稲荷行く道遊ぶ道冬風 狐作
「ほぉ、これがあれば1日問題ないのか?」
 日本語のない世界だから聞き慣れている声も妙に耳に響いてくるものだった。ここはドイツはフランクフルト。その玄関口のひとつとなる中央駅の構内にはドイツ語、それに時折英語フランス語が交じって響き合っている空間に日本語、それも語尾などに特徴的な癖のある日本語が響く。
「問題ないはず、目的地はそのZone5000とか言う乗り放題エリアの中になるし」
「ふぅん、まぁお主に我は任せるぞ、はよう連れて行くのじゃ。お主の旅行はせっかちでいかん」
「はいはい、じゃあ…ってちょうど出ちゃったか」
 券売機で購入した1日券を手にしてエスカレーターを下り地下ホームへ向かう。思ったよりも長い上に日本とは違い片側を開けて走っていく、なんてマナーもないからのんびりと、最も日本のそれに比べたらずっと速度は速いのに身を任せている内に乗り込む予定のS-Bahnがドアを締めて発車していくものであった。
「次に来るのはS8か、ちょっと待たないとならないね」
「確か、最寄り駅に向かうのはS1とS2、じゃったな?」
「ええ、その通り。まぁベンチにでも座って待ってよう」
 フランクフルト中央駅、欧州の駅によく見られるトレインシェードの美しい駅の一つであるが今いるのはその地下にある近郊輸送を担うS-Bahnの乗り場であった。
 日本の地下駅に比べるとやや薄暗さはあるが、そこまで何か危ないとか、そういう感覚はなかった。ただその性格から利用している人の大半は地元市民、あまりに観光客然としていると浮くのは間違いないので眉間にシワは寄せるまではせずとも、少しばかり不愉快そうな感じの表情を作り、僕は乗り込む予定の系統が来るまでのホームで時折スマホをいじりながら座っていた。
「おお、来たぞ。大きくS1と書いてある、あのえすばーんとやらで良いのじゃろ?」
「ああ、そうだ。行き先も、うん、あってる」
 日本の様に派手な放送も何もない中、ざわつく地下駅に真っ赤なFrankfurt S-Bahnの車両が入ってくる。ボタンも手動式、正確には乗り降り人がドアボタンを押して操作するものだから、ドア位置により人並みの捌けにムラがあるのが面白いものだった。
 幸い、僕が向かったドアは比較的空いていて座席にも何とかありつく。そこまで混んでいる訳ではないが向かい合わせのボックスシートに腰を下ろした時には、短いブザー音にてドアが閉められ結構な加速度で列車は発車していく。

 フランクフルト中央駅から西へ幾らかの距離を乗った辺りにある駅で降りた僕は、更にバスに乗り換えてマイン川の対岸へと向かう。駅からすぐの町中は路上駐車や道路工事で狭い路地をノロノロと進んでたバスも、マイン川に差し掛かる頃には結構な速度で飛ばしていてバス停に停まる時も乗客がよろけるほどの急停車。
 幸い、僕は座席に座っていたからそんな事はなかったが立っていた女性が軽く掴み棒に頭をぶつけているのを目の前に見てしまう。しかし日常茶飯事だからとの具合で取り立てて騒ぐ事もなく、むしろ僕が腰を浮かせた座席にすぐに座り込んできて大きくあくびをしている、そんな具合であった。
 僕の他に数名を降ろしたバスはドアを閉めるなり、結構に急発進で去っていく。おそらく先程の街中での渋滞での遅れを気にしているのかもしれない、と走り去る姿を見やりつつも僕もまた、バス停近くの目的地へと足を向け始める。
「ふん、木の香りが濃くなってく来たのう」
 しばらく黙っていた彼女がふと漏らしたのは間もなくだった、交差点を渡り明らかに道路の両側が建物ではなく緑地へと変わる中での一言に僕もうなずいて返す。
「生き返るのう、こう、我の本来の姿を改めて意識してしまうよ」
「またまた本来の姿は…うん」
「狐ババア、と言おうとして止めたじゃろ?」
「いや、そんな事はないですから、ええキツネ姉さま」
