昼に食べた牛丼を汁だくにしたなら、夕飯はそれこそ水だくだろうか、と浮かべながら私は大皿一杯に盛った水で洗っただけの野菜をモリモリと食らっていた。
食べているのは大量の小松菜だった、それも生のままで私はもうしばらく口へとそれを運んでは咀嚼して飲み込んでいく。先に大皿と書いたが、正確を期すならば調理用の銀色のボウルであって台所の水道で洗ってものをそのままに盛り付けた、いや、載せただけで私はもう手を出していた。
机の上を見渡しても小皿やドレッシングの類は見当たらない、あるのはただその鈍く銀色に輝くボウルと山盛りの小松菜、そしてコップに満たされた水だけ。そこには箸だとかの食器の類もなかった、そしているのは手づかみでひたすら小松菜を口に運んで咀嚼している私だけだった。
こんな食生活になってもうどれ位だろう、と私は時折浮かべてしまう。大体それは半年位前からであるのは確かで、加速させたのはボウルの斜め先に置かれているコップの中身であるのは確かなものだった。
何事においてもその中身と見た目のまま、とは実は少ないものであってそれはそのコップにおいても言えるものだった。その中身、無色透明な水にしか見えないが実はそれはある薬を含んだ、むしろそれ自体が水を含んだ特殊な液体である、と出来るものだろう。
その液体を私は、こうした家での野菜を盛りつめた食事を摂る前に軽く口に含む。するとどうだろう、未調理の包丁すら通していない、ただ水道水で洗っただけの青臭さの塊でしかない野菜が途端に強い刺激的で食欲を一層そそられる味へと口の中で変わるのである。
それはとても覿面なもので、最早舌触りを除いたらそれは生野菜とはとても思えない。当初こそ強く戸惑えたそのアンバランスさは、今は味わいたくて仕方なくなる楽しみそのものとなっていた。
特にそれは普段、つまり家の外で食事をしている時に感じてしまう。それは物足りなさ、と一文字で示すなら出来るだろう。この生野菜をひたすら食べている欲してしまう際の感覚を強く欲してしまう、かつそれが良く調理されている物であればあるほど募ってならなかった。
最もそれは全ての料理に対しては言えないのもまた事実。特に感じるのは野菜が使われている場合であり肉料理やご飯もの、更に加熱された温野菜の場合は全く、それこそ前述したような渇望感は抱けない。
ただ全体として食事を振り返れば口にする生野菜の量が増えているのは確かだった、それは言い換えれば外食する機会の減少となるだろう。半年以前ならばちょっと軽く食べてから帰り、そのまま寝てしまうとかは良くしていたものだったが、今はまずしない。どうしても外で食べるしかない場面を除けば、原則としてどんなに空腹であっても帰宅し、瓶詰で保管してあるあの液体を口に含んだら、冷蔵庫に隙間なく詰め込んである生野菜を前にどれに今日はしようかな、とあふれ出てくる唾で咥内を満たしながら、そのまま齧りつきたくなる衝動を抑えるので手いっぱいなのだった。
最寄駅からの途中にあるスーパーで大量に野菜を買い込んで帰宅しがてら、エレベータを降りたところで感じた視線に反応した私は思わずその表情を満面の笑みで満たしてしまう。
そこにいたのは見知った顔だった。その手から吊るされている袋の中身はもう分かる、あの液体の満たされた瓶であるのは明らかなものであって大体、そろそろ無くなりそう、と感じた頃に現れるものだから予感していただけに安堵と共に嬉しさを感じて仕方なかった。
安堵するのは当然だろう、何せもうあの液体なしでの生活は考えられないのだから。今や日が回れば回るほど、私は生野菜を食らう量が増えていた。何時の間にやら昼時に楽しんでいた仕事の合間のランチすらしなくなり、1日2食の自宅にて山盛りの生野菜を食らう時間が待ち遠しくて仕方なくなっていた。
そしてその時間を演出してくれるのがあの液体なのはもう明らか以外の何物でもなかった。だから消費量も増えて行く、正確には消費する回数であるのだがそれは着実に瓶の中に残った残量を少なくして行き、ふとした不安感を私に抱かせるには十分なものだった。
もしこれが尽きてしまったらどうなるのだろう、それはもう浮かべられても答えを見出せないものだった。とにかく見たくない、受け入れたくないものだったからそれを打ち消すべく、また口にして生野菜を頬張って忘れようとする。
何せ食べている時間はもう何物にも代えがたい、他の事を一切忘れさせてくれる至福の、かつ無心にさせてくれる時間だったのだから。極端な話、その時は真隣でスマホの着信音が鳴り響いていても気付かないほどに全ての感覚が食べる事に振り分けられる、として過言ではなかった。だからこそ、今、こうして補充がされると言うのは最高に気持ちを安堵都させてくれる以外の何物ではなく、そのまま勢いで抱きつきたくなるほどですらあった。
「お久しぶりね、調子はどう?」
「ええ、とても…さぁどうぞ座って、あと瓶もお願いします」
家の中へと招き入れたら、早速私は声を弾ませて応える。まだ早春の時期、コートを預かり壁に掛けた足で台所からあの瓶を持ってきて差し出せば、相手は矢張り微笑んで軽く首を縦に振ってくれる。
「大分ペースが速くなったようね、無くなるまでの…継ぎ足そう、と思ったけどこちらの方が今のあなたには必要かな」
「継ぎ足そうかと…ってこれは何ですか?」
「これ、見ての通りのものよ、食べられるからね」
幾らかの会話の中で袋の中より出されたのは明らかに液体で満たされた瓶、そして拳程度の大きさはある楕円形の代物だった。
「これはその、卵?」
