人無き山に棲む者・後編 冬風 狐作
 そこからは地に足が着いていない、とりわけ前半にかけてはそんな具合だった。僕はただ意識するしか出来ない、それすらも時として怪しい塊にも等しい存在に落ち込んでいた。それは時として非常に己の中から見つめ、時としてはひたすら自分であって自分でない様な意識に染まる、かのどちらかに揺れ動いていた時間と言えるだろう。

 最初にあったのは足が何かを破る、つまり踏み抜いた感覚。そのまま重力に引かれて足が勢いにより沈み、沈んでいく足の周りに木片の残骸が纏わり付いてかすかな痛みが走る。
 足の裏が何かを踏んづけた。それは細いものだった、今思うとロープであったのだろう、どうしてそんな所に?と振り返れば思うがその時はとにかく思えなかった。ただ認識したのみでむしろ足を引き上げる事に夢中になり、手近な柱に手をかけて引きずり上げたその瞬間、僕は一瞬喉を詰まらせる。
 いや詰まったのは喉に限らない、目も鼻も口も、皆一様にその襲撃に等しく見舞われていたのだから。
 それは細かい粉だった。頭上からどっと降り注いできたそれを全身に浴びた上、しこたま吸い込んでしまった僕は余りの苦しさと痛さに蒸せて体のバランスをますます失い、大きく転倒する。
「ゲホッ・・・ゲフハア・・・はぁっ」
 目はとても開けられなかった、その成分が何なのかは当然分からない。ただとても細かく片栗粉を連想させる重さのあるそれは、鼻や口の中の粘膜に触れると痺れが軽い痛みを走らせた後は、痒みを生じさせる。咄嗟に口を開いて息を吸ってしまうものだから、ますます奥にそれは広がりのた打ち回る有様となって、何かを思うとかは出来ようもない。いやその様に動かなければ若干可能であったかもしれない、よって自ら可能性を閉ざしてしまったと言えるだろう。
 それでもしばらくすれば少しは落ち着く。苦しさや痒さが軽減した代わりに、熱さが体に生じていたがそれはまだ、先立った刺激に比べればマシも良い所。荒い息を横たわったまま吐いて、落ち着こうという努力をしようと試みるのには十分なものだった。
(何だこれ・・・まるで天麩羅粉に包まれた具みたいだ)
 意識もその辺りの余裕を維持出来るまでには明晰さを取り戻していた。だが行動に繋げる気力が足りなかった。そしてこれも粉の作用なのだろうか、とにかくそれが元になって生み出された熱により火照る体は次第に眠気を生む。こんな状況で寝る発想が生じる時点で普通ではなかったのだろう。
 それに対するある程度の危機感は覚えられた、しかし次第に体は言う事を聞かなくなる。眠るから眠れ、と言葉にするなら変わった様な中で強まるばかりの眠気に体は熟れて、夢見心地で踏み止まるのが関の山。

 そんな具合に意識が途絶えがちとなっても尚、踏みとどまれたのは時間の概念を意識しなかったからだった。だから次に生じた、また新たな展開を何とか感知出来たのであろうし、同時にどれだけの時間、自分がその様な状況に置かれていたのかと言うのは漠然とも分からないのだった。
 新たな展開とは運ばれていく事。薄っすらとした意識で分かるのは明らかに何かに載せられて、僕の体がどこかに運ばれていくものだった。それは担架に載せられているのに近い、より的確に言うなら途絶えがちな意識を載せたゆりかごだろうか。そして僕はただ感じるだけでろくな意思表示も出来なかったのだから、それは泣き喚く等で意思を示せる赤ん坊よりもずっとレベルの低い、ただの感じる事しか出来ない肉の塊でしかなかった。
 体は相変わらず熟れている、腐臭でも放ってるのではないかと思うほどの熟し具合である。それは周囲、そして僕の体に何かがされても一定だった。半開きの目蓋の向こうは明るくなり、明かり、と言っても炎に照らされているのを認識してもそのままだった。服を脱がされても、そうだった。
   しかしある感触を感じた時、その延々と繰り返されてきたただ感知し意識するだけと言うサイクルは打ち破られた。今度ははっきりと意識が水の感触によって覚醒する。そう体が水に包まれているのだ、冷たく透明度の高い水の中に放り込まれた事を知ると共に体でもがくと言う動きにまで一気につながったのである。
