とある学生生活・第1話・麦茶の始まり 冬風 狐作
「いやー暑いな、本当暑い」
 梅雨も明けようかと言う時期、1人の青年がいかにも暑そうにそう言葉を発した。
「あぁ全くだ」
 それに対して返ってくる言葉、矢張り同じ様な青年の言葉で幾分声の感じが低いのが特徴であろう。
「ん…何だ、急に黙って」
 団扇を仰ぎながらかったるそうに呟く青年は椅子に座り、前にある机の上に足を伸ばして窓からわずかに吹き込んでくる風を全身で受けようとするかの様な姿勢を取っていた。かすかに窓際に吊るされている風鈴が鳴っている。
「暑いのにそんな格好するお前が俺は信じられないぜ…」
 もう1人の青年、こちらは少し室内奥で本棚を背にして丸椅子に座っている青年は若干呆れ気味にそう口にした。それを聞いて軽く頷くと足を机に載せる青年は窓の外へと視線をやりながらふと呟く。
「あぁ…っと入道雲まで出ているぞ、これは暑くて当然だ」
 そう呟く青年はふらふらと何かを背中の腰の辺りから揺らしていた。

「次は前崎、前崎です。お乗換えのご案内を…」
 まだ桜咲く時期1本の列車が毎度日々繰り返されているが如く定刻通りに駅構内へと入ってきた、東京からの11両編成の快速電車。流石に終着駅であるこの駅まで乗り通す客は少なく各車両とも座席の半分程度が埋まっているだけだが、終着駅と言う事もあって降りる支度をしている者も多くどこかざわついた空気が漂う中、電車はホームに入り静かに止まってドアを開き客を下ろす。降り始め階段を登り始めた人の動きによる特有に騒がしさ、それに輪をかける様に駅員による乗り換え案内の放送が流れどこか活気のある風景が展開される中にその青年は降り立った。
(ようやく着いたか、流石に6時間かかるだけはあるね…)
 そう思いつつやや山は去ったと見られるもまだ人影の多いホームで、彼は持ってきたペットボトルに口をつけて残りを飲み干しゴミ箱へと捨てる。そしてようやく空きつつある連絡通路への階段を荷物を抱えて登り始めた。

「すいません、先ほどお電話した高鍋ですが…」
「あっ高鍋さんですね。お待ちしておりました、そこに掛けてお待ち下さい。今出しますよ」
 荷物を抱えて入ってきた彼が姿を現したのは駅のホームに降り立ってから数十分後、郊外にある不動産屋に出会った。不動産屋の数週間前に見た覚えのある顔のおばさんに勧められた通りに腰をカウンターの前にある丸椅子へと下ろし待つ、見つめる視線の先でおばさんはのんびりとした動作でお茶を入れ、彼の前に差し出すと自らも少し離れた椅子に腰を下ろす。
「今、社長を買い物に行かせちゃったからちょっと待っててね」
「あっはい…」
 そう言って軽く頷いたおばさんは面持ちを少し変え、入ってくる前にしていた様にボールペン片手に帳簿に向って何かを付け出していた。その様を少し見ると出されたお茶に口をつけ軽く飲む、それは熱い緑茶であった。外は激しく風が吹き荒れ桜の花や地面を覆う緑を見なければまだ冬であるかと思わせられる天気、そんな中をバス停から500メートルほど歩いてきて冷えていた身にとってはあり難くもあり、加えて猫舌である事も重なってほんの少ししか飲む事が出来ないのも事実だった。
「はい、ただいま…お、高鍋さんお待たせして申し訳ありませんね。じゃ早速」
 そんな時にドアが再び開きしっかりとした格好をし、四十路は越えていると見られるがっしりした体格の男が入ってきた。その白髪頭と若干浅黒い顔には矢張り見覚えがある、そしてすぐに高鍋の背後を回って自ら並べられているファイルの1つを取り出すと、中から2通ほどの紙を取り出し自らと彼の間のカウンターの上に広げた。
「はい、では早速ですが判子をお願いしますね。こことここに」
 その言葉に従って彼は既に取り出し手元に置いていた判子を言われ場所に押印すると、それを向きを変えて返した。
「はい、すいませんね。前の時に判子を持ってくるの忘れて手間を取らせてしまって」
「いやいや構いませんよ、また鍵を受け取りにこうして来られるのですから」
 申し訳なさそうに言う彼に不動産屋の社長は軽く笑いながら返し、2通の内の1通をしまって、もう1通を不動産屋の名前が書かれた"契約書"とある茶封筒に入れて寄越す。そして続いての鍵を受け取るなり、駆け足で強い風の中をバス停まで行ったところに数分遅れで到着したバスに揺られる。
 そして10分ほどで到着したバス停より歩く事数分、そこに立つ3階建ての今風なアパートへと彼は到着した。このアパートの一室が最低これから4年間は彼の住処となる、ちなみに彼の名は高鍋晴秋―高校を卒業したばかりの大学への入学を目前に控えた青年だった。

