初日の出照らされて カギヤッコ作
 とあるアパートの一室。
PPPP…。
「うう〜ん…。」
 初日の出まで後数十分と言う頃、時ならぬ目覚ましのアラーム音に安眠をさえぎられた加賀麻美はうっとうしそうに寝ぼけ眼を開ける。
「うう…何でこんな時間に目覚ましが鳴るのよ…」
 そう言いながら手探りで時計に手を伸ばそうとする。
 そもそもこんな時間に目覚ましを合わせたのは他ならぬ麻美自身である。以前から初日の出と言うものに興味があったものの元来の寝起き無精の為それが適わぬまま今に至っている。 そして今年こそは、と初詣の準備に忙しい大晦日の神社に詣でて「どうか今度の初日の出はちゃんと見られますように」と願掛けまでしたものの結果はこの有様である。
 とは言え、暖房はすでにタイマーオフとなって久しくひんやりとした室内、しかも寝起き直後で満足に動かない状態の体では目は覚ませても体を動かす事はままならない。
 初めは何とか体を動かそうとしていた麻美だったが、ついに観念したのか再びベッドの中に身をくるめそのまま眠りに戻っていった。
ドクン…。

ドクン…。
 麻美が眠りについて数分後、麻美の無意識で彼女の心臓の鼓動が静かに、そして大きくなっていく。
「ん…んん…。」
 最初に麻美が感じたのは奇妙な息苦しさだった。彼女自身は感じていない鼓動が起こすものだったがそれゆえになぜ息苦しいかはわからない。
「んん…はぁ…」
 次に感じたのは熱である。先述の通り彼女の部屋はすでに冷え切り、ベッドの中も麻美自身のかすかな体温だけしかなかったが、その温度が少しずつ上がってゆく。
「はぁ…何…どうして…熱いの…」
 顔を赤くして息を荒げながら何度も寝返りを打つ。
ドスン。
 そして麻美の体はしたたかにベッドから床に落ちるが、彼女が感じていたのはただ熱さのみだった。

「うう…はぁ…ああ…」
床の上でもだえながら彼女は熱さを払う様にパジャマを脱ぎ捨て、汗で湿りきった下着を文字通り引き剥がす。全身赤くほてり裸身を露にしながら麻美はうつむせの姿勢のまま全身で息をする。全身の体毛―それこそ産毛にいたるまで―を寝汗で輝かせながら大きく体を揺らす姿は艶があり、それでいてどこか神聖なものさえ感じさせる。
「はぁ…あぁ…」
しばしののち、彼女は思い出したようにゆっくりと両手をついて身を起こす。
「そうだ…行かなくちゃ…早く…。」
少しうつろげにそう言いながらゆっくりと玄関に足を向ける。しかし、暗がりの中まだ頭と視界にもやがかかっている上全身のほてりが抜けない中で歩くのは容易ではない。当然…。
 ドンッ!
「キャッ!」
玄関の手前で足をもつれさせ、したたかに全身を打ち付ける。
「いた…。」
ゆっくりと厚手の手袋をはめた手で大きな鼻と小さな一対の前歯がもれる口元を押さえ、妙に厚着している体を何とか起こしながら少し不器用な手つきでうっすらと起毛した上着を羽織った腕を伸ばしてドアに手をかけ、転がるように外に出る。
スーッ…。
まだ薄明かりも漏れない暗がりと室内上にひんやりとした空気が麻美の全身を包む。
「あ…んぁあ…」
それに少し感じながらもその空気を鼻と口、そして全身で吸い込む様に大きく伸びをすると、麻美は階段を下り、暗がりの中に飛び出していった。
タタタッ、タタタッ…。
まだ新聞配達や明けがけの初詣に行こうとする人位しかいない暗い通りをそれよりも黒いものが駆け抜ける。その姿は人の様であったが、よく見る事ができたならその姿はどこか獣の様にも見える。その全身は茶色い起毛のジャージと言うよりすでに毛皮に近く、両足はジョギングシューズではなく先割れしたハイヒールの様であり、よく見ると両腕もそんな風に見える。
 そして顔はと言うとマスクとしてはかなり異質としか言えない。実際豚の鼻の様な太くて前に突き出した様なマスクなど普通ありえるだろうか。まして口元に一対の犬歯…いや牙の生えたマスクなど。しかし、それがその黒いものの正体であり、ほんの数分前にアパートを飛び出した麻美の姿そのものであった。
玄関を出た時にはまだ人間の名残りのあった姿も一足ずつ駆けるごとにその姿を変えてゆく。耳は小さく細長くなりながら後ろに傾いてゆき、鼻や牙もどんどん大きく長くなる。全身を覆う毛皮はますます濃くなり体格もがっちりとしたものに変わり、でん部からはいつの間にか毛皮をまとった小さな肉の房―尻尾が伸びている。
それに伴い走りづらくなってきた麻美は足だけでなく両手もついて走り出すが、それに合わせるように手足は短くなってゆく。町を出た時、その物体はかつて加賀麻美と呼ばれていた人間の女性の形ではなく一頭の獣…そうイノシシの姿となっていた。

