猫好きの彼女と僕・前編 冬風 狐作
 年末とは忙しないとされている。実際街角1つ歩いても待ち行く人の歩調や顔はどことなく、普段よりも険しかったりまた早い。そこに吹きさぶ強い冬の風が吹いてくれば尚更だろう、まるで人の忙しなさを自然が加速させる、そんな情景にすらなってしまう。
 しかし万事が万事そうなのではない、年末だからこそ時間がある人、例えば学生はその良い例だろう。それ以外でも早めの休暇をとった人、この場合は年始から早々に働き出す必要があるだろうが、何らかの理由で年末をのんびり過ごす人がいるというのもまた事実である。
 僕はどちらかと言えば後者で、補足するなら年末にのみ限定された話ではない。年中何時でも暖かい部屋の中で1人で好きなだけのんびりと過ごす事、そしてその中においては何をするのも自由で何時寝ても起きても構わない、とされているのだから世間様よりもよほど暇な、比較になら無いほど自由な時間を持っている身分であると言えよう。
 しかしここから出られる自由はない。何しろこの部屋の中にはトイレから何まで、窓を除いて全て揃えられているのだから、日常生活の中でまず外に出る必要が無い様になっている。ただしあくまでも自由が無いだけで全く出られないのではない、出られるのは「許可」がある時だけに限られるが可能であって、大体数日に1回はあると見れるだろう。
 最もそれをこちらから求める事が許されていない、そもそも求めるとの概念自体存在していないのではなかろうか。「許可」とは言えど相手の必要に応じて出されるそう言う建前的な代物なのだから。そんな整えられた管理の行き届いた環境にいる僕は一種のペットであったろうし、実際そう扱われていると感じている。
 そんな思いをふと浮かべる度に手は自然と首周りへ、そう巻き付けられている首輪へと向かってしまう。皮で作られた太く厚い頑丈、どこか不釣合いなまでの首輪が巻かれているのだ、色は濃い目の黄色をしていてそのDカンにはリングの細かめなリードが付けられている。
 鎖に繋がる掴み手の部分だけは繊維になっているが、座っても立っても床に近い場所をぷらぷらと掴む人もなしに揺らいでいるのにふっと視線を送っては溜息を漏らす。
(そろそろだよね、こういう時って大抵・・・)
 妙な勘が働く様になったのは何時頃からだろう、そしてふと何をするでもなく自分の事が気になって仕方なくなったその時に大抵「許可」が来る、と悟るようになったのも何時からだろう。
 そうなった途端にノックの音が響いてくる、それはまるでどこかから監視されている様だった。しかしこの生活の中ではむしろされていない方がおかしいものだろう、そうでなければ寝ている時に食事が与えられたりとかそう言う、ちくはぐでおかしな具合になってしまう。
 だからこそ居心地の悪さと言うのはもう僕にとって無縁の言葉だった、そして今日もまた響いてきたノックの音に誘われる様に立ち上がり扉に向かう。ノックを仕返せば、それが了解の合図だった。扉はまもなく開かれる、鍵の外れる音がしたかどうかと言う具合にすっと静かに開かれて、部屋の中にこもった厚い空気とは異なる、廊下の乾いた冷たい空気に包み込まれるのだった。

