隠されしもの・第5話 冬風 狐作
「くぅ・・・ん・・・?」
 気が付けば仰向け、視線の先には白い天井、そして頬に感じるくすぐったさと湿り気の暖かさ。何やら視線の隅で黒と白の模様が一定のリズムで動いている、慣れていて懐かしい感触と模様ときて頭に浮かびは一つの名前。
「アキ・・・?」
 途端に動きが止まる、ピントのずれていた視界もようやく調子を取り戻し正確に物を捉えてそれは大きな猫の顔。数年振りにまじまじと見る愛猫アキの顔、何だか視野が何時もと違って見えるのは気絶していたせいだろうか。また他にも色々と何時もよりも全身に様々な刺激を感じているような気もいるが・・・気のせいだろう。
「ご主人様起きたニャッ!」
 そして幻聴・・・猫の口が人が言葉を紡ぐ様に動く、否その様な事がある筈が無い。そしてそこから流暢に言葉が紡がれる事などある筈が無いしあってはならない、それが現実であり世界である。夢の中なのか、そんな気もしたがそれにしては感覚がリアルで言葉が脳裏に刻み込まれるように響いてくる。その喜びを一杯にした元気な声、爽やかで快活な声は脳裏に刻まれ何かを揺るがす。そしてその揺るぎに押される様に僕はアキを手にとって上に掲げようとし・・・重さに目覚める。
"アキってこんなに重かったっけ・・・それに何だか細すぎるし硬い・・・。"
 感じた違和感どれほどか・・・これではまるで人の体だとぼんやり思い、今一度同じ事を繰り返そうとすると急にじたばたしていたアキはさっと翻って僕の上に乗っかる。全身を重ね合わせる形で腰から下は密着させて僕の両胸と腕の間に腕を付き立てる姿勢でその三毛模様の体を見せ付け・・・体を見せつけ・・・?
「いきなり酷いニャァ、首絞めようとするなんてニャ。」
 またも幻聴・・・では無かった、肌に骨に鼓膜に感じる空気の振動はそれは事実である事を示す。その重さも決して夢では無い実在の重さに感触、思わず目を丸くしているとアキは片手でバランスを取りつつもえ片手の指先で僕の鼻をつついた。その感触がすすっと直接伝わってくるのがどうも奇異だ、鼻を支える骨を曲げるような違和感が皆無と言うのがどうも怪訝でならない。
 その感触の中には湿り気があるのを呼気で感じ、またあの柔らかい肉球の気持ちよさに顔が綻ぶ。そしてその指は肉球がありしまわれた爪があり、何よりも毛で覆われていると言うのに人と同じ形をしていた。5指を持つ手であったのだ。そこでようやく本格的に僕は違和感が正に違和である事を悟ったのだ、顔は一気に唖然として驚き内心は大いに揺れ動く。それを見ていたアキはニィッと目を細めて笑うと、今一度鼻をつついて呟く。
「ただいまニャ、ご主人様。」
「お・・・おかえり・・・。」
 何が起きたのか・・・夢ではなく現実で何が起きたのか正確に把握出来ぬまま、僕は取り敢えず目を豆鉄砲食らった鳩の様に丸くして応じるのだった。

