久奈がここに来た理由、それは仕事場の先輩である倉木瑛子の一言であった。高校を卒業後なんとか就職を果たしたものの、仕事のつらさか、それとも相性の悪さかどこか覇気の無い顔をしていた久奈を見かねた瑛子が
「ここに行ってみれば何かが変わるかもよ?」
と行きつけの会員制秘密クラブの紹介状を兼ねたカードを手渡した。会員制秘密クラブと言う響きにどこか危険な空気を感じたものの会費・経費は無料である事、そして何よりも「自分の中の何かを変えたい」と言う気持ちが久奈の心をここへと動かしていたのだ。
そして、久奈は奥にある扉の前まで案内される。女性がそこにあるスリットに例のカードを差し込むとカチャリと言う音がする。
「それではごゆるりと…。」
女性はそう言って久奈を扉の先に送り、静かに扉を閉めた。扉の向こうにあったのは人一人分位の部屋であった。しいて言うのなら一軒家の風呂場の脱衣所と言う所か。目の前にはロッカーらしい箱、そして鏡のようなものがある。
“ここで身に付けているものを全部脱いでください”
鏡に手を触れようとした時そう書かれた文字が浮かぶ。久奈は思わず首をかしげるがとりあえずバッグをロッカーに入れるとそのまま服を脱ぎ、続けてロッカーに入れる。鏡に浮かぶ自分の裸身に恥じらいを感じながら再び鏡に手を触れる。すると、
“お名前を教えてください”
と言う文字が浮かんだ。久奈はすかさず、
「坂谷…久奈です…。」
と言うが鏡に浮かんだのは、
“その名前も捨ててください。ここから先のあなたは別の存在になるのですから”
と言うメッセージだった。
久奈は思わず考え込む。
「…ハンドルネームみたいなものなのかしら…?」
そして、ふと以前読んでいた小説の主人公の名を思い出し、
「リア…リアよ。」
と答える。すると、
“リア様、奥へどうぞ。ここから先はその名前があなたの名前、そしてこの奥へとあなたをいざなう鍵になります”
と文字が浮かび、さながら回転扉のように鏡が動く。久奈は導かれるようにその奥に進んで行った。
その先にあったもの、それは小型のドームのような空間であった。 天井も床も壁も白く、それ以外何もない。久奈は胸の鼓動を押さえながらも本能的にいくつかの円形のくぼみに囲まれた中心部に立つ。
シャッ!シャシャッ!
「えっ?何?」
突然くぼみが開く。そして、
ブワァー…。
「キャッ!」
下からものすごい勢いで風が送られ、久奈は髪を高くなびかせながら浮かび上がる。風は下からだけでなく部屋全体から流され、久奈の体はちょうど部屋の真ん中で手足を広げて直立したまま浮かんだ形になる。
「何?何が起こるの?」
体を動かせずただ目を動かして周りを見回すだけの久奈。そこに…。
シュルルルル…。
何か糸のようなものが流れてくると久奈にまとわりつく。足に、腕に、胸に、そして顔に…。
「あっ、やっ、あっ、あああ…。」
綿菓子を作るように糸は久奈の裸身に絡み付き、その面積を広げてゆく。瑞々しく白い肌が、細めの手足が、そこそこに形作られた乳房や腰、お尻が、そして髪がまだどこか幼さを残す顔もろとも糸に覆われて行く。
それと同時に糸からどこか繊維臭い、それでいてかぐわしい匂いが放たれる。糸がより多く絡みつくたびその匂いは強くなり、その匂いは少しずつ久奈の心から恐怖と羞恥心を取り除き、甘美な感覚を刻み込む。
「ああ…気持ちいい…いい…。」
その声が漏れた瞬間、久奈の口は封じられる。それ以前にその裸身はほぼ完全に白い糸に覆われ、人の形をした繭、もしくは全身タイツかラバースーツをまとったような姿になっていた。
ドスン。
「あん…。」
全身が覆われると同時に風は止まり、久奈の体は床に落ちる。しかし、今の彼女にはそれも快感でしかなかった。
「ああん…はあん…。」
倒れたままの姿勢で両手を肩に、腕に、足に、そしてその間に強くあてがわせる。それに応じるかのように匂いと肌の感覚がより強く彼女を侵食していく。
「いい…いひぃ…わはぁ…。」
そうするうちに覆われていた彼女の体のラインがはっきり浮かんでくる。人の特徴を消し形だけをリアルに具現した人形、それが今の久奈だった。いや、すでに彼女は“久奈”でなくなりつつあった。あらゆる方向から来る快感が久奈の理性と意識、そう、“坂口久奈”と言う存在の全てを砕き、溶かし、流し去ろうとしていた。
「あうああああ、たわあああああ、しひいいいいい…ひしいいいい…しゃあああああ…。」
もはや言葉になら無い声で言いながら手をつき、膝を付き、四つんばいの姿勢で起き上がりながら身を伸ばし、吼える。
グググ…メキメキ…
「ううう…あああ…。」
それと同時に久奈の体が茶色に染まり、弾力のある固さとたくましさを得てゆく。両手足が一回りたくましくなり、手足から爪が伸びる。その刺激がますます久奈の体を締め付け、吹き出す匂いがより強く久奈の脳を酔わせる。
ニュルン、ムクムクッ。
「いいい…あああ…。」
お尻から尻尾が生える。快感に酔い上下に振られる腰が尻尾にかりそめの命を吹きこむ。顔を上下させるうちにのっぺらぼうだった口元が伸び、牙を生やした顎を作る。
「ふぁああああ…。」
口元からものすごい勢いで空気が匂いと共に口の中に入る。そして、
「ふぅおおおおおーっ!」
そう吼えると共にカッと視界が開かれ、頭頂部には一対の角が生える。
さらに背中から小さいながらも一対の皮張りの翼が生えた。
「はぁぁぁぁ…ああああ…。」
目から涙、口からヨダレが流れるまましばし恍惚に酔うその姿は、いや心さえすでに“久奈”ではなくなっていた。余韻に浸りながらもゆっくり起き上がり、涙とヨダレを“前足”で拭うと久奈だったものは静かに歩き出し、その先にある扉の中に消えて行った。
薄灯かりが照らす空間。何やらふしぎな旋律のBGMが流れ、飲み物や食べ物を味わいながらの人々の談笑が響く。ただ少し違うのはそこにいるのはみな獣人―正確には特殊なスーツをまとった人間である―と言う事だ。各々に見合った獣のスーツをまとう事で外の自分を“脱ぎ捨てた”彼らはこの場でしばし充足と解放の一時を楽しむのである。
余談だがかのスーツは生成時に特殊なにおいを放ち、人によっては一種の催淫効果ももたらすらしいが、それもまた彼らを酔わせる楽しみでもあるらしい。もっとも、直接「その手の行為」に走る事は無い様だ。そんな中、部屋の片隅に一人のメス飛竜型獣人が入ってくる。久しぶりの新入りにスーツ姿のメス猫獣人が声をかける。獣人は何の迷いもなくこう名乗った。
「始めまして、リアと言います。」
そう言うとリアはそのまま獣人達のざわめきの中に消えて行った。
それから数時間後、先程の部屋であられもなく素肌を上気させ、恍惚とした顔で倒れ込んでいた久奈は横にクラブのキーカードが置かれていたのを見て会心の笑みを漏らすのであった…。