目の確認を終えて二段目へ、そして薄暗い空間を抜けようとした時だった。生あくびすらしながら更に踏み進もうとした瞬間、ふっと彼は何かを感じる。外見的には少しばかり足が緩んだ、だろうか。前へ前へ、との勢いがわずかに弱まってやや前傾気味だった姿勢が直立側に戻ろうとした時、その鼻腔はこの饐えたコンクリートと金属、時に機械油の香りが混ざった空間にしては異質な生物的な強い香りを捉え、そして背後からの脈打つ暖かさに思わずのけぞったのだった。


 続
赤い女神・極東の街・第2話
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