茂林礼子と僕の仲は正直そう深いものではなかった。ただ偶然、入ったサークルの中で任された役職が同じであり、その時にやり取りを交わしたりする程度。時にはこうして夜まで、準備だとかで一緒に作業している事はあったがそれでも、泊まったとしてもサークルの部室がいいところでお互いの部屋を使ったことなど、1度もなかったと断言出来るだろう。
だが今日はどうしてこうなったのか?それは一言で言えば雨に見舞われたからだろう。更に彼女の部屋に偶然来なくてはならない用件とも重なったから、と言えようか。
それは数日後に控えた学祭での出し物、それに必要な舞台装置の一部を彼女が自宅に持ち帰って修繕していたからである。小道具や装置を家に持ち帰って治したり作ることは、そう大きなもので無い限り比較的普通だった。だから僕自身もよくしていたものだし、その事自体は全くおかしな事ではなかったのだが問題は彼女の持ち帰った装置を彼女が、再び持ってこれないと言うところにあった。
そんなものをどうして持ち帰ったのか?いや持ち帰れたのか、そう言う疑問は浮かぶ。ただその点に付いては彼女曰く、ついつい力を入れすぎてしまったと言う。つまり持ち帰った時は彼女1人で十分、扱えて足りる重さであった。しかしついつい力を入れて修繕した結果、予想していた以上に重くなってしまい、運べないことはないが1人では不安。だから男手を、と言うところで僕が呼ばれた訳である。
つまり一応、彼女の家の玄関まで行くことは僕も承知していた。しかしまさか中に上がりこみ、そして結局泊まる羽目になるまでになるとは思っていなかったからこそ、僕は冒頭の様な思いを抱いていたのであり、そして今は胃の腑へと流れ落ちる焼酎の冷たさに嬉しさも混じって思わず目じりが潤むのだ。
「それでさぁ・・・」
「へぇ、でっあいつったらねぇ・・・」
気が付けば焼酎の瓶が2瓶も空いている頃、僕はほんのり正気と言うかだろうか、そんな心地に戻った。
正直酔っ払って火照った瞳がふと捉えた瓶の数に驚いた、と言うのもあるのかもしれない。何故なら僕はこれまでに1度でこれほどまで呑んだ事は無く、むしろ下戸だと思っていたのだから。なのに今、僕は空になれば注がれる、そして僕も空になった彼女のコップに注ぐ、その繰り返しで延々と飲み交わしている。
彼女は僕の気配に気が付いてなく相変わらずだった。最も少しはっとしただけで、僕だってそのまま正気に完全に立ち返るのではない。何しろ楽しいのだ、これまでに楽しんだどんな事よりも浮いている様で、しかし何か取り込まれている様な重さもある奇妙な具合の中で僕は彼女と共に酒を煽り続ける。
「はあ・・・ん、あんた意外と良い顔してるよねぇ」
「う・・・そうか・・・?」
そんな具合だからしばらくすると酔っているのが正気となって、麻痺の入った頭は普段であれば驚くだろう行為。そう、彼女が僕の隣にやってきてすり付いて来ても普通に思う位で、酒臭い息を互いにかけつつ盛り上がるだけだった。
しかしその中で矢張り自分の事を褒められるとどこが心が疼く、そう良い意味で仕様が無かった。すっかり上機嫌もここに極まる、と言う具合でますます言葉を交わしていく。
だから次の様なやり取りになったのも正直、どこからそうなったのか分からぬまま応じていたと言えるだろう。
「これをじゃあ舐めてよ」
彼女がその言葉と共に差し出してきたのは黒い喉飴、いや丸薬だろうか?某整腸剤の様な黒褐色をしているが匂いは薄い、それを僕の口の中に放り込みアルコールで押し流す。
「・・・!?」
流石にそれは苦しかった、ただ僕は明らかに彼女よりも下の位置にいて口を空けて舌も出して受け入れる姿勢をしていたのだから、何らかの合意をしてそう言う行為に及ばれたと言うのは想像に難くない。だがそこを思い出すのも次から続く、喉に詰まる苦しさ、そして一気に食道を落ちていく異物感の前にはとても叶う事ではなくて気が付けばそのまま四つん這いの様になって息を荒くしていた。
