或る信仰の開闢冬風 狐作
「うーん、少し太ったかな?」
 仕事上がりの帰宅、そして湯浴み。それは1日の内で大抵の人が最も気分を楽にして体を落ち着かせる、そんなひと時に僕はふと、わき腹に手を当ててつぶやいた。
 それはふとした違和感を感じたからに過ぎなかった。シャワーのお湯を浴びながら体を伸ばして腰をひねる、そんな何気なしの動作をした瞬間、引っかかる感触。
 それは体の中より、皮膚の下、骨盤と肋骨の間、背骨を除けば骨のない、言うなれば臓物と肉のみで構成されている部位。そう、腹部の、背中に近い、脇腹から感じたそれは腰を回したりしなければわからない体の中に着いた肉の存在、つまるところ脂肪、と僕の頭は瞬時に判断を下す。
 脂肪とて適度についていなければ困る代物なのは分かっている。しかし今の時代、そうでいられる場合は少ない。大抵の場合、多過ぎるか少な過ぎる、とした具合でしかいられなくなったそれは、言わば不要なものと勝手に判断されてしまうことが多いものとなって久しい。
 最も大抵の場合、僕はそれには当たらなかった。要は肥満とは逆のところにある体は、僕にとってのある種のステータスとしての機能も果たしていた。言ってしまえば痩せている、つまり脂肪があり過ぎて、ダイエットだの、何だのと悩むのとは無縁であるとの点で強みであり、時として誇れてしまうものである事は、巡り巡って自らに対する肯定的な自信の一翼を成すものとなっていたし、それによって行われる種々の行動や言動の根拠ともなっていた訳だから、僕は今のそうした習慣だとかを今後も続ける為に、それを守る、即ち維持し続ける必要性に迫られていた。
 結果として身についたのは、意識するしないを関係なしに、何かを食べるにしても腹八分目にしたり、またなるだけ階段や徒歩での移動を心がけるようにする等、それを維持していこうとする習慣。今日もこれが出来ている、よし出来ている、その確認の繰り返しと実践はまた更に自らの意識を高めつつ、自信をも同様に維持していったものだから結果として好都合であったと言えるだろう。
 だからこそであろうか、皮肉な事にそれだけの習慣と化してしまうと、今度はある状態へと僕は馴染んでいく。即ち、それは常に、その習慣、また体型があり続けるもの、とする絶対視以外の何物でもない。こうしていれば継続し、また維持し続けられるのだから、との気持ちに知らず知らずの内に支配されていった、とも書けてしまえるだろう。
 言葉を幾らか借りるとするならば、それはある種の慢心であり、甘えともなるだろう。とにかく、どうにも色々と言葉は駆使しようとも、つまるところ、その意図せぬ内の自らの意識の変化にすっかり虜になっていて、結果として生じつつあった現実がようやく表に出てくるまで、すっかりその事にすら気づかなかった僕がいる、ただけそれだけの事に過ぎなかった。

「あーあ、肉着いちゃったか…」
 ただ、どうと表現出来ども言葉として表すならばただそれしかなかった。とにかく肉、脂肪が着いてしまった、そしてそれが表向きはまだ目立たないとしても、つまんでみれば明らかと言う言わば瀬戸際で気付けたのは幸いな事、とも前向きに見るなら出来るものだろう。だからこそ僕はそこに安堵してしまったものだし、まだそれは救いであるとしか言えなかった。
 しかし一度、崩れた状態を元通りに戻すのは何においても難しいもの。僕にしても目に見えて太ってしまった、とは言えないまでにしても、脂肪が余計に着いてしまった、との事実を知れてしまった以上、表向きと言うよりもどこか深いところにある自信が挫けてしまったのもまた事実。だからそれ以降、例えば、今日は何時もよりも歩こう、今はこれを食べないでおこう、むしろこれを食べよう、との様々な考えはその都度浮かんでは消え、浮かんでは流れ、次第に考えるのすら億劫になってくる事、仕方なかった。