 実際のところ、彼女がそんな事を漏らすとは思っていなかったから、となるがそこは相手が悪い。大体、こちらの気持ちや考えなぞ分かると言うのに茶化してくる、それが今も共にいる周囲からは見えない彼女、キツネ姉さまだった。
「はー、良い良い、道が砂と粘土が混じってしかも日当たりの良さから中に含まれていた水が染み出しておる、良いのう」
 靴底を介して足の裏に感じる柔らかさ、それは確かにそうした水気の強い土で無ければ感じ得ないもの。そして耳に届く小鳥の囀りは春の始まりを予感させるものであったし、時折すれ違う散策しているフランクフルト市民も同じ心地なのだろう、明らかに中央駅でS-Bahnを待っている人々よりはずっと朗らかな表情をしていた。
「こちらの犬は体格が良いのう、はよう奥へ行こうぞ」
 キツネ姉さまの声が響く、はいはい、と返しながらようやく到着した自然公園の中へと入っていく。
 ここはマイン川の近くにある内陸砂丘、それを保護する目的で設置された場所であるからコンクリート等とは無縁の眺めの中を明らかに出自が明瞭な大型犬を尻目に奥へと入っていく。
 自然公園と言っても明確に歩くべき歩道が設定されている訳ではなく、適度に出来た踏み分け道を僕は進んでいく。するとキツネ姉さまがこちらに曲がって見るかのう、と示す先を見ると不明瞭さはあるが確かにそれは道だった。ただ茂みの多い中に入っていくから少し戸惑われたが行くのじゃ、と言われたら逆らう余地は僕には余りない。また、はいはい、と繰り返して進んでいく。
 進むと少しばかりのゆるい勾配に差し掛かる道、それと共に僕にも分かるほどの濃厚な水気が現れ出す。明らかにキツネ姉さまの機嫌が良いのが分かる、そして少し勾配がきつくなった所でさぁて、との声が響く。それはある種の、彼女が何かを決めた時に必ず発する決まり文句みたいなものだった。
「んっ…!」
 体がビクッとする、これが示すのはただ一つ、キツネ姉さまが直に土や水を感じたい時、つまり肉体持つ存在として具現化しようとしている、正にそれであった。
 ここまで書けば、最も既に察していた方もあるかもしれないがキツネ姉さまは普段は姿形を持たない、ある種の珠の様な形をして僕の中に宿っている、との感になる。
 しかしそれはあくまでも姿のひとつ、とは僕は知っていた。その姿はある意味自在であり、あくまでも一番楽な姿がそれだから、との理由であって必要とあれば様々なものを依代にして色々な姿を取れる。だからこそ僕はある意味その依代だった、普段は器であり、必要な時は今起きている様に衣服も含めて全て、キツネ姉さまの思う通りの姿に変えられてしまうのだった。
「あ、ああ…ちょっと誰かに見られたら…んっ、結界かけたからって…ちょっ」
 今、僕の体はその途上にあった。敢えて書くなら僕の肉体は男である、しかしその体は今、女へと変わりだす。そこまで鍛えている訳ではないが細身の体が一回り大きくなり、そして自慢ではないがそれなりに整った鳩胸が丸い膨らみを得て急速に乳房へと変わっていく。そして尻に肩周り、その全てが巫女装束へと溶ける様に色も形も変えていく衣服を助けるかの様に丸みを適度に有した弾力感のある身体へとなり、声も甲高く漏らしてしまう。
 しかし単に女体になるだけでは終わらない、そこにはもう一つの変化が加わる。それは「キツネ姉さま」の具現化、となれば分かるだろう、即ち口に鼻が突き出して長く、そう長く。先端は黒く湿った鼻孔となったら、それに続く口の中に歯牙と長い舌、そして白い毛並みがそこを頂点に全身へと一気に広がっていく。
   その白い毛並みは弾力性のある柔らかなもの、そして耳は頭の上の方に動くながら二等辺三角形状に。そして尾てい骨に脳髄まで響く刺激が走り仰け反った途端に見事な尻尾、複数の狐の尻尾が装束の袴の結び目の上から外に溢れ出すのである。
 それと同時にキツネ姉さまは大きく腕を振る。それは緩い勾配がきつくなった先、即ち内陸砂丘の中にある池に向かって僕の、否、僕そのモノである魂を投げつけたのだった。

(…!?)
