龍虎カギヤッコ作
「…幸男くん、また会えるかな…?」
 水木香澄はそう言いながら隣を歩く古木幸男に声をかける。
「さあな、親父の仕事の都合もあるみたいだし戻って来られるのは何年もあとかも知れないな…。」
 幸男はそう言いながら空を見上げる。
 小さい頃からの幼馴染で高校に入ると同時に本格的に付き合い始めた―まだ「清い交際」の範疇内だが―二人にとって幸男の引越しは余りにも衝撃的だった。
「わたし、幸男くんと離れたくない。一緒に笑って、一緒に泣いて…そして…その…。」
不意に口ごもる香澄だったが、ウンっと気合を入れると、
「いつかでいい、幸男くんと一つになりたいの。」
 と言った。幸い人通りの少ない時間帯だったが、その言葉は幸男にとっても衝撃的だった。当然香澄もまた「言っちゃった…」とばかりに顔を赤らめている。
「ま、あっちに行ってもメールはできるし会おうとすればまた会えなくもないんだからな。」
「うん…。」
 爆弾発言の余韻で顔を赤くしながら香澄はうなずいた。
「あ、そう言えばなんだ、その替わりと言っては何だけど…。」
 そう言いながら幸男は一枚の巻き物を渡す。
「いやな、おまえと離れ離れになると思って何かおれの代わりになるものを…と思ってみたらこんなものつかまされちまってな。」
「はぁ…?」
 香澄は少し呆れた顔をする。父親の影響か幸男は骨董品に興味があり、バイト代や小遣いの範囲で変わった品物を買っている事が多く、香澄もそこだけはなじみきれない所があった。
「何でも昔の中国の絵描きが描いたって言う一対の絵の片割れだと言うんだけど…こいつをおれだと思って大事にしてくれよな。」
 そう言って巻物を香澄に渡すと「引越しの準備があるから」と言って幸男は足早に去って行った…。

「ふう…。」
 勉強もそっちのけで香澄は机の上に立ててある幸男と一緒に取った写真を見つめる。結局香澄も学校がある事もありあれから幸男は香澄と会う事も無く引っ越して行った。色々言いたい事もあったのに…と思いながら香澄はため息をつく。
「…そろそろ寝ようかな…。」
 はかどらない勉強に区切りをつけて寝る準備をしようとする。
コトン。
 ふと何かが落ちる音がする。目をやると床の上に一本の巻き物が落ちていた。そう、幸男から渡された巻き物である。あれ以来、すっかり忘れていた巻物の存在にふうっとまたため息をつくと香澄はそれを拾い、静かに紐解くとベッドの上に置いた。
「わぁ…。」
 そこには古い中国の山河が描かれており、はるか昔に描かれたらしいながらも色あせないその風景や色合いのよさも目を引くものがあったがとりわけ香澄の目を引いたのはその真ん中に描かれていた一匹の青竜の絵であった。
 さながらかの地を守る守護神であるかのように鎮座する竜。全身を覆う青き鱗と言い、守護者としての力強さと慈悲深さをたたえた瞳と言い、香澄の目と心を虜にするには十分過ぎるものがあった。
「あれ?これって…。」
 ふと絵の端にあった文字に目をやる。漢詩の様だが一体何が書いてあるのだろうか。香澄は自分の知識と辞書を総動員してその意味を調べた。
「半身に分かれし絵を持つ者達よ。互いに絵を掲げ互いを思うべし。されば汝ら我らの力でかの地にてしばしの逢瀬を果たすだろう…そんな所かな…そんな…所…。」
 意味を読み解くうちに香澄の心に再び幸男の事が浮かぶ。おそらく何かの事情で別れ別れになった恋人達が描いたのだろうか。いつしか再会する事、かなわぬまでもせめて夢でも会いたい。そんな思いでこの絵を、そしてこの文を書いたのだろうか。人一倍感受性の豊かな香澄はそう思いながら胸がいっぱいになっていた。
「…会いたいな…幸男くん…。」
 そうつぶやく香澄。知れずにこぼれた涙が絵を濡らす。
キィィィィン…。
 香澄の脳裏に奇妙な音が響いた。
「えっ?」
 次の瞬間、香澄の体は金縛りに合い自力では動かせなくなる。
"えっ?何?何なの?"
 突然の事態におののきながらも指一本動かせ無い事にとまどう。そうこうしているうちに彼女の手は導かれるように寝間着の裾をつかみ、静かに引き抜き始める。
"ち、ちょっと、や、やめて…。"
 そう言いたくても口が動かない。そうしているうちに彼女の手は下着に伸び、遂には一糸まとわぬ姿をさらけ出してしまう。
"そ、そんな…。"
 自分しかいない部屋の中、家族は既に寝入っているとは言えこの状況は純情な香澄には衝撃的だった。香澄はただ顔を赤らめながら立ちすくむ事しかでしきない。そこへ…。
シュルルル…。
 あの巻き物が蛇のように地を這うと香澄の裸身に巻きついた。
"きゃっ!"
 巻き物は香澄の体をなめ回すように回り続ける。
"や、やめて…。"
 香澄は声なき声で恐怖に満ちた声を上げる。しかし、同時に素肌をなでられるほのかな快感もまた彼女の心に染み込んでいた。それを知ってか知らずか巻き物は香澄の体に自らをすりよせる。
"いや、あっ、あん…。"
 上気する香澄の素肌はいつの間にか青く染まっていた。それは巻物に描かれた竜を形作る絵の具であった。そうしているうちに香澄の体は青一色に染まり、巻き物はその体をさらに激しく、優しく締め上げる。
 そして、それが頂点に達した瞬間、
ブォンッ!
"ああーっ!"
 巻き物からはじき出された青い塊―香澄はそのまま地に落ちた巻き物の中へと消えて行った。そして巻き物はポトンとベッドの上に落ちる。その中にあの竜の姿はなかった…。