「はぁ、良い香り・・・この生乾きと言うかが、好き」
 しばらくした後、そう呟きながら僕はベッドの上でそうやって言葉をかけられていた。格好と言えば抱き付かれるものだろう、幾度もすりすりと頬擦りをされては鼻で匂いを相手、僕の主人たる人間が匂いを嗅いだ時に発したのが先ほどの言葉である。
「ご主人様の好みですからね・・・ちゅんとそのままで来ましたよ」
「うん、良い、良いよぉ・・・はぁもっと」
 僕の返した言葉にますます感極まったかの様に主人は抱きついてきた。その顔が埋められた所には厚い胸毛があった、その色は純白と言うところで喉仏の辺りや大腿部の内側までがそれに染まり、それ以外の箇所には薄い水色がかかったとも見える複数の縞模様がその全身を覆う毛の上には走っている。
 全身だから腕だってそうである、僕が下になって上に乗っかって抱きついてくる主人の背中を撫でる僕の右腕はすっかりそうであるし、何より体自体が我ながらの感覚でも、がっしりとした芯の太さ、即ち頑強さを自ずと覚えずにはいられない。
「僕も・・・そうしてもらえると気持ちいいですから」
 そう返すので揺れる喉、何より喉仏の下にはあの太く厚い黄色の首輪が変わらずにある。今となってはそれこそがこの姿を唯一、僕だと示す証拠になっているのかもしれない。
 同時にそれは所有者を、この主人から与えられたものであるからこそ示すもの。この環境や待遇だって全て保障して与えてくるのは主人、彼女である事、そしてその所有物である事を示す歴然たる証であるのだ。
「ん・・・じゃあもう少し」
 彼女は猫が好きなのだと言う、だから辺りを見回してみるとこのベッドのある部屋の中には溢れんばかりの猫グッズ。写真からぬいぐるみまで、それは多数の猫に満ち溢れていた。しかし猫の姿は無い、生きている猫の姿も痕跡も無い。
 猫が好きな猫アレルギーと言う残酷な事実でも抱えているのだろうか?いや、そんな事は無い。猫なら確かにいるのだから、そうここに、今、彼女が抱きしめていて全身を預けていると言える存在が彼女のペットたる「猫」なのだから。更に付け加えるなら彼女が猫アレルギーではない事は、この様な身になる前から知っているのだから。
 どの様な「猫」なのだろう。それは全身を純白と複数の水色のかかった縞模様の獣毛で多い、太いネコ科特有の尻尾を寝転がる背中の側から出しては揺らがしている、しかし何故か人語をその口から漏らし、人に等しい二足歩行に適した足と手、何より独立した首を持つ猫にしてはいかつい顔をして鼻を鳴らしている「猫」。
 即ちそれが僕である、そしてそれは「猫」であるのに違いない、ただし単なる猫ではない虎、人虎とも虎人とも呼ばれる存在の僕が彼女のペットたる「猫」で僕はそのペットの「猫」なのだから。そして今は彼女に呼び出されて、そう「許可」されてこうしてこの姿となっては既にかなりを、こうして彼女とのひと時を過ごしているのだった。
 だからこそどうしてこうなったか、その経緯を以下に話したい。彼女がどうして猫アレルギーでは無いと知っているのか、それ等を含めて明かしていこう。

 僕が僕であって、そして人では無い事に気付いたのは結構幼い頃だったと思う。それはあくまでも自発的に、いやどこか偶然かもしれないが、ふと頭の中に僕は周りとは違うとの意識を抱いたからであって特に疑う事も無く、幼い心ながらのままに受け入れてしまった己がいた、と言う事だけは覚えている。
 だが僕は人間として育てられていた。何しろ両親にしても周りの友達にしても誰も僕が人間では無いと言う事には気付いていなかった様で、だから僕は僕が人ではない事に気付いてからずっと演じ続ける日々を送っていたと言えよう。しかし気付いた、と幾ら言えどもそこには問題があった。即ち、人間では無いなら僕は何なのか?と言う肝心な問題である。
 それは漠然としていて判らない、ただふとした衝動に駆られるものであるのは確かであった。しかし今度はその衝動の正体は何か、と言う問題が出て来るものであって謎ばかりが膨らんでは一向に晴れぬままにただ日々、違和感を内に抱いたまま過ごしていく日々であった。
 だが夜闇が何時かは明ける様に僕は目を覚ました、つまり僕の正体とは一帯何なのか、と言う幼い頃に抱いた違和感に対する答えを見出したのだ。それはようやく大人になりかけつつあった頃だったろう、初めてそう思った時と比べれば体つきもしっかりとして、逞しいとまでは行かずとも痩身でありながら適度な筋肉の締まりを持つ。考えも、そうただ思うのではなく考えは考えとして抱き表にする事の出来る、そうなって久しい頃の出来事だった。
「・・・虎?」
 それは何の脈絡も無く浮かんだ思いでもあった。その頃になるとまるで前言を撤回する様だが僕は以前と比べて自分が人間ではない、との意識を抱く事が出来なくなっていた。
 要因としては他の事柄に関心を割く様になったのがあるだろう。何よりも言えるのは周囲の人間が変わらず僕を人間と見做しているからこそ、矢張り自分が抱いている意識の方がおかしいのではないか、そうならば何時まで経ってもそれを抱き続けているのは恥ずかしい。そんな思いが僕の心を捉えた事、それが人ではないとの意識を薄くしてしまった最大の要因であったと感じる。

