山間の駅 冬風 狐作
「ん、寒っ」
 大分長い気怠さから抜けた途端、私は全身に感じる温度へと反射的にその言葉を漏らしてしまう。
 それ等の大体は気温から来るもので、幾らかは腰掛けているプラスチック製のベンチから伝わってくる。とは言え後者は間もなく硬さの方を強く感じる様になってしまったし、前者は湿気を伴ったそよ風に寄るものと認識するに至るにそう時間は要しなかったものだし、続いて得られたのはどうしてここにいるのだろう?との疑問だった。
 目に映るのは暗がりの中に等間隔に照明が並ぶ眺め、ただそれと結び付けるには記憶は余りにも曖昧だった。はっきり覚えているのは家に帰ろうとして食事会上がりに地下鉄の駅へ駆け込んだ時の事で、その後がどうも明瞭に浮かんでこない。
 ただ酷く暑さを感じていたのは分かるものだし、鼻を突く自らの体から漂う汗臭さは恐らくそれを裏付けるものだろう、と合わせて結び付けては大きな溜息と合わせて瞳を強く、わずかに涙が生じる位に閉じてから大きく頭を振ってより明瞭な意識を得んとする、そんな私がそこにはいた。
 息を吐いて吸う、それを繰り返す度に脳みそが幾らか軽くなっていく感覚を得られる。同時に体に纏っている臭いがどうも知っている汗臭さと違う事にふと気付けてしまう。それは確かに悪臭だった、汗が大量に出て乾いた後のあの臭い。ただ何だろう、どうも鼻腔に伝わってくる香りはそれとは違う種類のものがあると示してくれ、嗅げば嗅ぐほどに確実なものになっていくのだから。
 そして同時にある事実を知る事になる、そう今、自らが身に着けているのは最低限の下着程度しかないのだ、と。
「やば…っ、誰かに見られたらヤバいって」
 途端に意識がより覚醒するのは幾らか危機感を、特に理性的に抱けたからだろう。まだまだ残っていたぼんやりとした辺りへの認識は一気に改まり、今いるのは公の場所たる駅のホームの上であると知れた途端、私はどこか隠れられる場所がないかと辺りを見回してしまう。
 幸いにも、と書けるのはそこが人気のない、駅の周囲も専ら木々に覆われていて人家のもたらす光も見当たらない様な土地にいる事だろう。だからホームには私以外誰も見当たらなかった、その点では少しばかり安堵出来た瞬間、静寂さを覆す警告音が辺りに鳴り響き始める。
「ポーンポーン、列車が通過します、ポーンポーン、ホームの端に寄らないで下さい、ポーン…」
 合成音声との組み合わせによるその放送にどれだけ背筋を冷たくした事か。勢いでとするよりは恐る恐る立ち上がり辺りを見渡し、ホームを両端から島の様に挟む線路の内、より暗さの強い側より来ているレールからの軋み音が秒毎に強まってくるのに気付けたら次に来るのはそう身を隠さなくては、との意識。
 つい今し方まで座っていたベンチの下は狭くて、今から身を折って隠れるのは厳しそうだった。しかしその間にもレールから辺りに伝わる音は強まり、遠くには前照灯の鋭い明かりも見えてくる。通過する、と放送されている列車なだけに迫ってくる速度は速い。もう幾らかの猶予も、と思えた瞬間に私は一気に駆け出し格好の身の隠せる場所へと滑り込んだ。
 そこはホームの外れに置かれていた古い水飲み場だった。人の背丈よりもわずかに低い壁状の構造となっていたから通過する列車の来る側とは逆の方に身を潜めてから間もなく、わずかな警笛音がした後、恐らくは通常通りの速度で侵入してきた列車はそのまま通過していく。

 壁の向こうに隠れつつ、轟音と幾らかの振動を辺りに散らしながら通過していく列車が過ぎ去るのをどれだけ待てば良いかと思いながら、私はふとそこに鏡があるのに気付けてしまえた。
 水飲み場であるから当然だろうがこんな人気のない暗がりの中にある駅だと言うのによく磨かれていてきれいな鏡面を何気なく見つめた次の瞬間、私は大口を開けていて、そして一言言葉にならぬ悲鳴を上げた、とだけとにかく書けるだろう。