「…ん、んん…ここは…。」
 川のほとりで意識を取り戻した香澄はゆっくりと体を起こす。ふと見渡すとそこは自分の部屋ではなく、中国の山河を思わせる風景が広がっている。
「まさか…ホントに絵の中に入っちゃったの…?」
 突然の事態に驚きを隠せないまま周りを見渡す香澄だが、ふと尻の辺りに違和感を覚える。
「なんだ、尻尾か…尻尾?」 
あるはずのないものが生えている事に驚きながら自分の姿に目を向ける。
「え…?これって…?」
 尻から生えているのは確かに尻尾だった。全身びっしりと青い鱗に覆われた長くてたくましい尻尾。そして同じ様に青い鱗に覆われた全身。両手足にはたくましい爪が伸びている。頭に手を伸ばせばそこには案の定立派な角が生えている。
「ま、まさか…。」
 川に自分の顔を映して見る。そこには一匹の青い竜がいた。その姿はまごう事無くあの巻物に書かれていた竜だった。ただ違う事と言えばその両手足はスラリと長く、胸の辺りには柔らかなふくらみがあり、タテガミは彼女の短めの髪を思わせるものであった。よく見ると口元こそ竜そのものだが顔つき自体には元の自分の名残りがある。
 そう、そこにいたのは竜の姿をした人間―竜人であった。
「ど、どうしてこんな事に…」
 変化した姿を確かめる間もなくあわてふためく香澄。そんな彼女を我に戻したのはあの漢詩だった。
「そう言えば、「互いに絵を掲げ互いを思うべし」と描いてあったっけ…と言う事は…。」
 その途端、香澄は体をひるがえすと静かに低空を飛び始めた。
"きっと幸男くんもここにいるはず。竜でも何でもいい、どんな姿になっててもいい、幸男くんに会いたい!"
 その一念で香澄は飛び続ける。野を越え山を越え川を越え飛び続ける。その視界に一瞬何かが入った。
「幸男くん?」
 地に下り立つと静かに歩みよりながら岩陰に隠れたその存在にそっと声をかける。
「幸男くん、わたしよ、香澄…大丈夫、わたしもあなたと同じ姿になってるから…。」
「…か、香澄…なのか…?」
 岩陰から届く声は確かに幸男のものだ。香澄の心に安堵が走る。それから間もなく、幸男は岩陰から静かに姿を表す。
「…!」
しかし、岩陰から現われた幸男の姿に香澄は思わず声にならない声を上げた。それは確かに幸男だった。しかし、その体は黒いシマを交えた白い毛皮に覆われ、尻からは細長い尻尾が生えている。顔を見れば頭頂部に広く伸びた耳、顔つきは幸男の名残りこそあるもののネコ科、特に虎の特徴を思わせる。早い話人の姿をした虎人がそこにいた。
「幸男くん…。」
 驚く香澄に対して幸男は照れくさそうに、
「いや、おれが持っていたのは白虎の絵だったんだ。あれからやっぱり別のものを渡せばよかったかな…と絵を広げて見てたら…あとはお前も体験した通りだ。」
 と言いながら頭をかく。
「バカバカバカ、そうならそうと早く言ってくれればよかったのに…。」
 そう言いながら胸を叩く香澄。人の姿では頭一つ分小さな香澄だが竜人となった今ではほぼ同じ位の背丈であり、むしろ角の分香澄の方が高い。
「おれだってまさかホントにこうなるとは思っても見なかったんだ。それ位はわかるよな?」
「うん…でも…。」
 ようやく一息ついたのか香澄が顔を上げる。
「でも?」
「やっぱり会えて嬉しい。竜になっても虎になってもわたしはわたしだし幸男くんは幸男くんだもの。」
 そう言って香澄は幸男を抱きしめる。
「ま、まあな…。」
 照れくさそうに頭をかく幸男。しかし、その腕に入る力はだんだん強くなってゆく。人の力では想像もできないくらいに。
「か、香澄…。」
「幸男くん…せめて今この中だけでも幸男くんと一つになりたい。今は夢の中だけでもいい。本当に一つになれないのはわかっているし、本当に一つになっちゃったら"わたし"は"わたし"で、"幸男くん"は"幸男くん"でなくなっちゃうのは嫌なのもホント…でも、今はそうしたいの。お願い幸男くん、わたしと…一つに…。」
 最後は涙ながらに体を寄せる。それを見ながら幸男は、
「香澄…いいぜ…。」
 と香澄を抱きしめる。すると、二人の体はまるで絵の具を溶かしたようにまじりあい一つになる。まるで渦巻きの様に動く物体の動きが止まった時、そこには虎の両手足を持ち、虎のシマを生やした鱗を持つ一匹の竜人がいた。
 竜人は無言で空を飛び、かと思えば湖面に飛び込み水中を舞うように泳ぐ。そして大きな音を立てて水面から飛び出し、岸辺に降り立った竜人の姿が再び水に溶けるように崩れ、渦を巻き始める。それが終わるとそこには竜の手足と尻尾―形は竜、覆うのは虎の毛皮―を生やした虎人が立っていた。そして虎人は竜人と同じ様に無言で地を駆け、岩山を駆け上る。
 竜人と虎人は交互に姿を変えながら山河を駆ける。あたかもその元となった恋人達の熱い思いを具現するかのように…。

