月明かりに 暁 紅龍作
『だだいま〜。』
 私はいつものように疲れた声を出しながら自宅の扉を開く。
 いつも通りの退屈なオフィスワークに追われ、日々の生活にはっきり言って嫌気が射していた。この自宅も言わば「寝に帰ってくるだけの部屋」のような状態であった。
 そんな疲れ切った日々に終止符を打ったのは意外な出来事であった。

 その日もいつものようにくたくたの状態で帰ってきた。住んでいるマンションの長い廊下を歩いていると、ある部屋の玄関先に白いダンボール箱が一つ置かれていた。そう、自分の部屋の玄関前に。ダンボール箱には私の名前と住所のみしか書かれておらず、書いてある文字もどことなく不自然な文体であった。
「なんだろ?……ん?入浴剤セット…?」
 荷物の伝票には『秘境の湯1セット』と書かれてある。
「もしかして……、この前の懸賞であたったのかな……。」
 彼女には思い当たる節があった。数日前、たまたま手に取ったフリーペーパーにあった懸賞に応募してみたのであった。最近疲れていたのもあって、ふと目に止まった『入浴剤セット』を選択してハガキを送ったのであった。
 そして応募した賞品をフリーペーパーの編集部の人自らが届けてくれたのだろうと、私は考えながら箱を持ち、家に入った。
「ふーん…、『これで疲れも綺麗さっぱり!』…か。試しに使ってみよう。」
 ちょうど、箱の中の説明文や中に入っていたセットを見ている間にお湯もいい具合になったようで、彼女はゆっくりと着ていた服を脱ぎ始める。一糸纏わぬ姿となった彼女の体は女性らしいバランスの良くとれた体型に、ふくよかな胸、きめ細やかな白い素肌が露わになった。浴室に移動した彼女は、入浴剤セットの中から『朝霧の湯』と言う乳白色のお湯になるという入浴剤を取り出す。
「え…と、『本入浴剤を一袋浴槽のお湯に溶かし込んで下さい』か…。」
 袋の封を開き、浴槽に白い粉状の入浴剤を溶かすと、乳白色のお湯が出来上がった。ほのかに優しい香りが浴室内に満ちていき、ごく一般に販売されている物とはまた違い、あたかも本当に温泉地に居るような感覚にさせてくれるのだ。

「良い香り………、本当に効きそうね……。」
 そうして彼女は浴槽にゆっくりと体を沈ませる。
「ふぅ……。気持ちいい……。」
 全身の溜まっていた疲れがお湯に浸かっていくに従ってゾクゾクする体の感覚と共に溶け出すような、そんな感覚が彼女を包み込む。
「あぁ……、体が軽くなっていくような………。うぅ…ん………、試してみて正解だったわ。」
 彼女も大満足のようであった。暫く彼女も浴槽の中で気持ちよさそうにしていると、何時の間にか寝てしまっていた。
「……………。」
 静かな寝息が浴室内に聞こえ始めたとき、浴槽のお湯に変化が起こり始める。先程まで乳白色であったお湯の色が徐々に透き通っていく。変わりに彼女の体の表面に薄い膜のような物が覆い始める。それはお湯の中から出ていた上半身や頭など全身を次第に覆われ、白色の弾力性のある卵のような物に彼女は包み込まれる。
 その柔らかい卵のような物やそれの中は先程のお湯の成分が凝縮した物が満ちており、不思議と彼女はまるで空気のようにそのお湯を吸い込み、呼吸をしていた。肺にそのお湯が満たされると、それは彼女の体の内部に徐々に染み渡り、体の構造に変化をもたらし始める。卵の中の彼女の体は身長の数倍以上に伸び始め、特に胸から下腹部辺りまではその伸び方が顕著である。同時に首も胸から徐々に伸びていく中で胴体と太さが同じようになり、頭部に向かうに従い多少細くなっている。
 それに続くような形で、腰の辺りからは柔らかでしなやかな骨と共に先の尖った人には無い筈の長細い尻尾のような物が現れる。皮膚は全身の変化を待っていたかのように急速に変化をはじめ、瞬時に真っ白になったかと思うと徐々に艶やかに、硬くなっていくと、一定の大きさで正しい菱形に割れ始め、盛り上がっていくと、鎧の如く頑丈な純白の鱗へと変わっていき、首筋から胸部、そして尻尾の先端までが大きい間隔で割れていくとそれはあたかも蛇の蛇腹のように、それでいてその皮膚色は薄黄をしており、他の箇所の白 色の皮膚と共に体を覆う頑丈な鎧に変化する。
 体の変化が一通り終わると手足にも若干の変化が起き、手足の骨は太く硬くなっていき、表皮もそれに合わせゴツゴツとした物に変わる。指も同じ様にゴツゴツとした指に変わり、更に指と指とが癒着して、五本指であった物が三本になり、太く先端が尖っている爪が指先に生え揃っている。そして今まで変化が微塵も感じられなかったままであった顔に変化が移り変わる。比較的端正な顔立ちであったのが横方向に一旦扁平したかと思うと鼻から下顎に至る顔が前方へと伸びていき、その先端には新たに鼻孔が作られ、口は横に大きく裂けると一度大きく開き、鋭利な細かな歯と、四本の大きな牙、そして長く肉厚な、先端になるにつれて細くなっている舌が垣間見える。
 そして鼻孔の下部付近に細く長いしなやかな一本の髭が一対姿を見せ、頭部からは皮膚の色とは対照的な漆黒の角が現れ、セミロングの髪はより伸びていき、白銀色に変わると首筋から背を通り、尻尾の先端まで一筋の線のように生え揃うと、彼女は遂に変化を終えた。
 同時に彼女は体を激しく動き始め、激しい振動が卵にかかると鋭利な爪が接触した箇所で大きく裂け、白く濁ったお湯と共に大きく変化した体は卵の中から流れ出るように浴槽内へと生まれ出る。
『クハッ……!、フゥ…フゥ………。…クゥー!!』
 一度、口を大きく開き、肺に溜まったお湯を吐き出すとまるで親を探す動物のような鳴き声を発する。浴槽に横たわっていた卵から姿を現したのは全身純白の鱗に覆われた、現世では幻想動物とされている竜………、東洋竜へと姿を変えたのであった。

