龍の姫巫女・第四章 水野白楓作
 翌日から、私の生活は一変した。
 まず、「龍」の持つ体内時計のおかげか、朝日の出とともに目が覚めるようになった。
 祭壇の前には麻布の布団と手拭のようなものが置かれていたが、布団というよりはぼろ切れに近い。それでも、体を休めるのに、何も掛けないで寝るよりは少しはマシだと思う。
 私が目覚めると同時に奥殿の中にある例の甕の前で巫女衣装を半分脱いで上半身を露わにして、自分の中に溜め込んだ母乳を搾り出す作業にある。
 既に私の胸は昨日よりも更に一回りも膨らみを増していて、母乳を搾り出さない限り、胸そのものの重さと乳首から生じるむず痒さが収まることはない。
 自分の左右の乳房を交互につまんで母乳を搾り出す自分の姿に、まるで牧場の牛の姿を思い起こさせた。
 母乳を全て搾りきった頃には、私の母乳が甕一杯に溢れていた。
 私はその甕を掴むと、それを一気に飲み干した。口の中に自分の乳の甘いにおいが広がっていく。急速に私の空腹感を満たされていき、その日一日、何を食べなくても過ごせるようになる。
 それが終わると、私は手拭を握りしめてそのまま本殿と同じように祭壇の裏手に回る。
 やはり、本殿をそのまま小さくしただけあって、閂こそかかっていなかったものの、全く同じような扉が隠れており、私はそこを潜っていく。
 しかし、扉を開けるとそこは小さな池が広がっていて、真ん中には常に清水を湛えた泉が湧きだしていた。
 既に半裸の状態であった私は池の前で手拭を軽く洗って岩の上に広げると、すぐに巫女装束を全部脱ぎ棄てて全裸になり、池の中に飛び込んだ。
『気持ちいい……』
 私は池の中で蛇腹と鱗で覆われた龍身を水中に沈めながら、心地よい気持ちに浸る。  池の底までは太陽の灼熱も直接は届かない。しかも水中に入ると、今の私の体は水中に入るとともに、鱗の間に刻み込まれたエラが動き始め、自然に肺呼吸からエラ呼吸に切り替わる構造になっているようで、人間とも爬虫類でも言い切れない今の私の身体が持つ神秘である。
(一度、龍にそのあたりを訊いてみたものの、(『神である龍を蛇や魚と一緒にするな!』と説教されてしまった。単に龍にも分からないだけなのかも知れないけど……)
 体が変温動物になってしまったためか、全身が池の水との間の体温の感覚が曖昧になり、いつしか池と一体化したような気分になる。
 そして、私は時が過ぎるのを忘れ、日が暮れて体温が下がり出した頃に池から上がると、干してあった手拭で軽く体を拭いて、再び巫女装束を着用すると、太陽が沈もうとしている。
 私は再び奥殿の祭壇の前に戻ると、眠気に襲われて布団を被るようにして眠りについた。

 そんな生活を2週間ばかり続けた頃、私は寝る間際に上半身を起こして布団越しにやや丸みを帯び始めたお腹をそっと撫でる。天気はずっと好天で昼間は半ば水棲生活を送っていた私にも、夜空から月が消える日……新月を迎えたことは、「龍」の持つ体内時計が教えてくれた。
 最初の1週間くらいはいろいろと口喧しくも感じていた龍の声も聞こえなくなり、私の下腹部のあたりからオーラというか、気配というか、独特の空気を醸し出しながら眠りについているようだ。まるで本当の赤ちゃんのように……。まだ、あの満月の日に私の身体が、異形の躯へと変貌してからは見かけ上はそれ程大きな変化は見られない。それでも、全く変化の予兆を感じなかった訳ではなかった。
 ここ数日間、いろんなものの匂いが強く感じ取れるようになっていた気がする。それに、口の中の唾液の量も増えてきた気がする。昔、保健体育の授業で、匂いに対して鋭くなったり、唾液の量が増えたりするのは、つわりの症状の一つだと聞いたことがある。ただ、話に聞く頭痛とか吐き気とかはほとんど無いのが救いである。もっとも、私がそういう体質なのか?
 今の私の身体が人間ではないからなのか?
 今まで妊娠したことのない私には何とも言えなかった。
 私は自分の身体の現状について、あれこれ取り留めのない話が浮かんでは消えていく中で、ふとある考えが思い浮かぶ……
(赤ちゃんを妊娠する「十月十日」というのは、10か月目の10日目……つまり280日のことだよね? でも、この儀式は満月から次の満月までだから、大体28日くらい……って、ことは単純に計算してここで1日過ごしている間に私のお腹の中は10日分くらい経っているって、ことになるのだろうか?)

 その予想は大体当たっていたようで……
 それから、数日と経たないうちに下腹部の膨らみが目立ち始め、胸の膨らみも少し大きくなり、乳首が硬くなり、色も濃くなり始めてきた。月はちょうど三日月が姿を見せる頃合いとなっていた。
 1日の生活スタイルはこれまで通り、毎朝甕の中に溜め込んだ自分の乳を飲み干すごとに空腹感は満たされていくのは変わりがないが、それと同時に以前にはなかった膨満感が強くなり、胃液がタプタプと上がってきてくるのが判る。
 そして、自然と目立ち始めた自分のお腹に視線を向け、動くときも自然とお腹を真っ先に庇うような姿勢を取るようになり、撫でる回数も次第に増えてきた気がする。
 お腹の中にいる龍が、まるで自分の本当の子供のように愛しく思えるようになり、まるで私が本当に母親になっていくかのように気持ちがどんどん穏やかになっていき、今まで散々言ってきたはずの龍への不満や妊娠とともに訪れる身体の苦痛を厭う気持ちも消えていく。
 人間とは異なるこの異形に変貌した自分の姿、そしてお腹の中に龍を宿している自分の姿も、自己意識が変わったせいなのか、誇らしげに思え、却って役目を終えた後に人間の姿に戻されることの方に不安を感じてしまうくらいになる。

 そして、上弦の月が昇る頃――私の下腹部は更に豊満に膨らみ続けている。
 蛇腹の鱗のところどころに隙間が生まれている。はたから見るとちょっとしたひび割れのようにも見えてくる。確か、人間の女性の妊娠の時にできる「妊娠線」もお腹の膨張に皮膚が耐え切れなくなってできるそうだから、これも一種の妊娠線のようなものだと思えが合点がいくような気がする。
「はぁ…はぁ…はっはっ…はぁ……」
 また、急に息苦しくなってきた。
 腰や脚の体格は人間よりもがっちりしている私の身体はそちら方面への負担はそれ程でもないのだけど、胃腸や胚などへの内臓への圧迫は結構きついものがある。時々、今のように動悸や息切れのような症状を起こしたり、折角絞った私の母乳も甕の半分程度しか飲み干せなくなってしまっていた。
 それにも増して厳しいのは、祭壇の裏口を潜って池に入るという行動を取ることが身重の身体にはきついものがあった。まるで、獣のように……いや、龍のように四つん這いで手足を踏ん張り、更に胎内の龍を圧迫しないように気を使いながら祭壇の裏口を潜るのは至難の業になりつつあった。
 さすがにこの身体に慣れてきた私でさえ、
「ここに来て、本当に龍みたいに四つ足で動くことになるなんて……最後になったら私の身体も本物の龍になったりするかも……」
 と、半分皮肉めいた冗談をこぼしてしまった。

 次の満月までもう、1週間しかなかった――。


 続

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