彼女がその桜を通り過ぎたのはそんな夜の時刻だった。仕事を終え、一人暮らしのアパートに帰る途中に通った近道にその桜はあった。
他の木々に囲まれた中一本だけ年輪を重ねた姿を見せる桜…夜の闇の中うっすらと浮かぶ桜色の花々は彼女の足を止めるには十分すぎるものであった。たまたま翌日が休みだった事もあったが、もしもっと遅くここを通り、翌日も出勤だったとしても彼女の目はそこに止められていたであろう。
故事に「光は活力、闇は癒しをつかさどる」と言うが人工の灯りの届かぬ夜の闇は彼女の仕事に疲れた心を静かにほぐしていく。そしてほんのりと浮かぶ桜色の光は彼女の心に不思議な活力を与えてゆく…。
「…?」
その時、彼女の中に奇妙な感覚が湧き上がる。服の下、そう生身がむずむずしてくる感覚が。
「あん…。」
日中は少し暑い時もあるが、夜中はやはり肌寒いせいか、そのひんやりとした空気が彼女の肌を締め付けるのだろうか。そのむずむず感はたまらなく彼女の体を優しく締め上げる。そしてそれは高揚となり彼女の体を熱くする。これまでも桜の木々を通るたび、そして夜の道を歩くたびに感じていた興奮。しかしそれは人目を感じるがゆえできるものではなかった。
しかし今は夜の闇の中、人目もなければ人工の光もない。しかも明日は休日の一人暮らし、彼女を縛るものは何もない。あとは…。
「よしっ」
そううなずくと彼女は肩に下げていたバッグを木の根元に置き、そのまま靴を脱ぎ捨てその横に置く。そしてそのまま羽織っていた上着に手をかけてから全てを脱ぎ捨てるまで一分もかからなかった。
「ふぅ…。」
一糸まとわぬ姿となった彼女は少し荒くなった息を大きく吐きながら桜の木を見上げる。
ひゅぅぅぅ…。
「あっ…」
ひんやりとした風がほてった肌を駆け抜け、彼女にささやかな刺激を与える。その寒さを逃れるようにふと桜の木の幹にしがみつく。
「うん…はぁ…。」
彼女は静かに自分の素肌を幹に押し付ける。幹と一つになる代わりに自分の肌のぬくもりを、そして匂いを幹に移そうとするかの様に。下手にこすり合わせる事もなく、ただ静かに体を沿わせる。それだけでも彼女の中にわだかまっていたものが散り行く花びらのごとく散り去り霧消していくのが感じられる。それに合わせる様に桜の花もはらはらと花びらを散り流して彼女の周りを舞わせる。
「ふはぁ…。」
どれ位そうしていたのだろうか、少し上気した顔をしながら彼女は幹から肌を離す。その肌には木の幹の細かい粉末がつき、髪にも桜の花びらが少なからずくっついている。
一方桜の幹にも彼女の汗がうっすらと人の形をした染みを作っている。人間と桜、動物と植物…構造や種こそ異なる二つの存在がこの瞬間、限りなく近い存在となっていた。それを察しているのかいないのか、彼女は静かに両手を上げ身をそらせる。そしてまるで踊るように両手を上下左右に振ったり、飛ぶように走り回ったり、時にはフィギュアスケートの様に空中で回転―と言っても素人なので一回が限度だったが―桜吹雪をまといながらダイナミックに裸身を翻しながら彼女は踊る。
その姿はあたかも桜の木が人の形をして舞っているようであった。そして踊り疲れた彼女はそのまま導かれるように桜の根元に背中を預け、両足を広げたまま静かに寝息を立て始めた。
さて、彼女は気づかなかったのだがこの桜の木の向かいには小さな稲荷の社があった。あくまでも道祖神的な小さなものだったが、それでも信心深い人達が時折社に手を合わせたり、回りの草むしりなどをやっている。その日も社の前にはお神酒を入れた小さな徳利が備えられ、あたかも稲荷狐のお花見の供と言う感じになっていた。
その社は静かに桜の木と花、そして突然現れたもう一本の“桜の木”を見つめていたが、不意にその中からもやの様なものが湧き上がる。そのもやは桜の木を静かに取り巻きながら上に上がり桜の枝や花々を愛でる様に通った後、静かに舞い降りると彼女の周りを同じ様にゆっくり回り、大きく開かれた彼女の“花”の中に消えていった。
「ん…あん…。」
眠りのふちにいた彼女がほんのりそうあえいだと同時に、桜の花がまるで吹雪の様に舞い降り、彼女の体を覆ってゆく。見る見るうちに彼女の体は桜の花に埋もれてゆくが、不思議な事に枝に咲く桜の花はほとんど失われてはいない。そしてさらに不思議な事に彼女がそれに合わせて四つんばいになって起き上がった時、その姿はまさに桜の花びらを人の形に張り合わせた張りぼてのような姿になっていた。
いや、少し違うとすれば本来なら彼女の体にはないものがあちこちから生えている。例えば頭の上の小さな一対の塊であり、お尻の部分の大きな塊であり…。
ぶるぶるぶるっ!
