夢と現に狐な話・前編 冬風 狐作
「いやぁ、また君は古い本読んでるねぇ」
 まだ寒い冬の朝、車庫から回送されて来たばかりの車内に響く言葉。それは空いている車内ながら隣に座って来た男から発せられたものだった。
「あ、これです?」
「ああ、いやしまわんで良いとも。いや、この21世紀に草書の本を開いているなんて実に珍しいからね、いやいや思わず声をかけてしまってすまなかった」
 てっきり本を開いているが故に肩や肘がはみ出ていたか、と解釈しかけたのをその相手は返す言葉で否定してくる。その上で、またチラッと開いている本を見て書名を言い当ててくるものだから、私は思わず驚きを交えた相槌を返すしか出来なかった。
 そんな内に幾らか早口の、合わせて平板な英語も交えた車掌の放送が流れるなり、幾らか短めの発車メロディが終わると共にドアが閉まる。まだ日も上がって間もなくな色に染まる車窓を通路向こうに見やりつつ、再び口を開いた男の話にここまで来ると私は耳を傾けざるを得なくなっていた。
「草書でしかも野ざらし紀行、恐らくは門人が独自に綴じたものだろう。それは承知しているかい?」
「いやそこまでは、ただ読んでいて芭蕉のものだとは分かりましたが、そんなに貴重なのです?」
「それは勿論だとも、何せあの松尾芭蕉が旅のイメージを纏うきっかけになった、その旅を綴ったものだからね。奥の細道が有名過ぎて霞んでしまっているのは否めないがこれがなければ芭蕉は芭蕉たり得なかった、と私は思うよ」
 それはとても熱を帯びる返事であった、幸い車内は席は半ばほど埋まっており大半が外国人旅行者であったからそもそもが幾らか騒がしい。それもあって男がそう発言しても車内の雰囲気を乱すとかそうした事はなく、加えて列車も多摩川を渡っている最中であったから気にするほどはなかったろう。
   とは言え、男自身がいかんいかんと一旦口を噤む。その上で話し続けても良いかね、と返してきたものだから大丈夫です、と私は返す。むしろここまで話されて、手にしている本がそこまで貴重なものとは教えられた上に興味を強く惹起させられてしまった、そしてまだそれなりの時間はこの列車に乗る旨を伝えたら男は満足げにうなずき、こう続ける。
「話し出したらキリがない、だから半分与太話に感じてくれても良いが…その本の大半は一通り読んでいるか、そこを知りたい」
「ああ、それならそうですね、草書体の読み方の練習も兼ねて幾度かもう読み通しています」
「ならば話は早い。それにこの野ざらし紀行をそれだけ読めてるならば、恐らく私の問いかけが理解できると思うが…その中に出て来る地名の谷村について、良いかな」
「谷村、ああもう最後の頃に出て来る甲州の、ですね」
「その通り、野ざらし紀行、奥の細道と先に挙げたがより言うならその谷村との関りがあったからこそ、それ等の流れが始まった。そこについて是非、ね」
 まるでその男の語り方は大学の少人数でのゼミ、あるいは履修者の少ない講義にて特に力を入れている分野について教授が語る時のそれだろう、と振り返った今となっても私は思う。列車は鉄橋を渡り終えて次の駅に到着し、寒い風と幾らかの人を出入りさせたらまたドアを閉めたそんな頃だった。

 天和3年も明けて早々だと言うのに小仏峠、即ち小仏関所は混み合っていた。理由は簡単である、その数日前の旧年12月28日に江戸市中を襲った天和の大火にて多くの人が焼き出され、それにより江戸を出る人また入る人、そして物資の流れが五街道とは言え決して広くはない甲州街道にも及んだからである。
 特にこうした時は元々取り締まりの厳しい女性の通過に対する監視が強まろうと言うもの。故に関所役人の取り締まりも強まる中をその2人は易々と通過して今はその移動を助ける者と共に一路、今晩の宿となる宿場町へ向かうところであった。
「いやいや、実に混んでいましたな」
「思わぬ大火が故ですから致し方ないとは言え、こう高山様の裏書がついた往来手形を頂けたのは実に助かるものです」
 その2人の内のひとりは時を経た後、世界的に名を知られる事になり俳聖と称えられる男たる松尾芭蕉。そしてその弟子芳賀一晶は深川の芭蕉庵を大火にて失い、辛うじて命は助かった所を以前より親交ある門人麋塒こと高山傳右衛門の庇護を受け、今は江戸から遥々と甲州は谷村へと向かう途中であった。
「何より、日野からは高山様が遣わして下さった秋山様の案内もある。いやはや何とも助かるばかりです、秋山様」
「なんのなんの、お気遣いなく。私も芭蕉様のお話は主より良く効いておりますが故、この度は丁重に、とうかがっております」
 芭蕉達にとり幸いであったのは門人たる高山が谷村藩秋元家の家老筋の者であった事だろう。伊賀より江戸に出、時に無職者として役人から目をつけられそうになる事もあった芭蕉にとり、そうした有力者との関係は実に心強く身元を固めるのに役立つものだった。
 特にこの度も芭蕉庵近隣にあった谷村藩下屋敷より大火の一報を受けた高山―この時には彼自身が国家老の地位にあったからこそ、その指示により下屋敷の者に保護され、かつ仮の住まいを谷村に用意するとの手筈が整えられた。
 それは多数の庶民が大火に焼け出されて、身を寄せる場所を求めて右往左往する中で非常に恵まれていたのは言うまでもない。よって下屋敷の者による身支度の支援から、更に混乱する江戸市中を出る際の護衛もつけてもらえた上で到着した日野宿にて高山直々の指示により迎えに来た秋山と合流したのは昨晩の事であった。
「何分、あの混乱、また急な事ですから日野では間に合いませんでしたが次の宿場に馬を用意しております」
「馬とは、それはまたかたじけなく」
「しかし、私共は庶民。五街道たる甲州街道で乗って咎めなどはございませんでしょうか」
 馬、その響きに両名共に幾らかの安堵と驚きを得たのは当然なものだった。特に芳賀が口にしたのは当然であった、江戸より出でる天下の五街道がひとつで、と思うところを秋山が軽く笑いながら宥める、そうご安心を、と。
「確かに小原宿一帯はまだ天領、されど接するは甲州が都留郡にて天領ではなく我らが仕える秋元家の支配する土地。かつ小仏の関の西に位置するからこそもう気にする事はございません。芭蕉様に芳賀様をここより馬にて案内する旨、それは高山様が指示故に清水殿もそれは承知しております」
 それならば、となるが庶民身分たる芭蕉達にとり何とも心強いがものなのは言うまでもない。そして馬に乗れたならその速度たるや飛躍的に上がるものだからこそ、幾らか西に傾きかけた太陽を甲州に続く山々の先に見上げた芭蕉は改めて大きく息を吐き、胸を撫で下ろすのであった。

