牧場勤務員冬風 狐作
「虎?」
 時は夏の盛りの払暁だろうか。その日は明朝まで仕事に追われていた私はコーヒーでも、とやわら立ち上がりかけた瞬間にかかって来た電話に向かってそう呟き眉を細めた。
「ええ、そうです。虎です」
 電話を寄越してきた相手は心当たりのない声だった、印象的なのは声のくぐもり具合。同時に荒い息遣い、声自体は冷静な響きなのだが多量の水分が、呼気の中に含まれている事が容易に想像出来てしまえるほどの音が混じっている。
「それで・・・一体何用です?悪戯ですか?」
「あなたを雇いたいのです。それはこの電話に出たから、でしょう」
 こちらの沈黙に応える様に沈黙していた相手が再び口を開いたのは、しばらく間を置いて言葉を返した事からだった。真面目に応じるのもなんだか馬鹿馬鹿しくはあった。しかしここでこちらから電話を切るのも何だか気まずくてそう対応したまでだった。
 実のところ相手の声自体は内容やその聞き取りにくさを除けばむしろ冷静でまとも、と言う印象を強く私は受け取っていた。そしてどこかに強い意志の影を感じ取ってしまっていたからこそ、私はそれを無碍に、こちらの不快感のままに動くと言う事が出来なかった。その妙な真面目さ故に電話を切って終わらせてしまう、つまり明白かつ効果的な選択肢を意識せずに放棄してしまった、そう考えられてしまえる。
 やり取りは奇妙にも続いた、ふと時計を見ると休憩に当てようとしていた時間は既に過ぎていたが口と関心が止まらない。一を決めたら新たな一を、その勢いのままに私は電話の先の相手と約束と確認を重ねていった。
 何時何時のどこにどこへ行き、どう目印をつけ、そして落ち合うか。それ等を事細かに決め上げてようやく私の手は受話器より解放される、同時に私は自身が異様な倦怠感が体に纏われているのを強く感じていた。
 だから椅子に腰を戻してまもなく、キーボードを再び叩こうと手を伸ばしかけた姿勢で意識を失う、いや失ったと言う事実をすっかり日も上がった時刻になって、顔に残る赤い筋を撫でながら半ば予感していた事を思い返すと共に、ふと重ねては苦笑あるのみだった。しかしどこかで頭に引っかかる事柄があること、それだけは決して消えていなかった。

 約束の期日はそれから2ヶ月の経過を見た頃であった。街を駆け抜ける風も、服の生地越しに伝わってくる涼しさをすっかり載せて、ふと見回せばただの上着でなしに簡易な防寒具、と思しき物を身にまとっている人すらも見かけられる。そんな中、私は1人で季節から大分ずれた夏休みを利用して、そう程遠くは無い町の駅へと降り立っていた。
 駅からはしばらく歩く。普段生活している町からは三桁ほどの距離は無いが二桁半ばの距離は離れたこの町は、この地域の中でも特に規模が小さい部類に入るもので余程の用事が無ければまず来る事はないし、来ようと言う気持ちすらも起きない場所である。だから私にしてもかなり昔に一度訪れて以来、かなりの年数を経て以来の再訪とは言え、実質的には初探訪とも言える中だから、時折辺りを見回しつつたまに走り去っていく自動車以外に、人の気配の無い町をどちらかと言えば足早に駆けていく。
「・・・ここだな」
 頭の中に収めた地図、それは2月前に打ち合わせて以来の記憶であったが不思議なほど鮮明に思い返せる。何よりも電話越しに聞いた言葉そのまま、つまり頭の中である程度地図としてマッピングして予想していたのだが、殆どそのままである街並なのだから。その中をまるで導かれる様に辿り着いた所で私は立ち止まる、そこには何も無かった。ただあるのは道路でその歩道の上、バス停も自動販売機もない、そんな場所でしばらくたたずむ。
 時間は間違えていない筈だった、太陽は、そう時計は持って来ない様にと言われていたから詳細は分からない。だがその位置的に、およそ今が正午で近い時刻であるのに違いない事は門外漢である私でも確実、そうだと思えてしまえる。
(ふー・・・冷える)
 念の為、羽織ってきたと言うよりも言われてきたからなのだが、涼しいのにはややまだ過剰なコート。それは2月の厳寒期に相応しい程度の代物のポケットに手を突っ込んで、やや大仰に気持ちを表に示してみる。そして軽く俯いてからすっと顔を上に向けた瞬間、いきなり目の前に影が出現した。
「乗りな」
 それは車だった、ミニバンの様なサイズで、だがしかしステップが付いていて高い位置に扉がある。窓が開くなりかけられる声に誘われて、私は室内へと身を滑り込ませる。そして扉の鍵を締めれば車は動き出した、相変わらず誰も見当たらない道路を私ともう1人、そして操る誰かを乗せて何処かへと走り去っていった。