 しかし唐突に浮かんだ、たった一文字の「虎」と言う単語はただそれだけで僕の心を一気に過去へと引き戻した。様々な、その時となってはより多くの関心を僕の心に割かせる様になった新奇の品々や出来事は皆一掃され、その心中はあの「人ではない」と僕が初めて意識した幼い頃へと戻っていく。
 疑う事も無く、とにかくそうと思った事は受け入れていたあの頃、しかし全てが同一になったのではない。今回はただ漠然と思う先にある具体性、それこそ「虎」の一文字である。そしてそれは心を鏡の様に透き通った湖、心をそう例えるならばそこにすっと投げ込まれた小石が「虎」であろう。そして水面に当たった途端、そのぶつかった箇所を中心とした同心円状の波紋が広がるのだ。
 それも引き起こす波紋の数、そう小石を用いた水切りの如く、その場で沈むのではない「虎」の一文字は複数の波紋をその心の水面に引き起こすのだ。故にただ一箇所だけと比較すると辺りに広がっていく効果は抜群と言うところで、水面の中にわずかに残っていたほかの関心ごとの残滓は瞬く間に分解されて消えていく。
(虎・・・虎・・・とら・・・虎・・・トラ・・・トラ・・・!)
 よって「虎」は心を染め上げるだけに留まらない、波紋は脳裏にも広がって思考をも侵食する。だから思考だって無事では済まされない、文字通りこちらは洗脳、より露骨に洗われた所を染め上げられて行くのが顕著であったからこそ、頭痛すら催す始末であった。

 その頭痛に対して僕がまずした事、それはその「虎」の一文字によって引き起こされている心と思考の染め上げを止めようとするものではなかった。言わば肉体的な動きを反射的に表にする、即ち両手で頭を押さえたのである。そして突き上げる様な内部からのきりきりとした痛みに対して、顔を前屈みに倒しては耳の先端から頭頂部にかけて手の平で覆って耐えようとした。
 すると手の平の皮膚はある違和感を神経組織を迂回させて脳へと伝えてきた。それはあるべき物があるべき場所に無く、別の場所にあると言う事実であった。感知したのは手の平の中でも下の方、手首寄りの盛り上がりと本来であれば重なる耳の先端部、その内の後者が感じられなかった。代わりにそこは平たかった、平たくて何か密度の濃いごわごわとした物、毛の存在があった。
「・・・何、これ」
 耳が無い、その事実は確かだった。ふと目の前にあった鏡、偶然にしてそこは自室の中だった。だからその感覚はすぐに視覚的な裏づけを得てしまったのである、鏡に映る顔を見て恐る恐る手の平を浮かべると耳のあるべき場所には何もなくなっている。ただ肌色でもなければ出血もしていない、あるのは平らになった場所を覆う白に水色の縞模様のある毛皮。
 再び今度は指先をそこに当てて細かく叩いてみる、だがそうした所で同じであった。そこには耳が無い、代わりに平たくなった場所を覆う毛皮があってそれが耳のあった場所に留まらずじわじわと辺りに、それも短時間で広がっているのが見える。最初気付いた時は恐らく耳のあった場所だけだったろう、だが今では下に下って顎の縁まで覆われている。
「え・・・何これ、本当何これ・・・っ」
 もっと言葉があるのではないか、と言われそうだがその時は驚きの余りそうとしかならなかった。だが一旦驚きと言う波に洗われてしまった後は案外、落ち着くまでは早いもの。そもそも落ち着いて当然だろう、心はすっかり純化させられてしまって「虎」の一文字に随所が染まる、と言う有様になっていたのだから。
 だから撫でる手もどこかいたわる様な具合になっていた。それはようやく己は人間ではないと言う証と出会えた事、それに対するふとした気持ちの表れであったのだろう。だから手は止まらない、そして上手く出来たもので撫でれば撫でるほど毛皮の範囲が広がっていく、と言うのはただ錯覚ではなく実際にそうなっていたのだから。
「う・・・ふう・・・変わっていく・・・っ」
   そう呻きつつ変わっていくのだ。

