お稲荷さんとアカい本冬風 狐作
「しかし、こうも渡航が難しい時代が来るとは思いもしなかったね」
「いやぁ、本当だ。旅券を使ったのも一体何時が最後だったやら」
 赤提灯の灯るもまだ早い頃合の中、ほのかな酒の匂いと共に陽気ながら残念がる声が交わされる一角があった。
「お陰、と言っちゃなんだが小金は貯まる様にはなったがね。それでも矢張りこうもままならぬと恋しい限りだ」
 飲み交わしてるのは2人の男だった、良い具合に酔いが回っていると見えて声も少々大きくなってきた頃、その声の中に新たなやや年の頃は若く感じられる声が加わっては問いかけを投げ始める。
「ほー、そうか、兄ちゃん…そういう経験がないのか」
「年は…?ああ、そうか、それなら仕方ない。その年齢なら経験は確かに難しくて仕方ないな、本当惜しいもんだよ!」
 唐突に交わってきた声に当初は戸惑いの色も交えていた男達は次第にその調子を再び上げてくる、そして惜しみなくそれぞれの思い出話を交えだし、それぞれの頭にはベルリン・ロンドン・モスクワ・ニューヨーク…と今ではニュースの中でこそ登場すれど行くのは容易に叶わなくなった異邦の都市名が冠されていく。どうしたのこうしたの、そうそう写真が残ってるんだの、俺達のあの頃の旅券はどこにしまっちまったかな?と大いに盛り上がっては酒も深まっていく。
「全てあの病気のせいだ、あれがなければ幻になった東京オリンピックをベルリンで一杯やりながら見ているはずだった」
「俺はぎりぎり規制が入る前に行けたが、まぁ思った通りになったな。あれはどうにも出来んよ、対処が考えられない」
   酒も回るとどこかで急にストンと調子が落ちる時がある。これは飲酒の経験があるなら分かる事であろうが、しばらくして彼らにその波が訪れた時は話題の中心もそれまでの同意と幾らかの自慢の積み重ねが落ち着いたところだったからその場全体をどうにも覆ってしまう。それだけについ視線がどうにも泳ぐ、店内の隅や壁をしばしたどった後に注目してしまえるのは鏡だろう。その中には当然、飲み交わしている男達が映っている、そしてその腰の辺りからはだらんと垂れたベルトではなく尻尾の姿を見て取れる。
「本当に…朝起きたらいきなり次から次へと人の姿が別のモノに変わるなんて、な」
「俺もお前もなっちまったけどな、兄ちゃんは…珍しいな、まだ純粋な人かい?大事にしとけよ、それが維持出来ていれば何時かは俺達の話した遠い土地へ行けるはずさ」
 どこか言い聞かせる様な口調の彼らの口は人ではない。今更ながら触れればどちらも雑食獣の特徴を多分に持ち合わせた顔をしている獣人、かつては獣化病患者と呼ばれていた存在。最も、この店の他の顔ぶれを見ても分かる通り、今やそうなってしまった人が圧倒的多数を占めてしまったので患者と呼ぶのは適切ではないとされてまた久しいものだった。
「おかしなもんだよ、姿は変わる、合わせて幾らかはその姿に体の特性は変わる…でもこうして酒は飲める、人の食いもんも大抵は問題ないなんてな」
「そうだよ、なまじ動物に知識ある奴ほど混乱したな。なんで狐の姿になったのにネギ食えるんだって!まぁ俺が言われたんだが…どうせ狐だよ、俺は」
「ネギ食えるのはヒトの特権みたいなもんだったからな、まぁこんな人と動物の相の子だからって事だろうけど」
「はー、未だに正直理解が追い付いてないのは言えるな。ただ唯一言えるのは俺はこの国に生まれていて良かった、それは言える。お前はそれを良く分かるだろ?規制直前の大陸を見てきたんだからさ」
「ああ、まぁそうだな…全く」
 狐の振る話に眉間に皺を寄せる彼はその歯牙の見える口を半端に開けて溜息を吐く、そして幾らかの目配せの後で一杯煽るなり堰を切る様に話し出す。
「本当、あれはまだヒトだったから、まさか自らもなるとは思ってもいなかったし軽くキメていたからってのもあるが…見ちまったからな、魔女狩りを」
「文字通りだったんだろ?」
「ああ、勿論だともキツネ殿!このネコは正に、ヒトとしての顔写真が大きく貼り出されている下、暴行されて襤褸切れの様になった姿を磔にされて晒されている複数の獣人の姿を見ましたとも!それもアレだぞ、路地裏とか地下だとかのアンダーグラウンドではないんだ、どこかの中央駅前の広場で真昼間から繰り広げられていたんだ!ああ、本当おぞましい…その中で目が合ったのが何せ、俺と同じネコだったからな、きれいなオッドアイのメスだった。周りは興奮と怒りで熱が入ったヒューマンの群ればかりでさ、ご丁寧に教えてくれたんだ。やい、そこのアジアン!もうじきしたらあのビースト達は火あぶりだぞ、俺達は人間として内から出た病原体を絶たねばならないんだ、ホワイトとアジアンで連帯だ!って、な」
