スタスタスタ・・・。
山間の小さな温泉宿。新緑たなびくこの季節に内海成美がこの宿に足を運んだのは全くの偶然だった。大きな観光地ではないものの緑豊かな環境は日常のもやもやを癒すには十二分であり、彼女もゆっくりと心身をほぐしていた。そしてその夜、彼女はこの宿の売りでもある露天風呂へと足を運んでいる。
シュルリ、ハラリ・・・。
脱衣所に入るや帯を解き、そそくさと、それでいて艶のある動きで浴衣から抜け出すように白く柔らかい素肌を開放させる。
その下に唯一身につけていたショーツを外すと、彼女はタオルを手に脱衣所と露天風呂を区切る扉を開ける。
ガラリ。
「わぁ…。」
決して大きくはないがそれなりの広さを持つ竹の柵に囲まれた岩場のお風呂。そして夜の闇に包まれているとは言え、柵越しで隠しきれない山の風景が彼女の目を奪う。
それに動かされるように彼女は一歩ずつ風呂の中に足を向ける。あたかも俗世の穢れを清め、自然の姿に返る禊に向かうかの様に。
チャポン。
「ふぅ…。」
熱くもなくぬるくもないほど良い湯加減が彼女の体を包み、一分もしないうちに彼女の身も心もほぐしていく。
最初のうちこそ静かに足を伸ばし岩壁に身を預けていたが、自分以外誰もいないと言う解放感からか、泳ぐとは行かなくても手をつき足を伸ばし、ちょうど両手で体を支えるような形で湯船の中を動いたりする。
あたかもその姿は水面を這うトカゲかサンショウウオの様であった。もっとも、こんな白くてなめらかな肌をしたサンショウウオなど早々いないだろうが。
「うふふ…ふぅ…。」
一通り楽しんだあと、再び岩壁に身を預ける。顔が赤らんでいるのはお湯のせいだけではないかも知れない。
「?」
ふと柵の一部に目が向く。
柵の一部、ちょうど継ぎ目の辺りに隙間ができている。小動物位なら何とか出入りできなくはないくらいの大きさだ。
普通なら無用心とも思えるが、宿の職員の話では時折山の動物達も入っていると聞いていた事で成美も納得してしまう。
それと同時に、彼女の中にあるとんでもない考えが浮かぶ。
「…入ってくるって事は…出られる訳よね…」
露天風呂の解放感と夜の闇がもたらす空気は彼女の考えを加速させ、遂に彼女はそれを実行に移した。
ザバッ!
おもむろに湯から上がると成美は静かにそして足早に柵に、そしてその隙間に足を向ける。
ガサガサ・・・。
「よ、よいしょ…うっ、くっ…。」
悪戦苦闘の末、その肌に傷をつける事なく成美は柵の外に出る事ができた。
ヒュゥゥ…。
「あっ…。」
初夏とは言え、まだ冷たい夜風が風呂上りの体をなでる。
一瞬身をかがめるが、それ以上に成美の目に入る夜の森の光景は彼女の心を捉える。
そう、それは彼女が人の世界と獣の世界の境界を越え限りなくこの先の世界の住人に近い姿となった異邦人となった瞬間である。
「…」
ふと背中にある柵に目が行くが、それを振り払うかのように成美は森の中へと進んでいく。
誰かに見られると言う気恥ずかしさも少なからずあるが、それ以上に一糸まとわぬ無防備な姿で手付かずとはいかないまでも夜の、自然の中を歩く不安、そして限りなく自然の姿で自然の中を歩く興奮が彼女の心を満たす。
カサカサと素足で草を踏む音、素肌で木にもたれる感触、そして時折聞こえる鳥や獣の鳴き声を感じながら成美は自分が人であって人でなく、獣であって獣ではない存在に変わっていくのを感じていた。
もしこのまま歩いて行ったなら彼女は膝をついた四つんばいの姿勢で歩いていたかも知れない。しかし…。
カサリ。
人と獣の微妙なバランスに酔いながら歩いていた時、彼女の前の空間が突然開けた。
「ここって…神社…よね…?」
成美の言葉どおり、枯葉やらに覆われ小さいながらも存在感のある小さな社、反対側には鳥居が見える。小さいながらも基本的な神社の姿がそこにあった。成美は導かれるようにその社の前に立つ。
ふと社の中をのぞくと暗がりの中、何か動物の影が見える。よく目を凝らすとそれは像―石でできた狐の像であった。
「お稲荷さんって訳ね…。」
そうつぶやくと彼女は体が汚れるのも構わず枯葉を払い、回りを片付ける。
そして静かにその場に膝をつき、軽く拍手を打つとそのまま手を合わせる。
夜の闇の中、かすかな明かりに照らされて森の中の社に手を合わせる裸身の女性…どこか神聖でかつ妖艶な風景である。
キラッ。
一瞬、像の奥の鏡が光ったような気がした。それと同時に何かもやの様なものが社からもれ出す。
「な、なんなの?」
逃げる間もなく成美の体はもやに包まれる。
「あ、うっ、ああっ…」
金縛りにあったかの様に身動き取れない彼女の体を包みながらもやは彼女の体の中に消えて行く。そして…。
ビクン!