「おいナベ、ナベどうした急に黙りこくって?」
 はっと我に返る高鍋、どうやらふと思いに浸り過ぎていた様だった。そして振り返った先の姿を見て思わず顔をにやけさせる。
「何を人を見て笑ってるんだお前は…?」
「いやだってさ、すまない」
 しかし言葉とは裏腹にその笑いはしばらく止まらなかった、そして大分収まった所でこう続けた。
「人の事を言っておいてお前だって、ねぇ?三郷」
 言い終えて再び笑いが盛り返す、何故そんなに笑うのか。先ほど見たばかりの姿というのにこうも短時間で変わるものなのだろうか、幾ら高鍋が思いに気を取られていたとしてもそんなに長時間ではない長くても数分が良いところだ。だから常識的に考えればそうも笑うに至るのはそう簡単な事ではないのである。しかし現実として彼は笑っているのは何故なのだろうか。
「うるさい…確かにそう言ったが、実際のところ楽なのは確かだからな。それには同意するぜ」
 相手―三郷蒼一は言う。その長いマズルの奥から、青のかかった濃紺と白の獣毛を全身に纏い狼の顔をして耳を垂らしそして服を着た姿で。
「だろ…どうせなら服も脱いでしまうか」
 と満足げに呟きつつ高鍋は着ているポロシャツに手をかけた。それを慌てて三郷は制止する。
「おいおい。それはやり過ぎだろ?流石にここは学校だし、誰かに見つかったらやばいぜ」
「良いじゃないしたって、部室棟5階の階段から一番離れたこの部室。周りの部室は皆休部状態で名前だけで閉まりっ放しか、それか倉庫。その最果てのここに自分達以外来た事無いだろ?」
「まぁそれはそうだが…」
「なっだから決まり。ここまで好き好んでくる奴はいないよ、こんなに暑い日にあの狭くて埃っぽい階段をひいひい言いながら、登ってくる奴は…さ」
 そう言いながらもう高鍋はポロシャツと下着を脱ぎ姿勢を一旦腰掛ける格好にして下も脱いでいた、そして元の姿勢に戻り団扇を仰いでいる。鮮やかな狐色と白らこげ茶色の獣毛を身に纏い、長いマズルと三角耳を立たせた狐の顔をした彼はぶらぶらとふさふさな尻尾を垂らして再び外を見ていた。かすかに吹いていたそよ風は止み風鈴も止まる、代わりにセミの声が騒がしく響いていた。
「全く、俺はナベに振り回されてばかりだ」
 三郷がそう言った時、彼はズボンに手をかけていた。彼の場合既に上着は人の姿をしていた時から脱いでいたので脱ぐのはズボンだけ、そして彼もまた身にまとう着物を全て脱いで大きく体を伸ばす。
「なっ気持ち良いだろ、自分達にとってはこれが自然の姿だからさ…さて麦茶でも飲んで和んでようぜ」
 何時の間にやら姿勢を戻し席を立っていた高鍋はくいっと眼鏡の位置を正すと、冷蔵庫の中から冷えた麦茶のペットボトルを取り出しコップに入れて手渡した。そして自らは半分ほど残ったペットボトルに直接口をつけてすぐに飲み干しゴミ箱の中へと放り投げた。空に近かったゴミ箱の底に当たったペットボトルの軽い音がそっと部室に響く。
「あぁあんがと…ん、美味しいなぁ麦茶は。もっとくれ…って何処触ってるんだ?ナベ」
 そう言って何ともいえない微笑みをたたえつつ三郷は高鍋に呟く。すると高鍋は意に介した気配も漂わせずにそっと、三郷が尋ねた事を続けながら答える。