 車に乗った事で契約は成立した、その言葉が今も私の頭の中から離れないのはそれを了としたからなのだろう。今、こうして椅子から立ち上がった足は別の部屋へと私を連れて行く。ここは当然、私の自宅なのだが妙にこざっぱりとしていて何も実質的には無い。
 全てはあの日以来進められた結果に過ぎない。そしてある一室だけが例外だった、そこは自宅の中にある異世界と化していた。しかしそれは決して私の望まぬものではない、ノックと共に開けられる扉の先に対する私の興味は日々尽きる事はなかったし、それに飢える気持ちが存在する事がその異世界に対する率直な気持ちなのだから。
「やあ、今日もきっちりと来てくれたね」
 まずどうして異世界なのか、それは扉の更に更なる扉があり、それはこの家の物ではないから。そしてそこに住まう家族ではない者がいるから、と言う2つの理由による。
 最も家族なんて私にはいなかった、いや正確に書くといたのかもしれない。だが少なくとも今はいない、かつてはその様な者がいたのかもしれない。しかし所詮は私の所有物であり、全て私の意志によって動かせる存在でしかなかったのを私は我が手で知った以上、何ら躊躇なく対価と引き換えに引き渡した、と言えよう。
「いえ、これが私の契約ですから当然の事です」
 頭を軽く垂らしながら言う私に相手は軽く鼻を鳴らした、しかしそれが不快感を示しているとかではないのは良く承知している事。むしろ同意の意味での癖なのであり、そしてある事を促す証でもあった。
「では、早速致します」
「ああ、急がなくても良いけどね。とにかくならない事には入れないからさ」
 言われるまでもなく、そんな顔をして服を脱ぎ始める。衣文掛けにそれぞれ掛けていきあらわになる身体にはあるはっきりとした色合いと模様が載っていた。それはまず素肌ではない、首から下を覆う身体の形にすっかりフィットした光沢のある素材で、胸から腹部を始めとする身体の内側にある部分の白地とそれ以外の場所の淡いオレンジ地の上の縞模様が特徴であろう。
 そして私は衣文掛けの下にある小型のロッカーの鍵を開け、更にその中にある箱の中より、細長くそして丸く束ねられた物を取り出した。それはちょうど片手で握れる程の太さがあり、一方の端には何やらコンセントの様な構造に出っ張っている。私はそちらを掴んだまま背中の背骨と腰骨が接する辺りへ導いた、そして受け口、正にコンセントの受け口の様な形状をした身を包んでいる素材の一部に差し込むと、軽い衝撃を脳に全身に受けて体がわずかに振れた。
(う・・・ふぅっ・・・)
 するとどうだろう、私の身体はいきなり膨らみだした。丸くなるとかではなく元々あった骨格が一回りは最低でも逞しくなっていく、胸板は厚く、腹筋も程よく割れて、腕や大腿部も太く、全ては筋肉と骨格による理想的な逆三角形、そう言える身体に私は変容していく。
 身体の表側の中心線の上には縞模様はなくなっていた。まるでそうなる事を織り込んでいる様にそこだけは1本の線を引いたかのごとく、白い地の色だけになっていてその下にある体つきがはっきりと見える。だがそれだけではない、もっと明確な変化は光沢が失われる、と言う色合いの変化によって明らかになる。
 つまり身体の隆々とした様子をオブラートするかの如く、色合いがただ素材の上の色から影を持った色へと。全てが微細で、そして腹部側は薄く、背中側は厚くと言う様に変化に富んだ獣毛へと変わり始めたのだ。
「本当、君の変化は激しいよねぇ。まぁ虎だろうからだけど」
 その模様を眺めながら、いつの間にか椅子に座っていた相手は軽く他人事の様に言葉を漏らす。そしてゆらりと彼も尻尾を振る、それはだらんと垂れている物で黒と白の混ざった具合の太目の尻尾。彼自身は衣服を纏っているのでその全身を拝む事は出来ないが露出している部分は何れも尻尾と同じくの色合いをしていて、その顔は人ではない。ピンと立った頭の上の耳と突き出た口吻、マズルに真っ青な目はどこと無い気高い空気を漂わせていた。一見すると犬である、だがそれを彼に言ってはいけない。何故なら口にすると多いに不興を買うからだ、そしてこう言われるだろう「私は狼だ」と。