「うっ!」
体が一瞬震えたと思うと成美はそのまま両手を地面につく。
「はぁ、はぁ、はぁ…。」
体の表面を冷たい空気が覆い、内側から熱い息吹が吹き出す。その感覚が彼女にえも言われぬ感覚を与える。
四つんばいの姿勢のまま成美は何度も大きく伸びをする。あたかも獣のごとく。そして何度もそうするうちに…。
モゾモゾ…。
「あ、あん…」
全身をくすぐるような感覚に思わず甘い声が漏れる。
フサッ、フサファサ・・・。
彼女の全身を背中は黄色の、そして腹部から両手足にかけては白い体毛が覆って行く。
「あっ、あはぁ…」
ムクリ、ピクピク…。
何度もつき出される彼女の尻の先から小さな肉の棒が生え、体毛をまといながら延びて行く。
ムズッ、ムズムズッ…。
「あっ、あん、うっ…。」
伸縮を繰り返しながら全身が少しづつ小さくなり、特に手足は細長く、反対に指は手足の中に縮んで行く。
ピクッ、ピクピク…。
「あっ、うっ、きゅっ…。」
体毛が覆われてゆく口元が鼻を頂点に小さく伸び出し、耳もピンと高く、広く伸びて行く。
“あっ、いやっ、わたし、変わりたくない…でも…”
肉体の変化に伴い、彼女の精神ももやに取り込まれ変わりつつあった。
“あんっ、だめ…早く…逃げないと…行かないと…行かなくちゃ…そう…わたしは…”
キューンッ!
成美の体と魂を素体に実体化したもや―一匹の狐は一声鳴くと、そのまま社を後にした。
タッ、タッ、タッ…。
人間だった時とは比べものにならないほどの勢いで成美だった狐は夜の闇を駆ける。
獲物を狩る狩人の様に、ゴールを目指して走るスプリンターの様に…。
そして狐がたどり着いたのは駆け出した場所とはまた違う神社の境内だった。先程の社とは違い、かなり大きめの社である。
神妙な足取りで本殿までたどり着いた狐はキューンと再び大きな声で鳴いた。
するとその全身からもやのようなものが吹き出し、本殿へと吸い込まれる。それを見届けると狐はそのまま力なく倒れ、そのまま動かなくなった…。
「う、う〜ん…」
「気がつかれましたかな?」
成美が目を覚ましたのは朝の光と空気、そして神社の老宮司の声によってであった。
「わ、わたし…一体…」
そう言いかけて自分が宮司のものらしい羽織以外は裸―人の姿なのを思い出し思わず羽織で身を隠す。
老宮司はそれを見ながら静かに微笑んでいた。
「しかし、よその土地の方で“稲荷移り”に選ばれるとはなかなか珍しい話ですな。」
「稲荷移り?」
聞き慣れない言葉に成美は首をかしげる。
宮司の話によるとそもそも稲荷狐と言うのは家々の社から神社からと定期的に宿る社を移り変えて行くと言う。
それを奉る意味を込めてかこの辺りでは巫女や無作為に選ばれた若い女性を一時的なヨリシロにして稲荷狐の“お移りの儀”を行う風習があると宮司は語った。
自分が引越しトラックみたいに扱われた事に少しふくれる成美だったが、露天風呂を出てからの一連の感覚を思い出すとどこか柔らかなため息を漏らす。
「さて、そろそろあなたの“お移り”をしないといけませんな。この近くの宿に泊まっていたのですな?あそこの主人とは知りあいでもありますし。」
そう言うと宮司は成美を社務所に案内した。
素肌に少しだぶついた作務衣を羽織り宮司と共に宿に歩こうとする時、ふとあの社のあった方向に目が向く。
「もう他のお稲荷さんが来ているのかしら…。」
成美は宮司も気付かぬ間に静かに一礼すると、そのまま宿、そして「人間の世界」に戻って行った…。
完
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