ふとした体の痒みを感じた僕は風呂に入る事にした、考えてみればこの一週間と言うものは寝るばかりで他には軽食を摂りトイレに行く以外には殆ど何もしていない。包帯すらもあの時に巻いて以来一度として外した事は無く、当然あれだけ自転車をこいだのだから汗まみれになったと言うのに体が痒くならない方がおかしい。加えて何時までもそのままにしておくのは痒いばかりではなく不潔である、そこで僕は重い腰を上げて風呂に入る事に決めたのだった。
ベッドから起き上がると軽い目眩を感じた、恐らくはこれほどの期間にわたって歩かなかったから平衡感覚が失われていたのかもしれない。痛みこそ今や全く感じてはいなかったがその様な事から生じた気持ち悪さを感じつつ脱衣所へと足を向け、寝汗に塗れた服をかごに脱ぎ捨てると浴室の扉を押し開ける。用意などしていないから浴槽は空で空気も澱んでいた。窓を開けて空気を入れ替えると共に機械を操作して湯が注がれるのを眺めながらぼうっとする・・・何もせずただ見詰めて、ふと浮んだあくびにささやかな幸せを感じつつ僕は視線を左手へと移した。
左手に巻かれた包帯は変色していた、それは血糊の変色した色なのかもしれなかったが一週間前ほどそれで動揺はしなかった。ただ制服を剥ぎ取った時の痛みだけが心配された以外は特に心を動かされずに、自然と右手が動いて包帯を静かに剥がしていく。その時の僕は剥がす事による痛みよりも包帯をしたままでは風呂に入れない事を強く思っていた。
そんな心情を後押しするかの様に包帯は痛みを伴う事無く、あの色からはとても信じられないほど静かに外れてタイルの上に散る。だが外れた後の包帯に興味は全く感じられなかった、そのまま僕の視線は固定されて包帯の消えた左腕へと向っていた。そこにあったのは確かに傷付いた左腕であったのだが・・・僕は思わず首を傾げざるを得なかった。
あれほどまでに深く抉られ血糊がこびり付き歯形の付いていた僕の左腕、あの無残な姿は僕の脳裏に焼きついていた。一生の傷となるだろう、そう確信を抱くほどに。目の前にあるその左腕は確かにあの左腕に相違なかった、以前のきれいな左腕とは全く正反対の姿となっている。だが僕が首をかしげたのはその姿にであった、その傷の姿があの酷い姿と一致しなかったのである。
要は傷が消えていたのだ、それこそ綺麗さっぱりに深く抉れても無く歯形すらも残されてはいなかった。しかし・・・僕は傷の代わりに出現していた幾何学的な文様に疑問と戸惑いを呈せざるを得なかった。刺青の如く、いやそれ以上に自然な形で皮膚に浮かび上がっていたその文様に。
風呂から出た僕は軽装をして居間のソファに腰掛けながら、左腕に文字通り浮かび上がる様に鎮座していた文様を見詰めていた。その範囲は左手の甲から肘までに収まっており、僕の色白な皮膚とは対照的な黒であるから一見すると浮き上がっているかのようにも見られた。幾何学模様と単純に言葉が浮ぶが円と線で構成されその端々には文字の様に取れる文様もあり、どれだけ擦った所で消える事は無かった。
「一体何なんだろうなぁ・・・これ。」
首を傾げた所で答えが出る訳でもないのはわかっていたが、そうしてしまうのはどうも止められない。そうこうしている内に空腹感を抱き腹が鳴るのを聞いた僕は、ふと立ち上がって冷蔵庫を開けて中を物色し冷凍おにぎりを解凍してほうばる。3個程度で済まそうと考えていたのだが、いざ口にするとたまらなく食欲が爆発してしまい次から次へと食べられるものを口にしてしまう。
ようやく我に戻った時には冷凍庫の中は空になっており、その際に手に握っていたのはカップラーメンの乾麺だった。辺りには冷凍食品やら何やらの袋の残骸が散乱しており凄まじい様相を呈していた。だが気にする一方で自然と口は動きその握っていた乾麺を全て食べ尽くした、それでも尚も食物を求めて彷徨おうとする体を理性を振り絞って止めた。
何とか言う事を聞かせると立ち上がってその場を立ち去ろうと試みた、これだけ食べたと言うのに空腹を感じる己に危機感を抱いたからだろう。だがこれほどの惨状になるまで食い散らかしたと言うのに体は尚も空腹を訴え、更なる食物を要求していた。本能がまるで絶叫しているかの如く・・・幸いにして、それは間も無く解消される事となる。だがそれは決して理性が勝利したとかそう言う問題ではない、もっと別の新たな変異が僕を襲ったからなのだった。
何とか部屋を出ることに成功した僕と僕自身でもある意識、つまりは理性はその場で全力を使い果してしまったかのようであった。階段を登りながら腰が抜けた僕はその場で倒れ込み下へと滑り落ちてしまう、当然体は痛くなり擦り傷が随所に出来て血が滲む。それは空腹を忘れさせてが代償としてか僕は体を一寸たりとも動かせなかった。
完全なる消耗・・・それは思考するのさえも鬱陶しく思わせるほどで、再び意識は一週間前に帰り着いた時と同じく闇の中へと今にも溶け込もうとしていたその瞬間、小さな鈴の音が耳に響いた。同時に聞こえた規則的な小さな音が僕の意識を落ちかける寸前で繋ぎ止め、覚醒を維持させてある記憶を脳裏に起こしだしたのだ。そして視線を何とか向けた先の闇の中にその姿はあった。
「アキ・・・か・・・?」
静かに言葉が漏れた、その姿に向けて。そこにあったのは懐かしいそして忘れる筈の無い姿だった、数年前に家からいなくなった家族の姿であった。そしてその姿はあの時と同じ様に応じてくれた。
「ニャー。」
家族とは言えそれは人であるとは限らない、猫だって家族である。三毛猫のアキは僕にとってかけがえの無い家族の一員だった、仕事柄長きに渡って留守にしがちな両親が僕に与えてくれた物、それがアキだった。物心付く頃に何処かからもらわれて来たアキは、その時既に成猫であったと言うのにまるで子猫の時からいるかの様に良く馴染み、中でも常に世話をして一緒にいる僕の後を付いて回るほどであった。流石にトイレの中までついて来られた時には驚いたが、それもまたアキらしいと許してもすらいた。
だからこそいきなりいなくなった時には気が気でならなかった。数週間に渡って思い当たる所を自転車に乗って探し回ったが見つからぬまま歳月は流れ、いまや記憶の一つとなりかけ己の身にこの様な不可解な事が起きている時に・・・彼女は帰ってきた。アキは帰ってきたのだ、こんな状況でないのなら抱きついたのにと思えて何処か悔しかったが、そうでなくとも帰って来た事は大変嬉しかった。
そんな気持ちを知ってか知らずかアキは僕に近付いてきた、昔こうしてふざけて遊んだ時の様に・・・あの時と同じだと彼女は思っているのだろうか?最もそう思われても僕は一向に構わなかった、そして寝転がる僕をじっと見詰めたアキは目を細めて軽く欠伸をすると顔を左腕へと近づけて舌をで舐めた。ざらっとした久しい感覚が神経を伝わって間も無く、それを深く堪能する間も無く僕の視界は白濁した。強い光が僕とアキを包み込んだ・・・。