「…犠牲になった面々に乾杯!悪いな、話させて」
「乾杯!いや良いんだ、どうにもその時には無感情だったが帰国してから発症するなりどうも…常にあの姿を浮かべてしまっているから、良いんだ。実に、正に呪いだろう、そう考えれば俺はこの猫の姿を楽しんでやるのがせめてもの供養じゃないかと、ね」
「おーい焼酎、追加でお願いー!」
「あ、俺はお湯割りでにゃ!お前さんも…あれ、いない?」
 どこかで感極まったのを見た狐は良い按配だと追加の注文を入れる、それに乗った猫の彼は注文に追加を付け加えつつふと気づく、今の今まで隣にいたはずの若い人間がいなくなっている事に。ただ酔いの力がすぐにその疑問を押し流してくれるもの、はーい!と元気良く運んでくる狸の店員と共に現れてきた新たな一杯を喉に流し込めば、それで区切りがついてしまうのだった。

 あの奇妙な噂、そして人目を憚る事なく患者が獣人として市民権を得るまで一体どれ位の時間を要したものだろう。少なくともこの国では殊の外、混乱は少なく早期にそれが実現したと言える。勿論、様々な紆余曲折はあったものだし今なお燻っている一面はまだまだあるにしても、まだ発症前に大陸諸国へ渡航した先の猫人が目撃した様な白昼堂々、公的な場所で公然と集団的な暴行や襲撃の対象となる事例はごく初期を除いてなかったとされている。
 深夜の終電近い車内に腰を下ろしながら、赤提灯の灯る脇にて狐人と猫人がかつて経験した渡航話を聞いていた彼は頭の中でそれらを反芻しつつ、赤い手帳の様な物をふたつ開いては中身をじっと見ていた。それは旅券であった、表紙を見ると‘VOID’とアルファベットの穴が開けられた無効処理の済んだものであり所持人を示す顔写真はヒトの顔となっている。
 当然ながらそれ等は旅券を所持した事がないと2人に申した彼のものではない別人の無効旅券、査証欄には多くのスタンプが押されて使い込まれていたのが良く分かるのを繰り返し見たところで下車駅へとその足は降りて行く。
 自動改札を過ぎたらすぐに駅舎から出てしまう小さな駅、最も周囲は住宅街であるから幾らかのまとまった人―当然、その割合の大半は今や獣人―が出て散っていく中、独り狭い路地へと進んでいく彼に声をかける者が現れる。
「あら、こんな遅くまで最近は珍しいね、おかえり」
「ちょっと興味深い話を聞かせてもらったものだから…そうだ、探してきたこれらを元の持ち主に返しておいてくれないか?お礼に見つけてあげてのは良いが肝心の住処を聞くのを忘れていてね」
「いきなりかい?まぁ良いよ、朝までには枕元に届けろ、と言いたいのも分かったよ」
 路地の傍らから現れた長身の相手に手にしていた赤い冊子、先に目を通していた無効旅券を手渡す。そして彼が大きく首を縦に振る、まるで促すかの様な仕草を見せるなりその相手は一言何かを口走った。
 その途端にふとした風が吹き、その体がひとつ跳ねる動きと共に見えるは羽ばたきだった。若しより良く見えていたなら単なる腕が跳ねる動作と共に振られるなり大きな翼へと変じたのが分かったろう、それは幾らかの繰り返しを経て空を行く力を得て確かにしていくと共に黒い翼が全身へと広がり、月明かりに照らされる中に一羽の大きな鳥人へと転じて飛び去って行く、そこまでを彼は見届けては大きく体を伸ばした。
「やれやれ、まぁせめてもの礼として…良い事したぞ、と」
 そして大きくあくびをひとつ、途端に延びだす口と顎は幾らかの動きを経て突き出たマズルと化す。戸惑う様子は全くないままに次に生え揃った長いヒゲ、そして白い毛並みを撫でまわす手もすっかりフッサリとした同じ色合いの獣毛に覆われていた。
 服こそ纏ったまま露出している人肌は瞬く間に毛並みへと変わり、大きな幾重もの尻尾がその背中を飾る。ピンと出た三角の大きい耳は月明かりに良くそびえるもので、突き出た黒い鼻先と合わせてのバランスは何だか三角測量でもしているかの様ですらある。
「うーん、まぁとにかく先の話の様にこの土地もならぬ様にせねばならないね…まっ、上手く手配していきますか」
 頭をカリカリと掻きながら、胸元も大きく膨らませた彼はひとつ大きな鳥居の向こうへと消えていく白狐の獣人となる。いわゆる獣化病、それ自体は古くからあるのを知り体現する彼は更なる先にあるのは何かを知る、あるいはある程度具体的に明言出来る存在であった。だからこそ単なる狐ではなく、古くから‘イナリ’と呼ばれるのをこの時代が故に改めて認識しつつ、失せ物も見つけてあげた事であるから今宵は取り敢えず寝ようかと豊かな尻尾の先で思うのであった。


 完
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