 およそ江戸にて芭蕉庵を焼き出されてからひと月以上は経過した頃、ようやく慣れた甲州は谷村の寓居にて芭蕉は大きく体を伸ばしては身支度を整えていた。
 江戸に比べると富士山に繋がる山と川が作り出す谷地に広がる谷村の街は何とも静かなものだった。何より風が冷たい、水も冷たいが風のそれはより極まっていて冬になれば冷える伊賀国生まれの芭蕉の身にとっても中々に痺れるものであった。
 とは言え、谷村藩国家老にして門人の高山が手配により、それはもうしっかりと防寒の類に関わる手配はされていたから慣れてしまえばある程度は何とかなると言うもの。そうした背景もあり、今日は何かの座敷に呼ばれるとかそうした話もないから辺りを歩いてみよう、と思い立った次第となる。
「さて行きましょうか、よろしく案内お願いします」
「ええ、本日はよろしくお願い致します、芭蕉様。私、高山様が家来の孫之丞と申します」
 今日は絵の術を有する弟子の芳賀は秋元家の者にその件で呼ばれていただけに、芭蕉に伴うのは身の回りの世話役として高山より遣わされた者が辺りの道案内ならば、と推薦してきた孫之丞と名乗る者であった。初対面ながら物腰の穏やかそうな青年のそれに芭蕉もまた微笑んで返す、そして藩庁も近い谷村の街中より一路、桂川に沿って上っていく道となる。
「良い天気でそろそろ梅も綻びそうですね、孫之丞さん」
「ええ、そろそろでしょう。とは言え、お気づきとは思いますがこの谷村の土地は何とも冷えた空気が抜けます故、甲州でも府中でそろそろ梅が散らんとなる頃にようやくとなるのもあるものです」
「確かに、実に冷涼で、こう水と共に江戸にはないものがありますね」
「ええ、正に。そしてそれをより感じられる場所へと今はご案内致しましょう」
 孫之丞により案内される場所は以前に酒を伴う席にて矢張り谷村の気候に話が及んだ際、それをより感じられる場所があると伝えられて以来気になっていた所となる。距離としては芭蕉に提供された仮寓も近い藩庁からは半里ほど、次第に街並みが途切れ行く中で耳に音が届き出せば、もう間もなくなものだった。
「いや、これは凄い。この音が若しや?」
「ええ、その通りです。これがこの谷村が誇る名瀑より発せられるものですよ、芭蕉様」
 より近付けば、幾らか音が遠くなるかもしれません。そう孫之丞が示した通りであった、幾歩か歩む度に辺り一帯に音が反響していく。偶然、早駆けの馬が正面から来たので避けられたがその駆ける音すら小さく聞こえるほどの音は水が生む、正にこの地が誇る轟音の滝と人は呼ぶ所より発せられる。
「これは、見事な」
 こちらです、と導かれて桂川の河岸を下って行けば幾段にも重なった滝を見上げられる位置であった。谷底が故に抜ける風はより冷たく、傍らを豊かな、とするよりも勢いある塊と化した水が轟々と流れ行く。しかしそれすらも上回るのが目の前に広がる滝の姿に芭蕉はこれは、と幾らか口を開いては圧倒されてしまう。
 隣で何事かと孫之丞が喋ってくる、そして何かを示したかの様に芭蕉は捉えてしまった。そう、前に進んではみてはどうかと促された様に感じた芭蕉は幾らか足元に気をつけつつ踏み出した時、後ろから孫之丞がまた何か発した。しかし滝が生み出す轟音によりかき消されてはっりとは分からないが、これはもしや制止しているのでは、と思い直したその時だった、芭蕉の頭の上に何か冷たいものが触れ、そして瞬時に強い寒気となって体に染みたのは正にその時だった。


    続
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