 しかし、億劫になり尽くした辺りでふと、ああこれではいけない、ちゃんとしなくてはいけない、と考えが改まってしまうものだから、ある種の葛藤の中に僕ははまってしまったと出来るだろう。しなければならない、そうすればまた元に戻れる、いや、しても本当にそうなるのだろうか、無駄な徒労をするくらいならいっそこのまま、との具合になっていく繰り返しはどこかで僕を傷つけて、また惑わして行った、それだけは確実なものだった。
 それは冷静になって思い返してみれば、挫折した後の典型的な「負け」パターンであったのかもしれない。とにかく欲しつつも、でも、との後ろ向きな気持ちに次第に浸かっていく。そしてその気持ちは殊の外気持ちよく、どうにも抜けたくなくなってくる。そしてそう、その気持ちに沿いつつの楽なやり方にばかり目が行ってしまう。
 願望と欲求、そのふたつを満たせる存在とは中々難しい。ただ、その点では僕は幸運だったのかもしれない、ふと見かけた広告、そちらから通じて手に出来た食品はそれは素晴らしいものだった。
「食べても構わなくなる魔法!これであなたも大丈夫!」
 見出しとしてはそんなものだったろうか、とにかくそうは覚えていない。終電間際の、通勤ラッシュの方角と逆な為に人も疎らな電車の網棚にふと投げ置かれていたフリーペーパー。余りこの辺りでは見た事のない体裁のそれをどういう訳か手にして、ふっと開いて見入っていた中にあった広告にあった、それだけは確かなものだろう。
 他にある広告の多くには異国の言葉が躍っていたから、若しかするとそれは外国人向けに出されている、そんなフリーペーパーであったのかもしれない。普段であればきっと、手を出さないであろう、そんな代物であるのにも関わらず、その時は手に取った流れで見かけたその文字に、何とも言えぬ魅力を感じてしまったのだから、もうどうしようも出来ない。
 そのまま小脇に抱えて家に持ち帰り、改めて見入ってしまったらもう引き返せない。手元にあるタブレットを介して、記載されていた宛先へとその「食べても構わなくなる魔法」とやらを希望する旨を書き連ねたメールを1通送ってしまう、それこそまさに一連の流れであり、送信が完了した旨の記述を見たら、妙な安堵感の内に充電のケーブルをつなぐのも忘れてそのまま布団に飛び込んでしまったのだから。そして目が覚めた時にはそんな事をしたのもすっかり忘れていて、むしろタブレットの電池の残量が少ない事に気が向いていて、そのまま簡単にシャワーを浴びて仕事へ向かった、そんな具合であったの妙に覚えている。
 だからお届けものです、と配達業者が運んできた時には一瞬何か、と思ってしまったものだった。代引きで最近何か頼んだだろうか、と一瞬は浮かべつつも、その手に抱えられている段ボールを見た途端、意味もなく感じられた納得さ。それから僕は財布の中より幾許かの代金を手渡して、それを確認した業者が僕に手渡して一礼と共に去っていくまではとにかく、ぼんやりとしていて、扉の閉じられる音でハッと我に返った始末だった。

 結局、そうして届いた荷物、段ボール箱の中に収められていた中身とは何だったのだろう。いや何だろう、としばらくは箱を前にして僕は頭を悩ませてしまった。
 それはすっかり、注文した時の記憶が欠落していたからのが他ならないのだが、如何にも段ボール、それも紙質がザラザラで止めてあるのがテープだとかではなく、金属の留め具で全て成されているのも一体どこから開封すれば良いのか分からない、との点で躊躇させる方向に働いていたのも恐らくあるだろう。