 視線は完全に鏡に集中していた。今や頬にまで広がった白に縞模様の乗った毛は獣毛である事が明らかで、骨がなんだか熱を持っているかの様に前面が火照る、熱いのだ。
 そして熱は外に漏れだす、熱せられたプラスチックが溶解して行くかの様にある顔の一点で、それは鼻であったが、そこがふっと形を崩した途端に顔は一気に変わりだした。顔だけではない、首筋を経て胸に背骨、腹筋、大腿部につま先に至るまでの随所がワンテンポ程度の遅れこそありつつ、どれもどこか一点で熱が外にこぼれるなりゆったりと、しかし激しく内からの熱によって表面が融解して変わり始めるのだ。
 だが変わり始めるからにはただ溶けるのではなく固定もされる。それも顔から始まり最後に融解が始まったつま先へ、と言う順番は守られていたもので全てが熱に晒されていたのはものの1分とあったかどうかだろう。
 その間、僕は鏡の置かれている机へと両手を付いて息を長めの間隔で吐いては吸うのを繰り返す。決して苦しいからでは無い。単に熱が担保する満足感、それが生み出した恍惚感から我を失いそうになる衝動に対するものだった。服に関しては全て脱ぎ捨てるまではしなくともボタンを外しベルトを緩める、そう言う具合の事をして体から熱が外に逃げる事を助けていく。
 そんな具合の中、まず整った頭は丸みと険しさをあわせ持っていた。顔の部分は険しいものの、やや深く彫りの入ったところにある瞳はそれ単体では透き通った水面の様な色合いをしていてとても美しい。しかし前に盛り上がるように突き出た口と大きな鼻、その鼻から線を引いたように目元へと続く筋の通った顔は秘めたる力、その様な物を感じさせてくる。
 首周りは当然太い。胸周りだってそうである、下着越しに見える胸は見事な鳩胸で厚さたるや相当なもの。恐らくボタンを外していなかったら纏っていたシャツのボタンは弾け飛んでいたのではなかろうか。腕や足も同様であって、特にズボンはその縫い目があらわになるほどピンッと張っているのが見えて仕方ない。
 唯一纏っている物の中で耐え切れずに千切れたのは靴下だった。その残骸の中に見えている爪先には黒々とした鋭い爪が純白の中に潜み、ほんのり口を開いた中には真っ赤な分厚い舌と真っ白な鋭い歯牙が姿を見せる。そのままなされた1つのあくびに際しての口の大きさたるやとても人では無い、正しく虎である。
「うう・・・虎だ、虎なんだ僕は・・・」
 一頻りのあくびの後に鏡へ視線を戻しつつ僕は呟く。それは熱も抜けて恍惚感も醒めた中で、満足感だけが残り香的に残っている中でのものだった。それは姿が変わってしまった事を実感するものであると共に、それ以上にようやく自分の正体が分かった事に対する一種の落ち着きであったのかもしれない。

 即ち、自分が人間では無いと我が身を以って証明出来た事、それに対する安堵として僕はほっと微笑んで逞しくなった胸を撫で下ろしていたのだろう。それは幼い頃から漠として抱いていた思いに対してようやく示された答えであったのだから、もたらされたその積年の思いが解決された、と言う事に他ならない。
 そう思えば思うほど僕は満ち足りた気持ちで仕方なかった。太くなった腕と指、それを操って服を全て脱ぎ捨ててすっかり、元の肉体の面影が性別を除いてどこにもない事を確認したとは正にその頂点と言うもので、喉から細かな呻き声を漏らしては人ではないと言う事が明確になった事に対する満足感を噛み締めるのに夢中でならなかった。
 故にその後どうなるか、等と言う事に一切関心を抱く余裕は無かった。一片の欠片も無かった、と言ってしまった方が良いほど僕は「虎」に染められ、虎、それも白虎となっていたのに完全なる自信を、過剰とも言えるほど持っていた証なのだった。


 続

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