“はぁ…ああ…行かなくちゃ…”
その意識もまた獣…と言うよりまた別の本能に突き動かされるように突き進む。暗がりの中にうっすらと明かりが差し込み始める頃、イノシシは深い茂みの中に飛び込む。茂みを突き抜け、木々を走り抜け、そして…。
 ザバンッ!
 上流とは言え先日の雨で少し幅の広くなった川に飛び込み猛然とした勢いで川を渡る。渡り終えるとイノシシは全身をブルブルと振ってしずくを払う。まるで己にまとわりついた穢れをはらうかの様に。そしてあたかも夜が開ける前に目的とする場所にたどり着かないといけないかの様ににイノシシは駆けて駆けて駆け抜ける。
 ザッ!
暗がりを抜け、うっすらと明かりの差し始めた空間にイノシシは飛び出した。そこには小さな祠のある丘だった。その祠が示す先には町が一望できる視界がある。イノシシは祠をしばし見つめると、その向かう先を見つめる。そこには今まさに昇ろうとする今年最初の太陽があった。柔らかくも力強いその光を全身で浴び、少しまぶしさを感じながらもイノシシは喚起の咆哮を揚げる。
「ブフォ〜!」
その瞬間、イノシシの全身が大きく変わり始める。全身を覆う毛皮が抜け落ち、肉体はスリムになってゆく。前後の足は細長くなり、その先には細い五本の指が形作られる。大きくそらされた胸には柔らかな乳房が膨らみ、鼻も牙もかわいらしく整いながら小さくなってゆく。
ファサッ、と髪が伸びた時、そこには生まれた―いや生まれ変わったかの様な姿の裸身の人間―麻美がいた。麻美は今までの自分の変化に気づいていないのか、ただ初日の出が昇るのを静かに見守っている。
「これが初日の出…どうしてこんなきれいなものを今まで見られなかったんだろ…。」
イノシシの姿の時から流れていた涙を静かにぬぐいながら麻美は立ち上がると朝日に向かって手を合わせる。その姿はあたかも一枚の絵画の様であった。そして返す様に祠に向くと祠にも手を合わせる。
「ふぅ…初日の出も見られたし、なんだか身も心も満ち足りた…。」
と言いかけて麻美はようやく自分が全裸であった事に気がつく。
「ハ、ハ、ハクション!」
無理もない。イノシシになっていたとは言え全裸で冬の夜を駆け抜け、あまつさえ寒中水泳もしたのだから。その後、朝日に見送られながら裸身を翻し、「人の姿をしたイノシシ」になって往路以上の猪突猛進の末誰にも気づかれる事なくアパートに帰還できた麻美が三が日中風邪をひいてダウンしてしまった事は無理のない話でもある。


 終わり
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