「なに、時間なら幾らでもある。しかし無限ではないから、ちょっと立って見よ。お主のいでたちをこう、しっかりと我に見せておくれ」
幾らか古風な喋り方に導かれる形で僕は腰を上げ、向かい合わせとなっている座席の間で相手に対してその身なりを示す事になった。訪れたのは幾らかの沈黙、しかし相手は瞳を幾らか細めて見つめた後、向きを変える様に告げてくるからそれに僕は従い、今度は背中をそちらへと向けた。
「ふん、なるほどねぇ。要はあれか、お主は野狐を意識してそうした身なりにしている、で良いのじゃな?」
「ヤコ、ああ狐、ですよ、ええ狐を意識しています」
「そうかそうか、それ自体は良く分かる。何せお主は白いシャツに大きくキツネの文字を躍らせているのじゃからな、良く目立つほどに野狐を意識して、それに沿った服装で、と実になっているのはねぇ、良く分かる」
白いシャツに大きくキツネとプリントされているのをこう言葉にされるとどこか気持ちをくすぐられる様な感覚になったのは言うまでもなかった、その上に纏う明るいオレンジ色のパーカーは本当ならもっと厚手の物があるのだが、今はいかんせん酷暑の時期。何とか探して見つけた薄手のそれに続いて、狐耳のついた帽子にも触れられた後に言及されたのは腰から下についてであった。
「腰から上をそれだけこだわっているのに腰から下は意外とそうではないのは何故じゃ?」
その頃にはその相手も立ち上がっていて、電車の窓に向けてたっている僕の後ろをすっかり封じていた。見かけによらず背は高く、いつの間にか肩に手を置いてすらいる。
幾らか不鮮明ではあれ、その手が白い毛並みに包まれているのを僕は見逃さなかった。故にそちらへとついつい意識を集中させてしまいがちであったが、返事を求められているからこそ無碍にして機嫌を損ねない様に口を開く―どうも上手いのが見つからなくて、とすればそれは致し方ないとなった後、肩にあった手は脇腹を撫でる様に腰の方へと向かい、何かを掴んだ。
「しかしこれはあったのじゃな、こう似せた尻尾は見つけられたから下げているのか」
「そ、そうです。と言うよりも最初にそれを見つけたから、身に着けて歩きたくなって、はい」
僕に言わせた途端に相手は口元を大きく歪め、言葉こそすぐには続いて来なかったとは言え面白いと思ったのだろう。金色の瞳はより細くなり、突き出たマズルの先端を長く赤い舌がペロッとひと舐めした後、ようやく口が開かれる。しかしそこに被るものがあった、それは電車内の自動放送、間もなくの次駅到着を告げるそれが被った事に2人して幾らか意識を持っていかれたのは言うまでもない。
だからだろうか、その感覚は不意に訪れた。僕に対して何等同意を求めるとか、そうした事は一切なしに相手―ここに至ってようやく女性であるのに気付けたが、その白い毛並みに包まれ、かつヒトではない獣の顔をした、いわゆる僕が趣向として愛好している存在に過ぎないはずの「獣人」たる彼女はちょっと時間をかけ過ぎたのう、と囁きつつこう続けた。
「ま、これはプレゼントじゃ、あんまりするものではないし、そもそも出来ぬ者も多いのじゃが…我と出会ったのがある意味運の尽きじゃのう、人間だったのにのう?腰回りがすごく熱いじゃろう?わずかな間に楽しませてくれたに見合った礼にあげてるだけじゃ、受け取るが良い、同族とする誼じゃ」
その言の通りだった、自動放送との重なりが終わるか分からぬ内に腰回りが熱くなった。特に、となるのはベルトから尻尾を吊るしていた辺りで背筋と背骨へ直に刺激が伝わっては、そのままに脳みそへと新しい何かがそこに生じた感覚と認識が信じられないほど鮮明に流れ込んでくる。
まさかの、いや、そんなとの気持ちを抱けたのは言うまでもない。内面的な高ぶりが不意に生じて大きくのけ反って瞳を閉じた次の瞬間、全てが弾けた。
そうして訪れたのはほんの一瞬の静寂と暗転。次に落ち着きを取り戻した際には駅に到着し、乗降する人々の動きでざわついている眺めの中、僕は座って見つめているだけだった。その内に発車ベルが鳴ってドアが閉まり走り出した時にようやく意識が明瞭になり、大きな溜息を吐かざるを得なかった。彼女の姿は当然ながらなかった。
「次は…、次は…。お出口は左側です」
本来降りるべき駅を過ぎていたのもあり、次の駅で僕はホームへと足を進めた。その時、ふと耳が捉えたのは入れ替わりで乗り込んできた家族連れの子供が発したと思しき声だった。
「ねぇ、ママ、あのお兄ちゃん尻尾があるよ、すごーい、なんで?」
特に最後の疑問を呈する響きがドアが閉まって発車していく電車の音が辺りを包む中、僕の脳裏にこだまし続けた。幸い、その駅は小さな駅で他に人の姿は見当たらなかった。先に降りた人々はもう階段やエスカレータの先に消えてしまったのを見ると、ホーム端にある便所の中へと僕は今までにない足取りの軽さを感じつつ駆けこむ。
入ってすぐにある洗面台の鏡、そこに映るのは間違いなく僕の姿。狐耳のついたオレンジの帽子とパーカー、キツネと片仮名で大きく胸元を飾る白いシャツ。背負っていたリュックを下ろして体の向きを真横にしてみる、真後ろにするよりも見やすいからではあるがパーカーの裾下からはこうしたファッションをするきっかけとなった着け尻尾がベルトから吊り下がっているはずだった。
確かにそこには尻尾があった、ただ明らかにベルトとズボンを歪ませていた。更に言うならシャツの下から大きくくねってあふれていた、となるだろう。色も見覚えのあるものと違う濃い目のオレンジ、パーカーのそれよりもより鮮やかさのある幾らか堅い直毛に包まれ先端は白い、アカギツネの尻尾がそこにはあった。
「これ、動く…え、夢じゃない?本当なの?」
まさか、と思えば動いて振れるその尻尾。その感覚は確かに脳に伝わってきて、またまさかと思いつつ意図して見ればまた動き。間違いなかった、確かだった、リアルだった。元々あった着け尻尾こそなくなっていたが、僕の尾てい骨からは今や立派な太い狐の尻尾が生じていて、すっかり体に器官としてある事に僕は唖然とするしかなかった。
同時に耳元で「どうじゃ、もっと欲しいか?」と幾らかの笑い含みで囁かれた様にすら感じつつ、また息を吐き地下鉄特有のこもった空気を大きく吸い込むしか出来なかった。