 意識が途絶える事はなくなった、常に見て意識し続けられる様になり、体も動かせるだけにまで回復はする。しかし口だけは何故だか開く意識が出て来なかった。幾ら内心で驚きを覚えようとも一切漏らさないまま、そもそも何かを口にして発しようと言う意識だけすっかり欠落された状態のまま、僕は今の瞬間を見つめている。
 それは冒頭近くで描いた無理な姿勢で吊るされている姿。ぐつぐつと煮え立つ、炎が盛大にくべられた大鍋の上で水蒸気と熱気に晒されている今の己まで、ようやく来れたのだ。そして今の僕が何たるかも知れていた、それは食材として見られていると言う事であった。

「さぁて、皆の衆。そろそろどうだろうか?」
 そんな眼下ではあの、とても人ではない容姿をした存在達が蠢いている。しかし人に通じる直立二足の姿勢を取っているのは動きを見ていれば分かるもので、今、その存在の中でも一際大きい者が軽く立ち上がってそう口にするのが見えて聞こえた。
 するとどうだろう、不意に大騒ぎをしていた面々の姿勢が一斉に全てこちらに向けられた。どれも黒い瞳をしていて妙に輝いているのがある意味いやらしく、また妖しい。僕は思わずむずっとした、恥ずかしさとは違う居心地の悪さを強く感じてしまったからだろう。そして思わず耐え切れずに、また笑いがこらえられないと言う意識が浮かんだ付きの瞬間、ふっと喉を突いての言葉が漏れる。
「狸・・・?」
 眼下の皆一様に視線を交わし、そして大いに笑い出したのはわずかな空白すらもない継続してのものだった。そしてまた先ほど言葉を口にした者が笑い終えるなり口を開く。
「如何にも、そしてお前にはこれから選ばせてやる」
「そうだそうだ、楽しませろよ」
 一体何を、と言う問いかけをしようにもその場はまたも騒がしくなって、とても声が届かない。とにかく見ている前で彼ら、そう100年かそれ位前と思しき服装を身に纏う彼ら狸達は、どこからか持ってきた箱から棒を引き出してはその先端を見る度に、波の様な大騒ぎを繰り返す。彼らはしているのだ、籤引きを。そしてある狸が先端が赤色の棒を引き当てた途端にその盛り上がりは最高潮に達した。
「ほら、決まったぞ人間!」
 1匹の狸が大声で叫んできた。誰かが引き下げろと叫ぶなりわらわらと彼等は動き、僕は吊り下げられていたいからすっと下へと下げられては、寸での所で大鍋にくべられている炎に炙られかけながらも、着地と共に寄って集って来た彼らに緊縛状態を解かれて、ようやくその姿勢から解き放たれた。
 しかしそれは解放する、つまり自由を得たのではないのはすぐに体感させられる。今度はどこからか用意されてきた服を身に着けさせられたのだ。生地から漂うツンとした香り、狸達の香りであるのは知れたがそれを放つ一式を着させられると、またある1匹が僕に向かってこう告げる。
「それがずっと着てられると良いな!ほら、行けよ」
 励まされいるのか、それとも楽しまれているのか。とにかくそこには笑いの感情が含まれている事だけはその人ではない顔と、キンキンとした響きの混じった声から存分に感じ取りつつ、僕は押された勢いのままに人込みならぬ狸込みの中を揉まれる様に流されて出された先は、ぽっかりとその狸達のひしめき合う空間に出来た、それこそ集う狸達に取り込まれている中心にぽっかりと空いた空白の場所であった。
 そして対峙する様に先ほど、先端の赤い籤を引き当てた狸がこちらを見つめている。忌々しげに見つめてくる瞳からは明らかな不快感が満ちていて、他の狸達に見られる陽気さがその狸からは全く感じられなかった。
「さぁて始めるぞ、お前等!」
 そしてまた声が大きくかけられ、歓声がその場を揺るがした。

 場を取り仕切っているのは矢張りあの最初に大きく口を開いた、一際大きく、もう1つ特徴を書くなら首周りが白い大狸と言って良い狸であった。まるで相撲の行司の様な位置に立って周囲の狸達の盛り上がりを高めつつ、僕と籤を引き当てた狸を等しく見つめる。そしてすっとこちらに顔を向けると問いかけを発してきた。