 その人でない狼、その獣人たる彼の前で変化する私は今まさに獣人へと成り代わっている最中と言える。少なくとも今でもどこかでは慣れていないし、そして信じていない自分がいる事は事実だった。しかし大部分は契約を受け入れていた。そして変わった先にある姿でないと関われない事柄への強い気持ち、それこそ重要であり私が献身すべきである、そうである以外の何物でもない対象に向けて強く情熱を燃やし、逸る気持ちの中でいよいよ顔の人を捨て去る頃合だった。
 人の顔、それもまた覆われる事から消え去っていく。すっかり覆っていた生地は毛皮に変わって、更に本来あった皮膚の代わりに皮膚となり、首から上の皮膚のままの部分との対比が際立っている。そこを覆い出したのは薄い光沢のある、そうあの生地と寸分違わない物。毛皮の色の組み合わせそのままに顎下、鼻、耳、目、そして頭髪の全てが包まれていく。
「ん・・・んふぅっ」
 まるでストッキングで顔を覆ったかの様になり、喘ぎ声がパクパクと生地の下で動く口の中から漏れる。何より呼気の影響か、口の辺りは湿気によりほんのり色合いが染まっていた。そしてそれが早める合図となる、それは顔の変化を、であろう。不意に口の中へと生地が溶ける、否、解ける様に落ち込みだしたのが全てだった。
「ぐ・・・うう・・・っ」
 口の中をも覆う生地はまず湿りそして硬さと新たな色合いを得る。ただ顔を覆っている部分は獣毛へと色合いを変え、そして中身は人の丸い平板な顔から鼻から顎に掛けての盛り上がり、そして目元の彫がより出た獣の顔へと変えていくのだ。
 大きな黒く湿った鼻、目の前にいる狼と比べたら低い、しかし見方を変えればより逞しさのあるネコ科特有のマズルへとなる。後は開かれた瞳は金色に縦長瞳孔が爛々と輝く物に成り変わって、そして頭髪の消えた頭部に丸っこい耳がちょんとのっている顔である。
「ふう、ようやく出来上がったかい、虎君」
「あっはい、お待たせしました」
 ぴんっと細長い尻尾をさせなが私はロッカーの中から取り出した衣服、それはこの姿の時だけ身に纏う作業着に足を通しながら狼の言葉に応えた。
「今日の作業はえーっとだね」
 狼はさっと机の上にずっと置かれていた紙を手にすると、その中身を読み上げ始める。これも狼の癖だった、彼が読み上げている間に準備を完成させろ、と言う合図なのだ。だからオーバーオールを着込む手の動きも俄然早くなる、同時に作業内容を頭に覚えつつ、必要な残りの装備もして完了だった。
「・・・と言うわけで、じゃあ行くよ」
 赤いオーバーオールを着た狼が立ち上がると共に私も後に続く、私のオーバーオールの色は緑だった。これはここでは身に纏っているものの階級、つまりどの立ち位置にいるのかを示す標識、とでも言える物になっていて上役たる狼の後に虎たる私が続く。そして入ってきたのとは逆にある扉を開くのだ。