 それはホーム上に相変わらず流れている列車通過を告げる警報音をかき消すほどではあったろうが、先に触れた列車が辺りに響かせる音が上手く打ち消してくれる程度の物ではあった。ただただ鏡面を見つめたまま、私がしばらくその場で固まってしまったのは言うまでもない。
 だから通過した列車と入れ違いに入って来た対向列車―幸いにもこちらもこの駅には停車しない通過列車であったのだが、こちらの存在には中々気付けなかった。どうしてそこにいるのか、それは身を隠すべくであったを思い出したのは続く列車の最後尾が真後ろを通過した辺りであった、とだけ触れておけるほどの発見に私は打ち震えていた、としか言いようがない。
「え、あ、見られちゃったかもだけど…なにこれ、この顔、何よ!?」
 過ぎ去っていった2本目の貨物列車の後尾灯が夜の暗がりの中に消えていくのを見送った後、改めて鏡へと顔の向きを戻した私は頬をひたすら撫でてしまう。それは次第に擦るへと変わっていった、感触は滑らかさではない硬さを伴うものであって、まず浮かんだのはデッキブラシの感触のそれだった。
 ただそれはもう顔の半分を覆っていた、擦れば取れるかも、との期待を幾らかでも抱いていなかったと言えばウソであるが、すぐにそうではないと気付けてのは事実。しかし止まらなかった、止められなかった。とにかく頬の上に生じていた濃密な毛の塊、それを刺激すればするほどに顔が変形していく。
 特に顕著なのは鼻と耳だった、特に前者はまず上顎、次いで下顎を取り込む形でにょきっと前へと盛り上がり突き出していく。先端はそれこそ真っ黒になって鼻腔を覆って湿り気を有し、それ以外の部位は肌色を覆い隠す濃密な毛しか見えなくなって新たな輪郭となっていく。
「あ、ああ、なにこれぅ…え」
 うめき声と荒い呼気により開けた口の中にはもう立派な歯牙が並んでいた、舌も長く、唇に相当する個所には黒い組織が新たに生じて整いつつあり、その喉奥からは幾らか鳴き声とも取れる音が漏れ出していたのはとても見逃せるものではない。
 そして耳、昔に開けていたピアスの名残の穴の凹み諸共に全体が大きくなりながら変形と合わせて頭の上へと移動していくのが分かる。息を吐けば吐くほどに、その息が伴う臭さは顔全体から首筋を経て広がって行く毛並みの内より発せられる香りと混ざり、先に私自身が嗅いで察していた自らの汗のにおいとは違う何かの正体であると明瞭に宣してくれていたものだし、だからと言って何か助けになるはずはなかった。
 ただひたすらに全身にむず痒さが強く走っていた、幾らか軽さを取り戻していたはずの脳みそ自体は時折来る刺激―それ等は体が毛に包まれて、更にそれまでにあった輪郭が大きく変わる度に水中に放り込まれた時の様な強い不快感に晒されつつ、私は水飲み場に両手を突きながらその訳の分からない何かに耐えていた。
 見たくはないが見てしまう鏡の内の姿、顔はもう覚えのあるものではなかった。ただその新たな顔が何であるかは記憶と知識が教えてくれる。
 しかし今の姿とは完全に一致するはずがないだけに有り得ない、と逃げてしまいたくなるが、その途端に来た大きな呻きにのけ反りと共に片手を腰に回すとそこには大きな毛の塊が垂れている事実に気付いてしまえる。手が触れているのはその付け根であり、それに対して尻尾との単語が浮かんだ途端に急に脳みそが沸き立つ様な感覚に襲われ、衝動的にその場で跳ね上がりたくなってしまう私がいた。

「ひ、ナニ、家に帰るだけだったのに、ひっ」
「これこれ落ち着きなさい、かわいい狸じゃないか」
「ひぎゃ、え、た、狸って見られて、え、あんたっ」
 壊れた様に、突き動かされる様に言葉を発し出した途端、それを制する様に落ち着き払った声が駆けられる。途端に思考はフルで回転し出して、ぐっと顔を向けた先にいるその声の主を見て後ずさりをしてしまえる。
「騒がしいから何かと思えばなりかけ狸とは珍しいものを見た、良い良い、そんなに目をぐるぐるさせるではない、同属みたいなもんじゃろ」