「ちょっと苦しかった?」
頭を垂らしたまま僕は縦に振る。彼女は少し離れた所で何事かをしている様で少し声が遠く、しばらくやり取りした後、一旦室外に出て行ってしまったようでやり取りは途絶えてしまった。
最もその時の僕にとってはそれは幸いだった、何故なら明らかに酒による暖かや苦しさとは異なる熱と苦痛が全身に漂っていたからだった。
そう言えるのは急に酔いが醒めてしまった、とどこかで意識していたからだろうか。そして一方で風邪の時に通じる苦しさ、つまり発熱が極みに達する時の体の節々の痛みも次第に加わって、僕はその姿勢のままどうにもならなくなってしまったからである。
(どうして・・・ぐ・・・はぁ・・・っ)
不意に開いた口からどろっと唾液が垂れる、それはきれいなフローリングの床にぬたぁっと広がる。しばらくして口腔と繋がる銀の筋が切れる事ですっかり独立した、体から外に出た存在へと変わったがそうする事で幾分、気持ちが和らいだのは幸いだった。
しかし根本的な解決ではない、次第に悪寒は震えへと転化して両手足でその姿勢を保つのも辛い。それでも何とか耐えねばと踏ん張るが、矢張り駄目な時は駄目なのである。苦痛極まった瞬間、力が一気に抜ける。いきなりではあったが叩きつけられるというのではなく、柔らかいスポンジケーキの塔が倒れていく様にふにゃりと、そう両腕両足が地に付いて胸部と顎をすっかり床について尻だけが「へ」の字に折れて突き出している、そんな具合になったのだった。
しかしそれもまた一瞬の経過に過ぎなかった。その様にして一応の安定した形を得た僕の体は、今度は急速に熱が減っていくと共に伸び始めたのである。そう伸びるとしか言えない、ただ尻の位置はそのままに首とかその辺りがすっと伸びだしたと言えようか。
そう首がやや太くなると共に僕の体はよりスマートになっていく。そしてほっそりとの表現がより似合い、身に纏っていた服のサイズとの齟齬が顕著になった辺りで新たな変化が続いた。
「ふあ・・・あ・・・くすぐったい・・・」
僕はその瞬間にその感想を漏らした。ただ全身が痒いと言う具合は実際のところ、全身の毛穴と言う毛穴から、毛が噴出してきたからこその体の反応でしかなかった。つまり肉体にとっても異常な事態であったのだが、不思議とそれ以上のものは感じられずにただただ順応していく。
それは2色の毛、しなやかな獣毛であった。大別すれば下顎からつま先に至る体の内側は真っ白で、それ以外の背中側だとかは明るい茶色という単純な色合は、僕の体を一挙に覆ってそれ以前の変画で現れていた太くなり、かつ長くなった首を馬締めとした人の体としては違和感のある箇所を全て、真っ当なものへと変えていくのだから。
実の所、顔も先ほどの体が伸びていく変化の折にかなり変わっていたのだ。鼻先を頂点として出っ張った形にまとまったのについで、瞳は丸く円ら、そして口はへの字のような具合で耳に至っては、目についでかわいいと言えてしまう形。位置自体が上に上ったのもあったが、楕円を半分に切った様な深さのある耳がぴくぴくとしているそんな人ではない顔になっていたのだから。
「うう・・・ん?何この違和感・・・?」
ようやく全身を床に横たえるなり、ふとズボンを押しのける様に背筋に通じる違和感。それは例えるなら中に入れたシャツの裾が動いている間にずれて、幾らかの塊となってどうにも邪魔な感触を生む、あれに通じるものを感じて手を回そうとした時、それはさっと解消される。
「あーら、ちゃんと変わったじゃない!」
