風に狐に稲の音と カギヤッコ作
 日中の日差しこそまだ少し厳しいけど朝夕は少しずつ涼しくなっている、そんな初秋の夜の事…。

リーン、リーン…。
コロコロ…。
 月明かりの中、草むらでは虫達の声が響いている。
 ふと見渡せば舗装されたあぜ道に囲まれた田んぼも既に今年の役割を終え、来年に備えて焼畑が行われた所もあればまだ穂を刈り取ったばかりの稲が山積みになっている所もある。
 近くの住宅街の灯りも遠く離れ木々に覆われた田んぼの端のあぜ道、なぜかそこにわたしはいた。
 毎晩この辺りをウォーキングしているのだけど、こげ茶色に濡れた土が耕されたばかりである事を示していた春頃から水を張り、まるで池の様に見えたと思ったら早苗がいつの間にか植えられていたのを見つけた初夏の頃。
 そして梅雨や夏の暑さにも負けず青々とした穂を伸ばし、そして実りの時を迎えていく姿になぜか心が踊っていた。
 理由は全くわからない。でも、特に夜の影の中で浮かぶそれらは太陽の明かりの中とはまた違う気配をわたしの目と心に感じさせていた。実際、その度なぜかわたしの心は高鳴り、肌はどこか震えていた。
 そして刈り入れのあったその晩、わたしはこうしてここに立っている。
 虫の声以外は音もなく、月明かり以外は光もなく、そしてわたし以外に人はいない。
ヒュー…。
 涼やかな秋風が服越しに心地よさを与えてくれる。
 そしてわたしは一歩、また一歩あぜ道を降り、田んぼの中に入る。
「…。」
 その足はなぜか山積みになっている稲の山に向かう。ちょうど四つの山が定位置に置かれている場所に立つとわたしはきょろきょろと周りを見渡す。
 この時間、他に歩いている人もいないのはわかっている。でも、なぜかこうせずにはいられない。
 そしてわたしは山に囲まれた空間の中にしゃがみこむ。
コロコロ…。
リーンリーン…。
サワーッ…。
 虫の声と風の音が幕間をつないでいたのはどれだけの時間だろう。準備を終えたわたしはゆっくりと立ち上がった。
 ヒュー…。
「あっ…。」
 再び風がわたしに心地よい涼しさを与えてくれる。今度は直接…。
 そう、わたしは生まれたままの姿で風を受けていた。
 月の明かりはわたしの素肌を浮かび上がらせ、風は優しく肌をなでる。あたかも今までのわたしを流し去ってくれるかの様に。
 虫達の声はわたしがより自分達―自然に近い姿となった事への祝福の声の様に聞こえる。
 でも、まだどこかに恥ずかしさが残っているのは少しつらいものも感じる。
 そんな事を思いながらわたしはゆっくりと田んぼの真ん中に歩を進める。最初こそ恥ずかしさも感じていたが、歩いていくうちに全身に力がみなぎり恥ずかしさを追い出して行くような感覚が強くなる。
「ふうっ…。」
 少し顔と肌を赤らめさせながらわたしはゆっくりと両手を広げ伸びをすると、わたしが唯一手にしていた異物を改めて見つめる。

 それはお面―古い土産物屋でありそうな狐の面だった。
 白地に独特のクマドリを施した狐の面。稲穂が育つのを見ながらどこか高鳴るものを感じていたわたしは導かれる様にこのお面を手にしていたのだ。