「何処って、三郷の尻尾、狼の尻尾ってしっとりとして垂れているから気持ち良いんだよねぇ。ひんやりして良い感じだし」
 そう飲み干した高鍋が三郷の隙を突いて触っていたのは三郷の垂れた尻尾だった、狼の尻尾と言うのは狐の尻尾と異なって垂れてそして毛が豊富だが狐の様に立っては無く流れた感じになっている。その尻尾の感触を高鍋はふとした偶然で触れて以来気に入っており、隙あらば触って揉むのは日常の事となっていた。
「お前の言う事は良く分からんよ、俺には…ナベの言う事はな。狐の方が気持ち良いじゃねぇか」
「まぁ灯台下暗しかなってそう言いながら、三郷も何を人の耳触ってるんだよ」
「ん、気持ち良いからさこの硬さと形が…ほれほれ」
「本当、人の事言えた口かい…全く」
 2人とも笑みを浮かべながらしばし無言で揉む、そして手を離し合うと再び麦茶の500mlのペットボトルを冷蔵庫から今度は2本取り出して分け合い再びあの机に足をかけた姿勢に戻った。
「そう言えば麦茶あと何本残ってる?」
「あぁ…5本位かな」
「そんなにしか残ってないのか、先日買って来たばかりだろ?箱で」
 その驚きを含めた問いかけに高鍋が答えたのは軽く口をつけてからだった。
「あぁそうだとも、でもさほら皆飲むからよく…」
「なるほどな、まぁ一番飲んでいるのが…」
 と三郷も口を少し付けてから続けた。
「お前じゃないのか?ナベも今日だって…」
「あぁだな、もう4本は飲んだよ。だって暑いんだもの」
 言葉を遮るように話しながら、高鍋はまたも口を着けていく。それはマイペースとも言えるだろうし、それだけ好んでいる事が分かる姿でもあった。
「暑いのは分かるがなぁ…飲み過ぎだぞ、また買いに行かなきゃならないじゃないか。重いしよぉ、運ぶの」
「人の姿で運ぶからだろ、狼の姿になって運べば楽さ。それに部費から落ちるんだもの、有効に使わないと」
「狼の姿って気楽に言うが…ね」
「早朝深夜ならばれないって、自分はこの姿で構内を散歩した事があってばれなかったから。安心しなよ」
「本当…ナベの度胸には感心させられるぜ」
「本来は逆だと思うけれどねぇ、狼さん」
 軽いため息を混ぜた三郷の声に若干皮肉さを混ぜた高鍋の声が交差する、それに対してにやけて返した三郷は麦茶をまたも飲み始め高鍋は手にしたまま外を見つめていた。地方都市の郊外と市街の境目付近に位置する大学敷地の一方は川に接している。
 その緩やかな流れが陽光に反射しつつ、静かにそして滔々と流れているのが見渡せる中を蝉の声が響く、それらにぴくぴくと小刻みに耳を動かしつつ聞き入ってしまうのは最早常の事だった。

「しかし…」
「ん…何?」
「そんなに飲んで水太りしないか?狐さんよ」
「はは、汗で流れるから問題ないさ」
「ふっ勿体ねぇ…ここで何時も獣化するからじゃないか?それとも人の時か?」
 そう言ってくくくと笑う三郷に、高鍋は無言のまま麦茶を飲むと人へ戻りながら再び、脱いでおいた服の袖を通していく。それに三郷は怪訝な表情を浮かべては、尋ねる言葉を漏らした。
「どうした?急に人に戻って」
「これから講義さ、今期最後の。出席取らないし教科書棒読みだから殆ど出てなかったけれど最後くらいは出ないとね。」
     「なるほどな。全く真面目だナベは、俺だったらそんなの試験だけしか出ないぜ」
「試験の範囲はどうやって把握するんだよ?」
 その三郷の誇らしげな言葉に対して高鍋は苦笑しながら眼鏡を整え鞄を手にする。人の姿の高鍋は眼鏡をかけた短髪とも長髪とも言えない髪型のごく普通の青年である。
「そんなの、聞くか気合さ」
「まぁ自分もする事があるから、否定は出来ないね。じゃ行って来る、講義終わったら戻ってくるよ」
「おうよ、じゃ頑張って来な…お前の麦茶の残り飲んでおくぜ。ナベが昔に俺のにやったみたいに」
「ちっばれてたか。仕方ない、夏の旅行の切符を、そうだな一番高い区間の1枚で許してあげる」
 不敵な笑みに苦笑、2つの笑いを交差させて軽く手を振って高鍋は出て行った。それを見送り扉を閉めると三郷は軽く一杯口につけてふと呟いた。
「高い切符1枚って…完全に割が合わないだろうが…」
 三郷も苦笑を浮かべた、しかしその言葉の響きにそれ以上の怒気だとかその類のものは全く含まれてはいない、むしろどこかで笑っている気持ちの方が強いだろう。しばらくした後、一気に自らの麦茶を飲み干してゴミ箱に放って立ち上がる。そしてその足で窓際の机上に残された高鍋の飲みかけを手にしては、先ほどの高鍋の様に外の世界を眺めて一息吐くのだった。


 続
とある学生生活・第2話・小瓶と来訪者
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