その声は礼子の声だった、寝ていては駄目だと起き上がろうとするなり、今度は痛いとも気持ちいいとも来る感触が再び、あの違和感を感じていた場所より背筋により強く伝わってくる。
「ぐ・・・っ!?」
「ほーら、早く起きなさいよ!かわいい尻尾してるんだから、ほらほら、ひっこぬいちゃうぞぉ?」
「い、いややめてよ、尻尾なんだから・・・?」
どうして僕は尻尾と自然に言ったのだろう、そもそもそんな物はあったのだろうか?と言う疑問が脳裏を過ぎる。だが僕の体は確かにそこに「尻尾」があると認識している、何よりも何か香ってくるのだ。それはより強い匂いで、明らかにこの部屋にいるもう1人の匂いと僕の脳は瞬時に判断していた。
「ふふ、ずっと良い男になったわね、四郎君!」
だが驚きはその先に本格的に待っていた、と言えるだろう。
「・・・礼子か!?」
「そうよ、失礼ね、女の子に。礼子よ、ホホッ正体なんだけど・・・!」
僕は自らの姿が具体的にどうなっているのか、ただ何故か尻尾が生えていることだけは認識したのもそこそこに目の前の「礼子」に面食らっていた。そうその姿は僕の知っている、皆の知っている礼子ではなかったのだから。全体と言えば黒くて白交じりの丈夫そうな獣毛に全身を覆われた狸がそこにいたのだから。
いや二足歩行しているから狸人なのだろうか?正直、こう言う姿をした存在は創作上で色々と見聞していたから、そこまで驚きは無かった。でもまさか現実で見る事があるとは思いも寄らなかったからこそ、僕は面食らってその様に尋ね返していたと言う訳である。
「驚いた?ねぇ、驚いたでしょ!」
「あ・・・ああ、うん、牝狸・・・?」
何より驚いたのは態度が全く違う事だろうか、酒を飲み交わしている間も何時もよりも雰囲気が違う、とは思っていたがそれは酒の力によるものだとばかりに思っていた。しかし、しかし今、目の前にいるのはそんな事で説明しきれる違いでは決してない。
「牝狸?確かに私は牝狸、でもねぇ・・・あんただって鼬になったんだから、ほーら御覧なさいよ」
ずっとハイテンションでむしろ豪胆、そう言う言葉が似合うその態度は僕の浮かべた言葉を認めるなり、一気に僕へと話を振ってきた。そして見せたのである、化粧台の鏡に僕の姿を。
僕は絶句するしかなかった、ダブダブとするかキツキツと言うか、そんな具合になった衣服を身に纏った挙句、纏っている肉体が牝狸よりは明るい色合いとは言え獣毛に覆われ、そして顔から首から皆、人の名残はあるものの人ではなくなっているのに。
「私が牝狸なら、あんたは牡鼬〜、そしてあんたは私の婿〜」
「え・・・っ!?」
だがこの牝狸、いや礼子は更なる事実を妙な節の鼻歌に載せて、僕の耳元でわざと囁いてくるのだ。僕が驚きの顔をして瞬時にそちらを振り向くとさっと間合いを取ってニヤッとこちらを見つめてくるその顔と言ったら・・・僕はもう追い回すしか出来なかった。
結局、そのまま朝が来て疲れ果てた僕達が目を覚ますと姿こそ人に戻っていたが、部屋がめちゃくちゃに荒れている模様から記憶は望むとも望まずとも思い起こされる。
「なあ・・・礼子」
「なーに、あなた・・・部屋の掃除しましょうよ」
ああ、やっぱりか。僕は思わずがくっとずっこけざるを得なかった。そしてその後は部屋が片付くまでのしばらくの間、酒の席での出来事。僕が礼子の、つまり牝狸の婿になる事を承知した事。礼子がその証として用意した薬、あの丸薬を飲む事も承知して、自ら人外への道へ踏み出したのだ、と延々と聞かされる羽目になったのは言うまでもない。
「その内、私の実家に行きましょうね・・・大丈夫、みーんな狸だから!」
礼子は人としての礼子の姿であった、だがあの皆が密かに憧れていた様な清楚な具合の逆の、そしてその清楚さの漂う外貌とも違う牝狸たる本性の声と態度に僕はこれからの先行きを思わずに入られなかった。朝日だけがただ本物だった。