彼女は大きく身を振る。それと同時に全身に張り付いていた花びらが吹き飛ぶどころか見る見る癒着し、さらには彼女の素肌を覆ってゆく。頭の上の一対の固まりは薄く広く長い、そう獣の耳のような形になり、お尻の固まりもパァッと広がるとふさふさとした毛に覆われたしっぽに変わる。そしてそのままの勢いで立ち上がった時、口元も独特のマズルを形作る。
「きゅーんっ!」
そう鳴いて立ち上がったのはそう…桜色の毛皮をまとった一匹の狐人であった。狐人と言うのは顔や尾は狐だが、その細く伸びた手足、そして柔らかな胸のふくらみは間違いなく人の女性のものだったからである。
「ふぅ…。」
狐は静かにその狐人の肉体を見つめ回す。桜の花や幹をまとった人間を元に実体化した狐人の姿を。そして静かに顔を上げ、あれだけの花吹雪を吹かせながらいまだに咲き誇る満開の桜の姿にしばし見とれる。
ゾクッ、ゾクゾクッ…。
ふと何を思ったか、狐人は花びらに覆われた地面―ちょうど根元のあたりに手を突っ込むと中から何かを引っ張り出してその身にまとった。そこはさきほど狐人の素体となった女性が脱いだ服を置いていたあたりであり、狐人がまとったそれはさながら神楽を舞う巫女の装束のような形をしており、その手には一本の扇子が握られている。
「〜♪」
どこからか頭の中にのみ聞こえてくる雅楽の音―実際は風の音、舞い散る花の音なのだろうが―に合わせるように狐人は扇子を、そして自らをひらめかせながら舞い始める。静かに、それでいて幽玄で気高く…夜の闇、桜の木、そして社の間を舞台に狐人は舞う。人にはできない、幽玄の世界に生きる者なればこその雅なる空間がそこにあった。
人界・霊界を問わず見る者はない事は別に構わなかった。ただ狐人は舞う。そうする事で桜の花を、枝を、幹を、根を…そう、桜の全てを「見る」かの様に。舞は静かに続いていた…。
「ん、んん…?」
彼女が目を覚ましたのは日が昇ってしばらくの事であった。桜の花びらの布団から身を起こし、周りを見渡せば背中を預けていた桜の幹、そして目を向ければ小さな稲荷の社が見える。
「わたし…どうしてこんな所で眠ってたの…桜の花を見ているうちに何だか気持ちよくなってそれから…覚えてないな…。」
そうつぶやきながら静かに起き上がると、細い手足と柔らかい素肌やふくらみを覆う衣服や手にしていたカバン、髪についていた桜の花びらを払い落とす。もちろんお尻には何も生えていないし、耳も口も彼女の顔の中にひっそりとしている。
そしてふと桜の木を見上げると…そこには鮮やかな緑をたたえた葉桜があった。それを見詰める彼女の中にふと不思議な活力がみなぎってくる。
「よしっ。」
そう気合を入れると彼女はその足で自宅へと早足で駆けていった。
彼女が姿を消したあとも思わぬ形で「変わった花見」を堪能できた稲荷の社は静かにその姿をたたえていた…。