 無人の一室。ベッドの上に無造作に落ちていた巻き物が不意に浮き上がり、螺旋を作るように動き出す。そしてその中から一つの青い塊が浮かび上がり、巻き物はそれを包むように狭めてゆく。青い塊はみるみる人肌の色に変わって行き、その形も少しづつ人の姿を取ってゆく。そして全てが終わり、青竜の絵を浮かべたあとひとりでに巻き戻った巻き物が床に落ちた時、そこには生まれたままの姿で満ち足りた笑顔を浮かべながら寝息を立てる人間の少女の姿があった。

「…幸男くん、元気でやってる?わたしもなんとかやってるよ。あちらもまだ暑いんでしょ?体壊さないように気をつけてね。」
「あのな、お袋みたいな事言うなよ…でも、気遣ってくれて嬉しいぜ。」
電話越しに幸男と会話を弾ませる香澄。その顔は明るい。  あの世界で身も心も一つになった二人だが、"本当の意味で"はまだ先の話である。でも今の二人にそんな事はどうでもよかった。電話越しとは言え互いに笑い合い、ともに泣き合える。それを感じられるだけでも十分であった。
「…あっ、電話代も大変だしそろそろ切るね。」
 電話のボタンに手を伸ばす香澄。
「おい待てよ、もう少しいいだろ?」
 電話の向こうから物足りなさそうな幸男の声がするが、それに対し香澄は、
「続きは…ね?」
 と笑顔で言った。その手には"いつもの"巻き物が握られていた…。


終わり
小説一覧へ