「おい、人間!どうしてこんな所に来た?最近は珍しいからなぁ、こんな騒ぎになっちまった」
「こんな・・・?」
「だからお祭り騒ぎだってんだ。こんな狸寺に今時人間なんて来やしないからな、だから記念にお前を食べちまおうってなった訳だ。何たって人の生き胆は美味いから皆大好きなんだよ」
「煮詰めると甘みが出てもっと最高だ!」
 ざわざわとした空気は続いていたが、そこで野次が飛んでくる。飛んできた方向をきっと大狸が睨んだ効果もあってか、続いての野次はなかったが場の空気自体はそのまま騒がしかった。
「ま・・・だけどな、ここでの仕来りってのがある。何たってただ食べるだけじゃつまらん、だから余興をしてから食べるかどうか決めてやろう。そいつと勝負した結果次第でお前が俺達の食事になるか、別になるか、決めてやる」
 そう言うとまた狸の群れの中から何かが出て来た。野次ではない、道具、そう太鼓であった。和太鼓だろう、それと撥の一式が出てきて僕と狸の前に並べられる。
「それで勝負しろよ、分かってるんだろう人間?ここに人間が沢山来た頃に良く使われていた道具だ、それを操るなんて人間様には簡単だろう。まぁ散々見ていた俺達にもすっかり簡単だけどな、とにかくそれで勝負しろ。どちらがこの音でこの場を盛り上げられるか、それを競え」
「え・・・あ・・・はい」
 どうやら断れる余地は無かった、ただ僕に出来るのは従って競うのみだろう。少なくともこの場の狸達が、未だに僕の事を食べ物として見ているのはそのジトッとした視線や言葉の端々から感じ取れる。そして仮に僕が勝ったならば、僕が助かる代わりに目の前にいる引き当ててしまった狸が哀れな運命を被る、それだけは予感出来る。
 そしてそれ以上は今は考えられない、とにかく僕が今回、調査の為に訪れた寺院と何らかの関係があると言うのは先ほどの言葉から理解出来た。だが彼等、この狸達が何かを知っているとは思いたくも無かった。何よりもこれは夢なのだと思いたかった、いやそうなのだと。そして同時に何としてでも勝ってしまいたい、その気持ちの方がはるかに優れていた。だが現実なのである、あがなう事はもうとても許されない。
「・・・では始め!」
 何時の間にか僕は撥を手にしていた、気持ちがない交ぜになる中で意識が散漫になっていた、その中で手にしたのだろう。そして間も無くの掛け声に従い、僕から打ち始める。和太鼓等、そもそも楽器等ろくに触れた事は無い。しかしその時は出来ると言う気持ちになって、どこか冷静さと共に僕は思うがままにそれを打ち始める。
 リズムは滅茶苦茶であった筈である。それでも僕は僕の手によって生み出される太鼓の音と狸達の盛り上がりの調和の中に、すっかり身を投じていてこれでもかと夢中かつ真剣になっていた。余計な思考は全て雑音としてカットされて、とにかく終わった時には目眩を感じるほどになっていたのだから、その勢いたるや如何なるものか、想像してもらえればと思う。

  「ん・・・んああ・・・んあっ」
 とにかく勝負は決した、そして場所を移した打って変わって静かな空間に声が響く。そこには大狸に連れて行かれた僕ともう1匹の狸の1人と2匹、あるいは3人または3匹以外には誰もいない。
「ほら、勝った奴はそこに、負けた奴はそっちだ!」
 大狸に示された様に動く僕と狸はそれぞれ、そこにある背の高い箱の様な中に納まっていく。まず僕が下、つまり勝った奴は、と示された方に入ると扉が閉められ、続いて狸が上、そう負けた奴は、との上に入れられる。当然、その時は再び全裸になっていた、それは狸も例外ではなくそれぞれの服装を畳んだ後に入ったその空間の中は、狸の香りがツンとより濃く漂っており思わず顔を顰めてしまう。
 だがそれはより強くなっていく。そして上からは、実はそこは手で触ってみると上の部分が細かい格子となっておりそこを介してかすかに上に入った狸の叫び声だろうか、かすかなる悲鳴が伝わってくるのである。
(一体、何を・・・?)