 その竜は浴槽から這い出ると、まだ卵の中身のお湯によって湿っている体や龍髪を長い舌で舐めとる仕草をしている。
『クルルル………。……キャゥッ…!』
 何もかもが新鮮な感覚であった生まれたばかりの竜は自らの長く湿った舌が体に触れる度に少し体をビクッと動かしながらもだんだん慣れていっていた。そう、既に彼女の意識は人の物ではなく、生まれたばかりの仔竜そのものになっていたのだ。
『クゥ……、クオォ…ウ……。』
 一通り体を舐め終えた白竜は手で顔を拭く。爪で顔を傷つけないように、長細い口元を拭く姿はどこか愛らしい仕草でもあった。そして、今まで開けなかったままであった瞳を開く。どこまでも吸い込まれていってしまいそうなほど澄んだ蒼い色をした純粋無垢で大きな瞳はゆっくりと瞬きをしながら開かれていた窓から見える満月を見上げる。
『クゥ………!』
 短い鳴き声をきっかけに白竜は体に力を込めると浮き上がり、空へと……、満月を大きな瞳に写しながら夜空に飛んでいった。
『ガゥォォ……!!』
 風が全身に当たり、清々しい気持ちにさせ、気持ちよさのあまり白竜は鳴き声をあげる。空を駆ける……、いや泳ぐ事は本能の成す技なのだろうか、多少はぎこちない動きを含んではいるが自然に、ごく当たり前のように出来ていた。空中を縦横無尽に泳ぐ白竜は自らの誕生を知らせるかのように歓喜の鳴き声を更にあげたのであった。
 そして、徐々に辺りが明るくなっていく頃、白竜は自らが生まれたあの部屋へと戻ると、部屋の隅に置かれていたベッドにゆっくりと寝転び、大きな口を開いてあくびをすると瞳を閉じ、そのまま静かに寝入っていった。

「……………ったた……。あれ……、私どうしていたの…?」
 私は薄明るい朝日が優しく差し込む寝室にいた。
「確か……、お風呂に入っていて………。それから………。」
 そう、彼女には自らが別の生き物に姿を変えた事を覚えていなかったのだ。
「でも………。体が軽い…。凄いわ…。」

 そうして、彼女は着替えて1日の仕事へと出向かったのであったが今の彼女は気づいていない。瞳はかすかに蒼く、背には竜になった名残の鱗があることには……。


 完
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