 扉の、更に先の空間はとても天井が高い。そして最低限の椅子と机がある以外は一様にある物で統一されている、それは無機質でそしてある種の威圧感と嫌悪感を引き起こすものであろう。
 それ等は二段重ねとなった檻だった、格子の一面を除いて全て鉄板となっている中は明るさとは無縁で、全てにおいて陰鬱さがこびり付いている。半ば空であったが残りには中身があった、そして中身のある檻の前には全て白いタグに何事かと書き込まれていて、見渡すと目立つ色合いのオーバーオールを身に着けた影、つまりそれは全て獣人達がそれぞれの担当した区画の世話をしている。
「さてと、じゃあ僕はちょっと確認してくるから先に作業始めといてね」
「はい、分かりました」
 担当する区画に入るところで不意に狼はそう言い残して駆けていった、私はそれを見送りつつ区画の中に入りまずは状態の確認を始める。大体、1つの区画には20程の檻が割り当てられていて、この区画も他に倣って半ば程度の檻が使用中だった。
「ふんふん・・・」
 1つの檻の高さは160センチほどの高さである。だから下を見る時はやや身をかがめ、上を見る時はちょうど良い、そんな具合で歩いていくと昨日までは使用されていた檻が空いているのに私は気が付いた。
「えーと・・・ああそうか」
 私は手元の帳簿を見て首を縦に振った、そしてしばらくふと見つめると残りの確認へと歩を進める。
 檻が空く、つまり「出荷」された事は既に度々経験しているものだから特に感慨など無い。だからその様な行動を取ったのは内心では驚きだった、だが少なくともそれが情の発露であったのだろう。
(どんな加工をされるのかねぇ・・・)
 そう関心は例えそうとしても、かつては大切な何としてでも守らなくては、と考えていた存在に対するわずかばかりの情。家族同然に親しくし、愛していたに等しい女性に対して抱く最後の感情としては余りにも釣り合いが取れないかもしれないが、それが人間たる私の最後だった。そしてその瞬間から牧場、動物牧場勤務員5-0201号としての虎獣人たる私に全ての感情が切り替わった瞬間だった。

 それは急な電話でもたらされる採用通知、ほんの少しの壁の向こう、そこに位置する世界で必要とされる「動物」を出荷する牧場の勤務員の求人。
 その世界には「人間」と「動物」がいる、そしてそれは我々の世界の逆になる。つまり姿の話で言えば「人間」が動物の姿であり、「動物」が人間の姿であるそんな世界。
 最もその世界の「人間」はただの動物ではない、知性と強靭かつ特徴的な身体的特徴を持った獣人と呼ばれる人々が支配する世界であり、彼等が「人間」なのだ。
 そして採用通知は絶対である、世界の垣根を越えて我々の世界の人間があちらの世界の「人間」となれる唯一の機会。人間では単なる産業用の資源でしかない。

 大抵、それは払暁の時間に唐突にかかってくる。数ヶ月以内に指定された場所から壁の向こうへ向かう馬車に乗る事で契約は成る。
 選ばれた人間はあちらの「人間」になるのに必要な生地と身体を固定化される。決して脱ぐ事のできない生地をプリントされるのだ。
 同時に最も愛している存在、その「人間」となった人間が思いを寄せている人間を「動物」として供する。それは全て自由意志で、しかも自ら望んでなされる。
 そして更に時間を要して全ては完成する。供した「動物」が出荷される頃、既に身辺を整理し終えた勤務員は完全に壁の向こうの「人間」に成り代わるの。

 それは何時かかってくるか分からない採用通知、今にもまたかかって来るかもしれない、しかしかかって来ないかも知れない。
 だが案ずる事はない、何故なら案じたところでどうにもならない。
 そしてそれはそれで幸せなのだから、特に人間にして「人間」でいたい人ほど、幸せなのに違いないから。
 人を愛する事、それを生きがいとし、かつ人間たる証と感じていた私もそうなのだった。今「人間」として愛情を以って人間と接せ去られる事は無上の喜びで仕方なかった。


 完
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