赤い女神・上冬風 狐作
「くぅ・・・ここは何処なの。水・・・水が欲しい・・・。」
 何処までも続く砂と岩の山並み、見上げれば乾いた青い空に浮ぶ白熱した太陽。砂混じりの熱風だけが静かに吹くこの巨大砂漠に動く物の姿はない、何故ならそこは生物にとっては死の世界に過ぎないからである。よって鳥一羽として飛んでいなくて当然なのである。
 だが良く目を凝らせばその砂の上を動く影が、それはすっかり憔悴しきった人間の姿であった。身に纏っている服はすっかり汚れてヨレヨレ、動いてこそいるものの当ても無くウロウロとしている様にしか見えない。そして口から時折ぼそっと呟かれる言葉はこの辺りの言葉ではない、日本語。元の色が薄いせいですっかり赤く皮膚を腫らした痛々しい体の女の名は宮元美沙、26才の日本人である。美沙は本来ならばこの土地にいる筈の無い者であった、だがある一つの不幸な出来事が彼女をこの灼熱の死の砂漠へと連れ込んだのである。
 そもそも彼女がこの土地へ来たのは研究の為、大学院にて地域民俗学を専攻している彼女は西アフリカの各部族の住居について研究を行っていた。そのためこれまでにも幾度と無く同地を訪れており、成田〜ロンドン〜ナイロビ〜アディスアベバと言う道程は年に数回は利用するすっかり馴染みのあるものとなっていた。
 ところが今回に限っては往路こそそのルートで来たものの、復路に限ってはナイロビの空港で発生したトラブルの為飛行機が飛び立たず、またパスポートの期限も迫っていたので急遽カイロを経由して成田へ向かう事にした。

 航空券の変更は意外なほどにスムーズに出来、その他の手続きも整ったので無事カイロへと向かう飛行機へ搭乗。定刻通り飛び立ち、始めてみる眼下の光景に見惚れている内に何時しか彼女は居眠りを始めた。疲れもあったのだろうが、恐らく空港に着いてからのドタバタ騒ぎからようやく開放された事を実感した為であろう。その寝顔は何とも安堵感に溢れたものであった。だが騒ぎは空港で完結した訳ではない、この飛行機の中にも続いていた。
 騒ぎが再び目を覚ましたのはエチオピア領空を出、スーダンとエジプトの国境地帯に近付きつつある所であった。眼下に広がるのはヌビア砂漠、サハラ砂漠として知られる世界最大の砂漠の東端に位置する砂漠である。その時、まだ彼女は夢を見ていた、他の乗客・乗務員も皆すぐそこまで迫り来る危機には全く気が付いていなかった。
 そして誰もが気が付いた時には全てが終わっていた、飛行機は爆発し空中から地上へと散り散りになってばら撒かれる。金属も人も座席も何の区別も無く一緒くたになって、貨物室が爆発したのだ。何物かが仕掛けた爆弾が炸裂したのだ、当然美沙もまた落下していく。ただ幸いにして最後尾の座席に座っていた彼女は上手い具合に外れた後部の椅子に座ったまま落下し、また高度も低かった事もあって椅子と共に最後尾の機体がクッションとなって打撲こそは負ったが命は助かり、体もほぼ無傷で生還したのだった。
"助かってる・・・私・・・。"
 死を覚悟して自ら気を失っていた彼女は、恐る恐る目を開けて自分が生きている事を知って驚きと共にこれまでの感情が爆発してそのまま泣きじゃくった。そして一頻り泣いて止むとシートベルトを外し地面へと降りる、辺りを見回し何者も自分以外にはいない事を見るとフラフラと砂漠の中を歩き始めた。うわ言の様に何事かと聞き取れない言葉を呟きな進むその姿は哀れとしか言い様が無かったが、その様な暴挙に出たのも一時的に気がおかしくなっていたからであろう。
 ようやく正気に戻った時、彼女は自らの失態にようやく気が付き悔やんだ。現在位置が何処なのか全く把握出来ない事に、そして戻ろうとしても風で足跡は消されてしまい戻る事は不可能な事に、その場で美沙は正気を失っていた自分を悔やみ責めた。だがもしかしたらと言う一縷の希望を抱き、恐らくこちらから来たかも知れないと言う直感を信じて歩き始めた。絶対助かるのだと言い聞かせて自らを鼓舞しながらの行動だった。