「それにしても小野寺は今日も欠席か・・・。」
「ええ連絡が入ってますから。」
 放課後の職員室、それに隣接した幾つかある教材準備室の中で2人の教員が何やら整理しつつ言葉を交わしていた。先に言葉を出したのは彼、小野寺浩之の属する学年の学年主任を努める男性教師、そして応じるのは小野寺のクラスの担任である女性教師である。2人はその専門とする教科が被る事もあって、こうして良く作業をしている事が多く口の悪い生徒の間では、出来ているだの難だのと良からぬ陰口を叩かれていたがそこはもう手馴れたもの。受け流してむしろギャグとして返す域であった。
 静かに、規則的なコピー機の音が響く。それは言葉の交わしあいからおよそ10分後の事、女性教師を残して学年主任は一旦その部屋から出ていた。最もそれは元々予定されていたことで、ただ出席しなければならない会議があるからここは全て平でありまだ若い女性教師に一任されたという事だけだった。そして学年全員分のプリントが刷り終ったらそれを今度はクラス毎に・・・毎度の事とは言え、そして仕事とは言え少しばかりうんざりするのも事実であった。
"ふーもうこんな時間か・・・早く帰って上げなきゃ・・・。"
 壁にかけられた時計を見てふとそう思い、全てを吐き出したコピー機から刷られたA4版のプリントを抱え上げて仕分け始める。昔と比べて作業には手馴れた感じがあり、そして速さと丁寧さが混在する様になったのは気のせいではないだろうし自信でもあった。かつての様に紙で指を傷付ける事も稀になった、さっさと仕分けておよそ15分もすれば全ては終わっている。
 プリントの仕分け以外にもする必要のあった仕事も終えて整え、そして職員室の自分の机へと戻ろうかと踵を返し掛けた時に不意に扉が開いた。見えたのは学年主任ではなくずっと小柄で肉付きも違う人影、身にまとっているのは女子用のブレザー・・・顔はどこか見覚えがない、しかし生徒と言う雰囲気だけは纏っていたその生徒としばし顔を見合わせていると、その生徒の側から言葉を投げかけられた。
「琴田先生・・・あの相談したい事が・・・。」
「ん、どうしたの・・・?」
 本来ならその後に生徒の名前が続く、しかし返す言葉にそれは無く間の抜けた空白が漂っただけ。生徒で、どこか近しい顔と言うのは分かる・・・だが名前は一向に浮かばないが故のことなのだった。その困惑振りを見透かしているかの様に相対する生徒は、どこかにやりとした様な印象を一瞬与えて再び続ける。そして数分後、やや深刻な面持ちをした琴田と生徒のやり取りが続いていたのだった。

「ご主人様〜。」
「アキぃ・・・。」
 この温度差、感情の色合いの違いは何なのだろう。アキが濃厚に熱いとすれば僕はどこか薄めで半端に冷えていると言うべきか・・・そんな同士で体をくっつけ合わせている。正確にはアキが一方的にと言うべきなのだろう、目を細めて気持ち良さそうにすりすりとしてくるのは相変わらずだった。
 対して僕はされるだけ、時折撫でるがとても埋め合わせられるものではない。される一方で心は大いに揺れている、揺れに揺れて気が付けば何だかどうでも良いそんな心地になってくる。でも矢張り違和感を感じ得ない、そう見れば見るほど銀色に染まった手のみならず体を・・・銀色の濃密な毛に包み込まれた自らを。
 空いている片手を顔に持って来れば自分の認識ではすり抜ける筈の空間で手は何かにぶつかる、前に突き出たマズルにぶつかり顔が揺れ衝撃が来るというオマケつきでぶつかるのだ。そしてその手を背中に回しそのまま下に下げれば唐突に垂れる質量のある総、尻尾にぶつかる。尻尾・・・これもまた有り得ない筈の物、拍車をかけるかのごとくその尻尾は一尾ではなく何と三尾まであると言う念の入り様なのだから。
 そして同じ行程を再び辿らせる。銀色の獣毛に包まれた体、手に当たる突き出たマズル、腰・・・尾てい骨より生え出でた三尾、そして頭の上の三角耳と立てば分かる踵と爪先の間が斜めに延びた獣の様な脚がある。今は落ち着いているが気が付いた瞬間、僕は思わず取り乱してアキに引っかかれてようやく我に返ったほどだった。目を覚ましたら・・・と言うシチュエーションは小説などに有りがちだが、咄嗟のときは冷静に入れないあの書き方に僕は的を得たものなのだと自らと重ね合わせて納得する。
 しはじ思いに浸った後、僕はまたもアキの頭を撫で顎の下を揉む。ゴロゴロと喉を鳴らして至極満悦・・・と言うのは何とも良い具合、しかしそれだけをするのが目的ではない。僕はしばしした後、アキに対して口を開く。
「なぁアキ・・・。」
「ゴロゴロ・・・んにゃ?」
 その寝ぼけたような対応に猫なのだなとどこかで一人納得しつつ・・・アキによると僕は狐だそうだ、人の体と獣があわさったような形だから狐人と言うアキの言葉には全く肯ける。最もその色合いからは素直に狐とは思えないにしても・・・一方でそのまま当てはめればアキは猫と人で猫人となるのだが頑として受け入れようとしない、アキ曰く猫又なのだそうだ。なるほどその尻尾は二尾で静かに舞っている。


 続

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