「そう卵、このまま食べて見なさいな。多分、もう今のあなたなら大丈夫だろうから」
卵と言われたら確かにそれはその通りだった、いやそれ以外の何物でもないだろう。ただその表面が見事なまでの赤色に塗られていて、太く黄色い一筋の帯を一周させている、そんな色に染まった卵だった。
促されて手にしてみるとそれは確かに塗られている物であるのが分かった、しかし殻特有の固さはない。むしろ焼き菓子に近いものがある、その色にしても塗料ではなく油に近いもので確かに食せてしまえるだろう、と私はすぐに認識出来、そのまま口へと運んでしまう。
それこそ勢いのままに、と書けてしまえるだろう。食べよう、とも感じる事無く食べれるものだ、とだけ看做したら手の平の上に載せたそれは口に近付けられて開いた咥内へと姿を消していく。上下運動を始めた顎の内でその整った形は崩れて行き、あとは唾液と共に嚥下されていくのみ。
味は見た目に反して全く卵らしくなかった、少しばかり油っぽいのは表面の色合いのせいだろう。そして中身はあんこに近いものがあった、よりはっきり近しいものを挙げるなら月餅だろうか。とにかく適度にほくほくとしているそれをすっかり食べ終えた辺りで、急に意識や視界がぼんやりとしてくる。
そこでわずかに意識が反応したのは目の前に座る相手の姿に対してだろう、何時の間にやらの姿には見慣れぬ物がついていた。それは大きな房の様なものだった、最初はその豊かな長髪にも見えたが違う、と認識し直す。そうそれは耳なのだ、と黒い大きな二の腕辺りまで垂れた長く厚みのある耳を凝視した途端、一気に己が体が熱くなってくる。
「んひ…っ、げほっげほっ」
急に息が苦しくなり、そして咳き込んでしまう。しかし目は相手の姿を捉え続けていた、何かを盛られたのだ、とは感じる。しかしそれは疑心と言うよりも一体何を与えてくれたのだろう、との前向きな気持ちであって知りたいとの欲求が渦巻けば渦巻くほど、それ以外に対しては無心さしかなくなる中、凝視する先で相手の姿はどんどん変わって行った。
正直なところ、私はその相手の事を名前で呼んだりした事はなかった。そもそもその名前を知っていただろうか、とにかく私が食べる生野菜を刺激的な味にしてくれる人としか認識していなかったし、幾度も会っているのにそれと関連した事以外は何も知らないのに今更ながら気づけてしまう。
ただもうそれは些末な事でしかなかった、とにかく私の仲間なのだ、と思えて確信へと変えられていく事、それが大事なものだった。
故に私は変わっている相手の姿に我が身を重ねていた、きっと私にもあの分厚く長い耳が出来ているのだろう、と。そして髪の毛の代わりに頭のてっぺんから顔全体を覆う毛並みが皮膚をすっかり隠していて、その色はきっと白に違いなかった。
顔全体がのっぺりさを残しつつ、鼻と口をより前へ、突き出すとまではしなくても緩やかな丘の様に一体となって隆起させているのも同じだろう。だから視野が何だか広くなった感がある、そう目が明らかに顔の中心を突き抜ける鼻筋に合わせた位置にずれてくれたのだ。そしてそれは合わせて、耳が顔の両脇ではなく頭の上から発しているのを気付かせてくれる。だから頭頂部には耳の付け根となるふたつの盛り上がりが生じていて、そこから垂れている大きな耳を動かすのは少なくともかなり容易な事だった。
思わずされた大きなあくびで見えた咥内には大きな歯が目立つ、それを見た途端、私はとても野菜を齧りたくなった。無性に、ああこの歯なら野菜をもっと食べられるだろう、効率良く沢山腹に収められるだろう、と浮かんだ途端に寄りかかっていた椅子からふらりと立ち上がって、台所に置いたままになっているスーパーの袋の元へと進む、いや跳ねて行ったらの中身をそれこそ床に撒き散らすなり食らいついてしまう。
今日買って来たのはまた小松菜だった、量に対して目方が軽いのが大きな理由であったが包んでいるビニールさえ破いたら後はもうむしゃむしゃと葉っぱから芯に至るまでをもりもりと食べてしまう。まるで啜っている様だ、とその食べ方に私は思ってしまった。そうとにかく一拍も何も挟む事無く、とにかく咀嚼していく。敏感になった耳はその音を強く捉えていて、食べるとの気持ちと脳内で共鳴に共鳴を重ねていた。
だからどれだけ食べた事だろう、スーパーでもらった大きな袋はふたつあった、その全てが小松菜で満たされていたのだが、はっと気づいた時には少なくとも一袋に相当する小松菜が姿を消していた。残っているのは多少の食い散らかしと包装していたビニールの残骸、そしてその中に転がる私の存在。それだけ意識は明瞭なものになっていた。
もうひとつのスーパーの袋は台所の机の上に置かれていた、その口からは小松菜の緑があふれているのをしばらく凝視した私は、ふと小松菜はちょっとお腹いっぱい、と息を吐きながら思ってしまう。体の熱は大分引いていた、ただ何だか動く気にはならなかったが何だかモヤッと浮かんだものがあって床を蹴っ飛ばしてしまう。
途端に響くのはダンッと言う強い響き。するとどうした事だろう、床の近いその視野の一角が黒くなる、そう黒い毛並みの同族が来てくれたのだ、と私は鼻をひくつかせながら感じる。それはもふっとした毛の塊であった、私も同じく垂耳できっと同様の毛を体中に生え揃わせているのだろう。
だから私達は寄り添いあう、互いの体の暖かさと息遣いを感じながら、ただの2羽の白と黒の兎として目を細めてしまいつつ、もうあの瓶の中身はいらないかも、と過ぎらせながら私は白兎としての惰眠に堕ちて行くのだった。