 そして半日余り彷徨ったが未だそれと思しき場所に付くどころか見えてすらいない。辺りの地形も砂が減り岩が多数転がった荒涼とした物になり、地形も次第に険しくなってくる。歩いている内に自然と最も低い所を進む様になり、何時しか崖の谷間の様な中を歩いていた。風がその狭い空間を通過する音等でどうにも薄気味が悪かったが、一先ず日影が出来たのは幸いな事である。
 相変わらず喉は渇き切っているが、直接日の光を浴びないだけでこんなに気持ち良い物なのかと改めて実感しつつ、ちょうど見つけた岩と岩との間の座り易そうな高さになっている石の上に腰を下ろして考える。これまでの、空港のきっかけとなった一件から今のこの瞬間までの全てを可能な限り冷静になって整理してみたのである。
 だが相当疲れていたのだろう、何時しか彼女は再び目を閉じていた。彼女が眠るのは飛行機以来の事、そしてその表情は機内でのまだ安楽な時間の物と全く変わらなかった。折りしも空には雲が広がりあの烈火の如し太陽の日差しも遮られる。元々地形の関係でこの谷底には直接光は届いていなかった為、風と共に涼しさが増し一時の安らかな一時を彼女に与えていたのであった。
 だがこれだけで終わる筈が無い、自然はと言うよりも彼女の摂理はまだ全てを出し切った訳ではなかった。幾つか残されていた訳である、そしてそれは時間を掛けてじわじわと美沙の元に迫っていた、谷間を奔走する鉄砲水となって彼女の元に・・・。

 砂漠の地図などを見ると点線で"ワジ"と書かれた物を幾つか目にする事が出来る。これは所謂枯れ川ではあり、年に数回突発的に砂漠に降った雨が流れる以外は単なる窪地として存在し、砂漠を行く者にとっては中々確実な道無き砂漠の中における貴重な道標ともなっている。
 しかしながら普段は人に対してある程度の恩恵を与えてくれるこのワジは時としてその本性を表し、人を襲う。それが貴重な砂漠での降雨の時で、ワジへと砂に吸収される事無く集められた水は一気に鉄砲水として流れ下る。その容赦ない流れは時として不運にも、そのワジにてテントを貼り一夜の宿としていたキャラバン隊が飲み込まれる等の悲劇が有史以来、人が砂漠を横断する様になってから何度繰り返されてきた事か想像するに難くない。ただその数を把握するのは無理な話である。
「って・・・何よあれ!?」
 地響きを立てて流れ来る鉄砲水に気が付いた時には、もうあと少しで手が届きそうな位置にまで迫っていた。慌てて美沙は逃げようとするが走った所で追い付かれて飲み込まれる、ここは一先ず流されないように何かに隠れよう。そう考えた彼女は咄嗟に辺りを見回して、丁度目の前にあった壁に出来た窪みの中へ飛び込む。
 飛び込むと同時に思いっきり頭をぶつけて痛がる間も無く、轟音と地響きと共に鉄砲水がほんの数秒前まで彼女が腰掛けていた岩を襲った。窪地にも水が入り込み猛烈な引きが襲ってくる。だがここは何とかして流されない様にと手を伸ばして岩盤に手を掛けて力を込めたその瞬間、頭に感じていた圧力が消失した。頭の先には岩盤があった、それが必死に全身全霊を込めてその窪みから流されまいとする彼女の力を受けていたのだが、それが急に消え失せてしまったのである。
 すると当然ながら傾斜がそちらへと付いている為、流れ込んできた水と共にその秘められた岩盤の先へと彼女は進む。とは言えそのままどこまでも続く洞窟の様なものではなく、何か大きな空洞と言った感じであったので水と共にそのそこへと落下した。今度は背中を打ち全身に痛みが走るもそれまで、水の流入はすぐに止み幾つかの水滴が垂れるのみ。
「イタタタ・・・ここは一体何なの?」
 水溜りの中でようやく体を起こした美沙が辺りを見回すと、そこは何とも場違いな空間であった。まず自分の左右に空洞が続いている事、一応ここまでは何とか自然でもありうるだろう。だがその次以降、そうその空洞の形状である。何とこの空洞は空洞と言うよりも通路と言った方が言い代物であった。
 まず全体が正方形、つまり縦も横も高さも全てが同じ寸法に見える。その表面はコンクリートの様に斑の無い完全なる平面で岩で作られており、その路面から10センチ余りと同じく天井から10センチ余りの位置には帯状に文様が彫られていた。そして暗がりながらも目を凝らしてわずかに先程ここへ落ちてきた穴から漏れる光、壁と天井とが接する辺りに穴は開いているから結構な高さからの光によって何とか見る。
 そこまでしてようやく見れた目の前の帯状に引かれた線の中には、誰にでも見覚えのある物、神聖文字、ヒエログリフが彫られていた。