 余りにも撥を振り過ぎててはもう麻痺した様に感覚を失っていたが、それは勝利した代償であった。しかしどういう事だろう、勝利したのに負けた狸と同様に狭い箱の中に閉じ込められて、そして狸の悲鳴を聞かされるとは一体どう言う事なのか。余りにも居心地が悪いそれに、ふと胸の辺りに気持ち悪さを感じていた瞬間、首筋に冷たい何かか触れた。
「・・・!?」
 思わず見返して触れるとそれは細長い、半流体な存在だった。異様に冷たいそれは掴むとにゅるっとしたまま潰れて体に纏わり付く気持ち悪さ、それだけでもたまったものではないが、正体不明のそれが大量に格子の穴と言う穴から静かに侵入してくるのを僕の目は捉えた。
 それには悲鳴すら上がらなかった、逃げたくても逃げられないほどの狭い箱の中で僕は可能な限り身をかがめた。しかしあくまでもそれは時間稼ぎの足しにもならない、わずかに数秒触れるのが遅くなっただけで後頭部から首筋、背筋に触れるとそのトグロを巻く。やがて自らの重さで自壊したそれ等はねっとりとした粘性の強い液体となって皮膚を伝い、箱の底に垂れ落ちてかさを増して行き、直接的に触れられていなかった陰部や腹部、そして胸部を沈めていく。
 そして始まったのが、そう口元まで達した時に始まったのが全身の穴、それこそ毛穴をも含める場所に侵入を始めたのである。それは異様に痒く痺れた、ふとした痛みを伴ったがそんな事はお構いない様で、辛さの余りの喘ぎ声を漏らしていた口も例外ではない。
 体の中はどんどん満たされていく、その液体に。粘り気のある液体が意思あるかの如く体の中に納まっていく感覚はおぞましい以外の何物でもない。吐き気から寒気に絶望感、それ等は全て一緒くたになったが止められる筈も無く、ただそのままにされるだけで体が変化している事すら分からなかった。それほど永久に続く苦痛の如く感じられたのである。
     しかしある時だろう、ふと包んでいる液体が消失している事に気づいたのは。まずは毛穴から今までになくはっきりと何かが生えている、それは毛が無数に全身から生えていると感じ取れた。そして思わず手を顔に回すとくっと短いながらも鼻が口と共に突き出ているのに気が付く、耳が妙に動く事も、背骨が突き出たような感覚も皆、急に明確に感じ取れる。
「ギャッ・・・!?」
 そんな時に不意に扉が開けられるのだからたまったものではない、しかし恐る恐る出るとそこにいたのはあの大狸だった。にっと笑っているのがはっきりと分かる、そんな顔で仁王立ちをしている彼は一言こう述べた。
「立派な狸になったなぁ、なぁ?」
「狸?・・・ああ狸ですよ、ぼかぁ」
 不思議と違和感ないその呼ばれ方にすっと僕は返して微笑み返す。そして黒と薄く白の混じった獣毛に覆われた手で体を撫で回して体を実感する。なるほど、確かに僕は狸になっていると。
「勝った奴は俺達の仲間になれる、そう言う訳だ。人間が負けると人間汁だが、狸が負けたら人間を狸にする材料にされるのさ、上手い仕組みだろ!」
 大狸は愉快そうだった、僕も何故だか愉快な気分になっていた。違和感は全くなかった訳ではない、だが僕はこれ以上聞かずとも色々と脳裏でもう分かっていた。それは自分が何者なのか、そしてこの狸と言う存在は何なのか、と言う事をわかってしまったからこそ、自分よりも上の存在であり、狸達を率いる大狸に対して一礼をしてから畳んだ衣服を身に纏う。
「さぁて戻るか、人間汁はまた食べようぜ」
「へい、親分!」
 その背中に付き従う様にして僕は、人の時と比べるとやや小柄になった体でちょこまかと後についていく。そして仲間達が待ち受ける広間へと姿を見せるのが楽しみで仕方なかった、かつてこの地にあった寺院。そこに寄せられた人々の思う気持ちの残り香の影響を受けたのは住み着いた狸達、それによって姿を人と狸の中間の姿に変え、そして知恵をも得た彼等は最早人の通わぬこの地の主と化していた。
 そして時として人が訪れる事があればそれこそ、狙う。ただし罠に引っかかった時だけと妙な律儀さを持ち合わせつつ、饗宴を開き人を食すか仲間にするか、それを決める戯に明け暮れる化け狸達。
 彼等は今日も人の残骸と空しい警告のあるほぼ無人の街、そこから然程遠くないその山奥に棲み続けているのであろう。そして人が山から離れる事は、ますますその人知も野生も超えた存在の勢いを増させるのに助力し、そして人を欲する彼らの気持ちを増させるのみなのだった。


 完
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