 僕が僕の肉体から投げ出される、それはこれまでもされた事はあったけれども、大体は事前に予告されていたりしたから心構えだとかが出来ていたものだった。
 しかし、今回はそれが無かった。だから入れ替わりとして僕がキツネ姉さまの中に珠となって宿っているのだろう、と思っていただけに不意に投げ出されもそして水面に近づくなり、その魂へと池に満ちている水気が取り込まれていく刺激に気が弾け飛んでしまいそうだった。
「はあ、我だけが楽しんでも仕方ないからのう…お主もちょいと纏うものを改めるが良い、それが旅行、非日常じゃな!ははっ」
 ぐるぐると渦巻きの中に放り込まれたかの感覚。その中にキツネ姉さま、それは白毛狐獣人として具現化した姿が岸からこちらに向かって愉快そうに叫んでいるのが見えてくる。それはとても破顔との感がとても強く、愉快でたまらず、今の僕の様を見つめているのは明白なものだった。
 一体何を意図しているのか、それは分かりそうで次第に明瞭化してくる。即ち、彼女はこの池の有する水気を依代として僕を何かに変えようとしているのだ。そうそれは魂だけにされた僕が具現化する為の手段、本来の肉体を返してもらえない限り、僕はその中に取り込まれているか、何かを依代にしていないとその内にはぐれてしまいかねない、とは彼女から聞かされていたからその点においては不明な点はなかった。
 しかし具体的に何にされる、と言うのだろう。そこが分からない、ただ水気、そう水。結構深さのある池の中から僕を芯とした渦が生じ、魂の中に水がどんどんと入り込んできて…爆ぜる。
 それはある種の霊的な化学反応、と言えるだろう。人の魂に水が多量に入る、それも白狐、即ちキツネ姉さまが関与しているから適度な制御が加えられて僕は変わっていく。
 ようやく掴んだのはそれは肉体へと変わって行く事だった、そう四肢のある人型の姿。それはベースとしては女体なのは変わらない、これもキツネ姉さまの好み、最も彼女曰く僕の魂の中にある女性となった場合の理想的な肉体だから、と言われるが少なくともCカッブは余裕である乳房のある人の体を経て、僕の体にも尻尾が現れる。
 それは獣と言うよりも鱗の似合う尻尾、太く長く、いわゆる蛇腹を内に有して、そして真っ青な鱗が生え揃う龍尾であった。
 それにはなるほど、と思わざるを得ない。これだけ大きな池の水気を僕の魂に取り込ませたのだから、水の象徴たる青龍として具現化に当たり肉体を拡張させた、となるのだろう。そしてそれは全身に、角に鬣、そして髭と揃っていけばもう僕の顔は金色の瞳を有する龍と転じていた。
 背丈は僕よりも具現化すると大柄なキツネ姉さまを凌ぐもので、大体2メートル位はある。尻尾とのバランスを考えれば妥当か、やや短い位だろう。そして白狐のふっくらとした具合に対して、全身が筋肉と太い骨格で特徴づけられる青い龍人、それが僕に今相応しい、とキツネ姉さまが選定した姿であったのだ。
「おお、よく仕上がったのう…うん、良いぞ、異国の地でも我の力は衰えておらんのも分かったから上々じゃ」
 キツネ姉さまはその、やはり金色の瞳を細めながらとても満足そうに言葉を吐く。そしてどうしてここまで、との僕の問いかけにこう返してくる。
「簡単じゃ、こうしたかったからじゃ」
「いや、それ、答えになってないじゃない」
「全く、分かっておる癖に…お主を介してではなく、我の口で直接食事もしてみたかったからのう。ほれ、お主が昨日の夜に食らっていたかりーぶるすと、とやらあったな?あれをこう、たんまりと食べてみたくなってのう…ああ肉は良いものじゃ」
 この大食漢、と思いつつ欲望に正直な白狐、これでも稲荷神の一柱であるのだが、その姿に龍の瞳にて僕は満足げに目を細めてうなずいて返してしまう。
「それにこの土地の気が余りに良かったからのう、あれほどの大都会の近くにここまでよろしい気が、それも大分溜まっている割には新鮮なものじゃから利用させてもらった、となるな。それに独りで歩くよりも具現化してふたりして歩いたほうがお主も楽しかろう?」
 すっかり日本にいる時と同じ調子になったキツネ姉さまに僕はどこかで呆れつつ、これも旅行の一幕、としてありだな、と感じて返す。
 だからそう、その後はふたりで一緒に動くもの。せっかく来た自然保護公園の中を隅々まで歩き回って人の木を満喫した後はヒトの楽しみへと向かっていく。即ち、また来た道をたどって中心街に戻ったら、カリーブルストに始まり好きなものを食べて飲んで歩く、そんな具合でフランクフルト滞在を白狐娘と青龍娘は満喫していく。
 ただし、敢えてひとつ書くなら、その姿が巫女装束のままであったのはどうしてなのだろう、と思う。途中でキツネ姉さまに言わせれば、構う事はない、周囲は周囲じゃ、とドイツビールをグイグイとやりながら返されたが、お陰で相当な注目をこの異国の都市フランクフルトにて集めてしまった、それだけは楽しそうな、ふとしたきっかけで僕と一緒するようになったお稲荷さんの微笑みと共に確かなものだった。


 完
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