「は、なりかけ狸ってアタシは人間だって、あんっ」
  「ほほ、久々にそういうセリフを聞いたものよ。まぁそうであって仕方なかろう、察するに知らずに気付いたらであろう?ここにいて、成す術もなくねぇ」
 声をかけつつ迫ってくるのは人ではなかった、同属とは言ったがその顔に浮かぶのは別の存在を示す言葉。そんなあり得ない、とばかりに思って固まる私の肩に手をかけてくる。
「ふん、お主、若しかして…これを食らったか?」
  「へ、これって何時の…んあ」
「ふんふんふん…ああ矢張り、あの葡萄美味かったろう?あれな、我の物なんじゃが不届き者が盗んで街に持って行き、どうも売り捌いたのがどう言う訳か、お主の口に運良く入ってしまった、と種明かしをしてやろう」
 どこかしら笑っているかの様な口調で言葉が投げかけられる、合わせて私の動きを封じる様に額に手の平が押し付けられて、その途端に私の意識はどこかで歪んだ、もう直接のその内に言葉を投げかけられている様な心地すらしてしまえる。とても体が軽くなる、そんな感覚が伴われていた。
「まぁお主は巻き込まれじゃな、何とかしてやらんでもないのだが…おっといかん、幾らか意識に潜り込み過ぎたか。調子に乗って精気を交わしすぎてしまったねぇ、いけないけない」
「あ…あぎゃう、ぎゃ…」
「こうした事態は久々だからねぇ、我もついつい加減を忘れてしまったよ。うっかり子狸にしてしまったわ、抱いてあげよう」
 訳の分からない事態は訳が分かる側からすれば説明するもまだるっこしくなるものだろう、とにかく私は訳が分からないままに抱き上げられていた。丸い耳に大きな尻尾を一尾垂らした、目元の黒さが際立つ1匹の狸と化した姿を白い衣服を纏った相手にしっかりと抱きあげられて駅の出口へと向かっていた。
「なになに、案ずる事はない。お主は悪くないからのう、ただ我もこうした、人が人でなくなる事態に接するは久々だから元に戻せるかは、しばし休みつつ待つが良い、流石に調べねばなるまい」
 纏うは狩衣、立烏帽子を被った頭には大きな三角耳、内は朱く、外は純白の毛に覆われていて人ではない獣の顔をした人ならざる同属、即ち狸と対で置かれる事の多い人の容姿をした白狐であった。
「いやぁ幾年振りかのう、こんな事は。それも山の気に中てられたではなく、里に出た山の気の詰まった物を食して人で無くなる者が出るなぞ久しくあり。とにかく由々しき事態じゃ、さてさてよくよく調べねば。まぁ我の元に戻って来れたなら安心じゃ、この山は我の所領だからねぇ」
 人気のない駅の階段を折り行く草履の音が響く。そして抱く人であった子狸に対して狩衣姿で幾重もの尻尾を揺らす白狐が語り掛ける音が相重なって間もなく、また静寂さが辺りを包んだ。

 駅舎の出口で幾ら待てども誰も出てはこない夜。そこにまたホームに列車の、今度は到着を告げる自動放送が警報音と共に鳴り出すなり、今度は短い編成の普通列車が駅へと入って来た。
 ドアが開けど誰も乗り降りはしない、そこに車掌の吹く小さな笛の音が響いたら後は走り去る音だけが山間に響くのであった。
  「これであと少しで仮眠出来るなぁ」
 そんな列車の運転士が前方を見つめながらふと小声でつぶやく、時間はもう日付が変わる頃が近くて車内に乗っているのは車掌含めて片手で数える位だろう。
「はぁ、そういや数時間前に騒いでた痴女騒動ってどうなったんだろうな…線路に入って結局どっか行っちゃったらしいし、最後まで気を引き締めとかないとな。まっこんな離れた田舎で出てくる訳がないけどさ」
 幾らか感じる眠気を覚ましつつ、彼はまたつぶやいていた。とにかくあと30分ほどハンドルを握れば終着駅、もう一息だと今日にあった出来事の幾つかを思い出しつつノッチを暗闇の中に向けて込めるのだった。


 完
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