「ヒエログリフじゃない・・・と言う事はここは何?古代エジプトの遺跡って事?でもこんなに構造の物のは聞いた事が無いし、まさか未発掘の遺跡なの?そうだったら凄い事だわ・・・正しく怪我の功名じゃないの、私。」
 その時の私は確かに興奮していた、早口で今までの疲れは何処に行ったのは何処へ行ったのかと言う位。ただ今思うともう少し冷静になっていたらと思う次第なのです・・・。

 美沙は興奮の余り、何も考えずにヒエログリフを追って奥へと進んで行った。片手には何時の間にやら懐中電灯、ふとポケットに入れて置いたその非常用懐中電灯を頼りに暗闇の中でヒエログリフを読みつつ進む。趣味でヒエログリフの解読術を完全に覚えていた美沙は、何時しか解読している内にまるで唱歌でも歌うかのようにその内容を唱和していた。これは本当無意識の行動であったので彼女にとっても意外な事であった、だがどうにも止める事が出来ぬまま自然と唱え続け奥へと進む。
 そして数回角を曲がり階段に躓きつつも何とか上りそしてまた進む・・・まるで迷宮の様な廊下をひたすら読みながら進んで行った。いきなり現れる階段には難儀したがその多さ、そして構造の複雑さからここが知られざる地下神殿かその類である事は間違いが無かった。
"かなり大規模な施設ね・・・もしここから脱出出来て発表出来たら私は・・・凄い事になるわ。"
 その様に思った途端、急に彼女の中には様々な物が込み上げその首をもたげ始めた。結果として渦巻き交錯する多くの思い・・・名誉欲が突出して現れ始めた。神殿発見をスクープし第一発見者、飛行機事故に巻き込まれて奇跡の生還を果たして女として名を売る・・・他にも様々な物が、先程の興奮とは異質で全く関係の無い、私生活における物まで今の状況による物と共に渦を巻いていたのだ。
 いけないとは分かりつつもついつい夢中になり妄想してしまう美沙。それでも唱えるのを辞めないのは中々の物であるが、逆に言えばこの2つに殆ど神経が行ってしまって他の事に関しては注意散漫になっていると言えよう。そのよく現れた結果がそう階段での躓き、だがこれは小さな事象に過ぎず仮にそのまま転んでも被害は薄い。これこそいわゆるハインリッヒの法則と言うものなのだろう、そして最大の事象がもう間も無くも置かずに彼女の身に起こった。

 突如として回廊から美沙の姿が消えたのだ、どこにも回廊以外に空間は無い筈の空間で・・・だが良く見ればそこには、幅1メートルほどの人工的に作られた空洞が床に設けられていて、そこが見えない事からかなり深いようである。それでも普通に歩いているならばペンライトの光ですぐに突き止められる筈だろう、しかしご承知の様に沙耶は壁に彫られたヒエログリフを読みつつ進んでいた。だから結果として気がつくことなく足を踏み出し・・・そのまま空洞へと落下してしまったのだ。咄嗟の事過ぎて驚きの声も出せぬまま美沙の体は更なる奥へと落ちて行った。
 落下した体はそう長く落ちる事は無く硬い路面ではない、柔らかい砂の様な物の上に着地した為衝撃の他には何も無かった。お陰で怪我も無く砂塗れになっただけで助かるも今度は傾斜の急な砂の山を滑り落ちようやく止まった。


 下編へ続く
赤い女神・下
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