 本当に僕宛なのか、との事もあったが、それは荷札に書かれている宛先―書かれていると言っても、何か古めかしい機械で打ち込まれたかの様な具合―は僕に関わるもので間違いが無かったし、代引きにある配達業者の領収書もなるほど、僕宛であるから違いなかった。だからこそ、僕はその「段ボール箱」の有り様に最も躊躇していたのは間違いなかろうし、故にようやく、こちら側から開ければ問題ないはず、との側に手をかけて、留め具として使われている金具で手を傷つけない様に気を付けながら開いていけば、中から出て来たのは新聞紙で緩衝材としての意図も込められてであろうか、包装された箱であった。
 新聞紙にしてもそこに踊る字は異国のものであった。良く見ればどこの国かは分かったであろうが、その時の僕はそれ等を全て剥ぎ取ったらそのまま、脇にあるごみ箱の中へと投じてしまったのだし、後々でまた関心を寄せる事も無しに他のごみと混ぜて捨ててしまったものだから、今となっては全く以って手がかりとすらなれない、そんな記憶の断片に過ぎない。
 ようやく手にしたものが「食べても構わなくなる魔法」であると知れたのは最後の最後になってからだった。新聞紙を剥ぎ取った後に現れた箱、その蓋にされた簡単な封印を剥いで開けば、姿を見せたのは小さな小瓶であった。
「これは…?ん、粉末?」
 小瓶、としても手のひらに収まる程度のサイズがあり、コルクで蓋がされていて中には灰褐色の粉が無数に詰め込まれている。そしてその瓶と共にあった封筒を開いてみれば、そこには荷札と同様な具合で書かれたとするよりも、機械によって打ち込まれた、言うなればタイプ打ちかその辺りか、の字体の文章が踊る一枚の紙が収められていて、簡単な挨拶と共に使用方法についてさらっと書かれているのみであった。
「ふうん、この粉末を一日一回、水に溶いて服用すれば効果は持続します、その間にあなたが口にするもの、それにあなたが悩む事はなくなります、ねぇ…本当かなぁ?」
 更に読めば、一ヵ月服用すれば、毎日ではなく一週間に一回程度で足りる様になり、との文字もまた続く。ただ正直なところ、そこまでは本当に流して読んでいた、と出来るだろう、そうなんだ、へぇ、との半信半疑でありつつ、本当にそうなのかやってみようじゃない、との変な強気によって、僕は早速、その粉末を小さじ一杯すくい出せば、コップの中に注いだ水の中に投じてかき混ぜてくっと喉に流し込んでいたのだから。

 特段、味も何もない粉末を混ぜ込ませた水を僕は毎日の様に飲むのを繰り返す。だから何があった、との実感はしばらくは一切なかったものの、しばらくするとそれはある気づきとなって現れてくる、本当に些細な、あの脂肪の存在に気付いた時と大して変わらない、そんな具合。
 今度の気付きは肉体的、と言うよりも感覚的なものが先だった。何かこう、ああもっと食べたい、食べても良いんだ、との気持ちが先行して、体もそれに合わせて変わっていくのだから気にする事はない、との具合に意識が変わったのが顕著だった。不思議なのは変わった事が分かる事だろう、そしてそれを承知している事、だから余計に気持ちは安楽に走って、前にああも悩んでいたのが馬鹿らしくて仕方なかった。
 だから僕は構わずに食べた、食べて食べて、ふっと気付いた時には、こう膨らみを体の随所に感じていた。
 その膨らみの正体は脂肪。それもこう、腹部と言うよりも臀部に着いていて、言ってみれば臀部を中心にバランス良く着いている具合だった。よって体は全体として丸みを帯びつつあった、そしてその膨らみが顕著であった箇所のもうひとつが胸であった。
 僕は、僕と書く以上、男である。男であるからには胸に膨らみは構造的に有り得ないし、その存在も特に意識した事はない。だからこそ、ふっと胸に意識が行ったのは初めての事だろう、そしてその途端、そこがある種の感覚器官として目覚めつつあるのも知れる、ただの痕跡器官から、意味のある感覚器官へと変わる様に会ったそれは最早乳房、と言うに相応しくなっていた。