 何の変哲もない普通のお店で買ったお面だけど、今のわたしにとってそれはとても大事なものである。
チュッ…。
 目を閉じ、そっとお面の口元に口づけをする。それはこれから始まる事の始まりの儀式。
 そしてわたしはお面を裏返すと静かにそれを被り、紐を縛り直す。
 あっと言う間に裸の体に狐のお面を被った異様な姿となったわたしは改めて周りを見渡す。
 お面越しに見える夜の田んぼ、月明かり、そして森の木々。お面越しに聞こえる風の音と虫の声…裸になる前、お面を被る前よりもその感覚はより強く感じられる。
 裸になっただけなのに、お面を被っただけ…違う。何か違う。
 なぜか違和感を感じた時、わたしの心と体が今までより強く震え出す。
「ああ…はぁ…。」
 感じる。月の明かりが、風の音が、そして土の息吹がわたしの体を包む。
「うっ…あっ、ああぁ…。」
 両手を顔に添えたままわたしは何度も身を反らせる。たまらない興奮、そして快感が私の体と心を揺さぶる。
 いつの間にかわたしはそのままの姿勢で膝を付き、体を大きく上下させている。
「ああ…はぁ…わたし…わたしは…。」
 両手を地面に付きながらわたしは頭を、体をそらす。
 全ての気がわたしを高ぶらせ、「本当の姿」に変えようとする…本当の姿?
 快感と興奮の中、わたしの意識は混濁しながらある一点へと進んでいた。
 わたしは確か…で…して…裸に…狐の…ああ、そうだ…。
 わたしがそこに達した時、わたしの口はそれに対する祝いの声を上げた。
「キューンッ!」
 全身を大きく反らせ、力の限り吼える。わたしが「本当の姿」に戻った事を示すように。
「ふうっ…」
 そしてわたしはゆっくりと立ち上がる。
 月明かりに照らされた体。
 尾どころか産毛もほとんどない全身を風が駆け抜け、再度わたしは声を上げる。
 スラリと伸びた手足には肉球なんてない。
 ただ顔だけがわたしの姿を伝えている。それが例え肌とは別の作りだったとしても。
 そう…わたしは狐…体は人間、でも顔と心は狐…これがわたしなんだ。わたしの「本当の姿」なんだ…。
 わたしの目から涙が流れる。涙はわたしの目から流れ落ち、頬を伝って大地に落ちる。
「ううう…よぉーっし!」
 体中に力がみなぎる。この興奮を、この喜びを体中で伝えたい。
 わたしは両の前足を高く上げ、そして縮める。同時に後足を交互に上げリズムを取る。
 前足は月をつかむように、後足は大地を踏みしめる様に。
タッ、タッ、タッ…。
 わたしは踊る。大地を踏みしめ、月をつかみ、風に乗る様に。
 踏みしめるだけでは物足りないのか後足はそのまま走り出したり軽く飛び跳ねたり。
 稲の山を縫う様に跳ね軽やかにスピン、と思ったら思いっ切り宙返りしながら山を飛び越え、そのまま全ての足で着地する。
 人間だった頃体操をやっていたせいかその動きはより自然にできる…ううん、狐だったからこそあんなに身軽に動けたんだ。
 そう思いながらわたしは大地を跳ね回る。まるで一年の勤めを終えた田んぼをねぎらう様に、癒す様に…。
ブルル…。
「えっ?」
 不意に、わたしの耳に妙な音が聞こえた。
 車だ。車が近付いている。無粋な乱入者に眉をしかめるがこの姿を見られる訳にはいかない。
 車のライトが迫る中、わたしはあぜ道に近寄ると前足をピンと天に伸ばして身をそらす。
 頭の中でわたしは一本の木をイメージする。大樹でこそないが瑞々しい木肌としなやかな枝を持つ木の姿を…。
 そして、わたしが木になってしばらくの後、何も知らない車はそのままわたしをヘッドライトで照らし、テールライトで照らしていった…。
 無粋者が去った事を確認するとわたしは元の狐の姿をイメージしながら体を解き、再び大地に飛び跳ねようとする。
「えっ?」
 調子に乗りすぎたのか、わたしは思わず足を踏み外してしまいそのまま地面に体を叩きつけようとする。
“石!”
 頭の中でそんな言葉が浮かんだ瞬間、わたしは身を丸め、そのままゴロゴロ転がっていった。
 少しの時間の後、わたしはまるで石の様に固く身を丸めていた事を確認すると軽く微笑んだ。
 柔らかい肌を持っている狐のわたしが固い石になりきっているなんて…やっぱり狐だけに化けるのがうまいわ。
 さっき木に化けていた事も思い出し、わたしは苦笑すると体を解き、再び踊り出す。
 月明かりをライトに、風をBGMに、そして虫の声を歓声にしての踊りを…。
 いつの間にか顔からお面は外れていたが、そんな事はもうどうでも良い。わたしは「人間の姿をした狐」なのだから…。
 お面が外れたのと同じ様にわたしの動きもさらに加速する。今まで踊っていた田んぼだけでなく、他の田んぼにも飛び移り同じ様に大地を踏みしめ、風に舞う。
 時には身を伸ばしたり逆立ちして木になったり、身を丸めて石になったり。
 踊るうちに田んぼの中がどこか清々しく感じられるようになり、それがまたわたしの踊りを弾ませる。
 わたしはいつ果てるともわからぬまま無限に等しい時を舞い続けた。
 そして再び元の田んぼに戻り踊っていたわたしは体をくるりと横に廻し、全身を広げてポーズを取るとそのままなぜか地面にドスンと倒れた。
リーンリーン…。
ヒューッ…。
コロコロ…。
 虫の音と風の声が聞こえる。
「あ…。」
 涼やかな風が踊り疲れて火照ったわたしの体を冷まし、癒してくれる。
 そしてわたしはゆっくりと立ち上がると全身を見回し、両手で顔をなでる。
 生まれてからずっと付き合い続けた顔と姿…うん、確かに「人間」だ…えっ?
 わたし、裸になってお面を被って、それで「狐に戻った」と思って…?
 まさか、狐だけに化かされたとか…?
 首をかしげながらふと近くのあぜ道を見ると一匹の狐が静かに走り去る。そして、さらにその遠くに目を置くと…。
「…!」
 別の田んぼの上でさっきまでのわたしと同じ様に一匹の「狐」が踊っている。軽やかで激しく、それでいて静かな舞…魅入られる様なその動きにわたしはしばし見とれていた。
 あの「狐」もわたしの様に「導かれた」のか、それともあれは本物の…?
 そう考えていた瞬間、「狐」は姿を消していた。
 わたしは少し残念に思いながらもゆっくり立ち上がると服を身につけ、割れる事なく田んぼにあったお面を手にすると帰路に付いた。

 帰って来ると出かけてからそんなに時間が発っていなかった事に驚いたが、どこか安心したものを感じてしまいシャワーを浴びて体に付いていた泥を落とすと寝間着を羽織り、そのまま床に入った。
「…」
 眠りに付く前に色々考えてみる。
 どうしてわたしは狐にされる位あの田んぼに魅入られたのか、それ以前にどうして狐に選ばれたのか。
 あの時見たもう一匹の狐は…そんな事を考えるとどうしても眠れなくなる。
 別に良いじゃない。もしあそこで声をかけていたら何かが壊れていたかも知れないし、それ自体がうかつに踏み込むものじゃない。
 わたしは偶然あの田んぼ達をねぎらう狐役に選ばれたのだ。そしてその役目を終えてこうして戻ってきたんだ。それでいいじゃない。
 そう思うと心が軽くなる。でも同時にますます眠れなくなる。
 わたしはガバッとふとんの中に身を埋める。ほんの数秒で「最後の一枚」が床に落ちると裸の腕が枕元にかけてあった狐のお面に伸び、ふとんの中に引き込んだ。
 どうやらわたしの心にはもう少しだけ「狐」が残っていた様だ…。


 終わり
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