 また、その頃から時折、記憶が途切れがちになっていた。仕事をしている時は流石になかったが、プライベートを過ごしている時とか、そうした時に記憶が途切れる事があり、何時の頃からか家の中に見知らぬ人がいる様になってきた。ただ、その人は僕に対して服従している様だった、僕が何か、と言えばその通りにしていたし、次第に指示なくば動けない、僕の「道具」と化していくのがまざまざと見えていく。
 それは愉快だった、僕は僕でありながら、僕でなくなっていく、とも意識しつつ、その愉快さに浸り、記憶が途切れていない時を苦々しく思い、そしてある時、職を辞して、僕に仕える「道具達」と過ごせる広い屋敷へと移り住む。
 もうお金に困るとかそうした心配をする事もなくなっていた。むしろ僕が悩むのは、僕を求める「道具達」をどう活用しようか、との事。数もすっかり増えた、人の身でありながらもその中身はもう僕の思うがままであったから、この屋敷の維持を彼らは喜んでするし、僕はすっかり必要な指示と判断、そして「恵み」を与えるだけで良くなっていた。
「ああ、シャーフ様、今日も麗しく…」
 「道具達」からは「シャーフ様」と僕は呼ばれている。大体、その数が20を超えた辺りから自発的に呼ばれ始めて、僕もそれを受け入れたと言う具合。だからますます僕は染まっていく、道具達も染まっていく、もうあの粉末を口にしていないにも関わらず僕は、今や乳房を豊満に蓄えて、体の随所に健康的に丸みを帯び、かつその上を飾る様に白いもこっとした毛並みを蓄えた姿へと変わっていく。

 僕は僕ではない、シャーフである。シャーフと呼ばれる我に付き従う者共を従えていかねばならぬ、迷える彼らに祝福を与えねばならぬ―もうそこには彼はいなかった、顔はすっかり黒く、また斜め前へと突き出た人でない顔と化している。黒はその表面を覆う毛であって、全身の多くは適度に膨らみのある白い毛に覆われ、そのこめかみにあたるであろう場所からは立派な巻角が左右へと伸び、その外見だけで人でなくなったのは明らかだった。
 その配下に控える「道具達」ですら、その幾らかは類似していた姿をしていた。ただ違うのはまだ人の要素が強い事だろう、しかしシャーフは違う、すっかりある動物の全てを人の姿に置換したに等しく、それはそう、その特徴を持ったまま人の姿と化した羊でしかない。
 「道具達」は、そこに集う者等はシャーフを寿ぎ、また称え、そして付き従う。
 結局それはある種の信仰集団と化していた、表向きは世界宗教の一端を装いつつの、シャーフもとい羊神信仰の集団。それこそ秘匿されねばならず、表向きに使われている世界宗教の側に知られたらそれこそ、異端どころではない存在は、この遠い極東の島国のごくわずかな一角にある屋敷を中心に日夜、それはそれは信仰を繰り広げる。ただその始まりは誰も知らない、殊に我らが上に降り立った羊神「シャーフ」に、かつての姿があった事なぞ、知る信仰者は誰もいなかった。そして羊神シャーフ自身とてそれを知るかは、最早分からないのだから。
「メエェェェェ!」
「おおっシャーフ様、シャーフ様のお声…!」
「幸せな、なんと幸せな…!」
 もうそこには憂いも何もなかった、すっかりのあるがままの歓喜の渦の中に、戸惑いの顔を浮かべた新参の者も朝が来る頃にはそう、染め上げられているのは確実なものだった。それは「シャーフ」の新たな道具の誕生を意味する他ない。
 そしてそれに、どこか自らに類似した姿となった高位の「道具達」を侍らせたシャーフがその瞳を細めて、満足げにグラスを口に着けるのも「道具達」にとり、見れるだけでこの上ない幸福感に包まれるものでしかなかった。
 信仰はもう止まるところなく、表向きに被る世界宗教の及ばぬこの多様な在り様の土地に在れる。今日もまた、狂乱の夜が明ける、殊に、この国で羊の年とされる一年を迎えるだけに、その熱狂は最早、狂気の域を超えていた。


   完
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