白へのこだわり 冬風 狐作
 嗚呼、最初にその思いを抱いたきっかけとは何だったのだろう?思い出そう、思い出そうとしているものの一向に叶わぬまま、記憶の泥濘にすっかりはまってしまった事はないだろうか。
 そして大抵、思い出そうとして頭を悩ます事自体は然程、苦痛ではない。しかし気になるからこそ思い悩んでしまう訳で、時として無理に思い出すのを急ぐ必要のない事柄と理解しているにも関わらず、否、何としてでも、とばかりにこだわってしまうものだろう。そしようやく分かった時の感情は素直に安堵するか、この程度の事に、とふとした徒労感を感じて苦笑するか、のどちらが基本と言える。

 今の僕は前者だった。場所は洗面所、鏡に映る風呂あがりの己の体をその手で撫で続けている。正確には掌に盛ったクリームを念入りに塗り付けている、自分で言うのもふと恥ずかしい所があるが、それを見つめている表情は満面の気配も載せた良い笑顔だった。そしてそのクリームの入っているチューブには「美白」の2文字が躍っている。
 僕の思う美しさとは白くある事だった。しかもひねくれていると言えようか、ただ白ければ良いのではなく若干のアクセントを持っている白色への憧れであった。つまり白い事は良い、しかしただ完全なまでの白はむしろつまらない。とにかく自分の好みに合う白は例え、その姿が理解不能な物であろうと全く問題ない、と言うのが僕のスタンスだった。
 ただ自分の体までを白くしよう、と意識したのは比較的遅かった。そこまで白いのにこだわるにも関らず、体に関してはこれが生まれつきなのだからこればかりは変えても仕方ない、だんらこそ周りを好みの白にしよう、とすら意識していたものだった。
 しかしそれの認識に変革をもたらしたのは1本の、そう正に今、手に握っているチューブであった。大きさで言えばかなり大きく手の平全体で掴んでも大きくはみ出るほどで、少なくとも昔の僕が持っていた記憶が無い。つまり比較的最近に手を入れたのだが、どこをどうやって手に入れたのかがしばらく判然としないまま、洗面所の脇にずっと置いてあるのを見つめていた、と言う訳である。
 矢張り事情の分からないものであるからこそ、幾ら自宅の中にあるとは言え何だか奇異に思えてしまうし、どこか不審に思えて手が伸びない。そして一体どこで、と思い出そうと見るたびに浮かべては頭の片隅にあり続けていた、そう言う代物でしかなかった。
 だから今、それを手にしていると言うのはその疑問が、不審な点が晴れたからと言う事である。完全にああそうだ、と浮かんだ訳ではなかったが少なくとも1ヵ月以内の間に、出かけた先で手に入れた、そう言うものだと分かった次第なのだった。そしてそれは自らの体を白くしよう、と思っていたことも同時に思い起こさせた。
 そう、体を自分好みに白くするにはどうすべきかと言う相談をした席で手に入れたのだと、そこまでがトントン拍子に思い出されてくる。
 とにかくその際に携行した鞄の中にこのクリームが入れられていたのだから。そこまで思い出せばもう十分、と浮かび上がってくる記憶に一端の終止符を打ってそれを手にした時、僕は体がむずっとするのを感じた。気持ちもベクトルが強くそちらへと傾く、塗る、塗らなくては、と。それは全力で競技を終えた際に、体が発した分の水分を望む、それに近い感覚であったと言えよう。
 そしてキャップを開いて捻り出す。出て来たのは白い塊、にゅっとしてたわめども崩れない柔軟性のある固体は差し出していた僕の左手の指先へと触れた。その途端、僕は沸騰したと言えるだろうか、それだけの精神の昂揚を我の中に感じた。そして最早、チューブを掴む手の力が留まる事はなくなっていた。何もかもが怖くなくなっていた。

「・・・!?」
 思わず背筋が飛び跳ねる、そう言う反応を僕が示したのは急に胸が締め付けられる様な感覚に捉われたからだった。白いクリームを厚めに塗るなり体が震えると言う、つまりその源が自分の体である事は、何故だか幾度か繰り返した痙攣の果てに悟る事は出来た。しかし分かっただけではどうしようも出来ない、この急な痙攣を繰り返しているのはどうしてなのか?
 だが何が起きているのかも明確に分からぬまま、幾ら記憶の中に手がかりがあるのではないかと探ろうとしても、急速に喉が締め付けられる様な感覚に呼吸が荒くなっていくのに邪魔されてしまう。
 視界は正面の鏡から白い洗面台へと急速に移って行き、たまらない気だるさに負けてその両脇に手を付いて舌をだらんと垂らして・・・と言う姿は視覚で全てを捉えたのではなかった。とにかく苦しさと競う様に妙に鋭敏になった感覚、それによって脳内に映像として映し出されていたのだ。
 しかし苦しさは止まなかった。でもせめてもの救いはそれがしばらく強まった後、そのまま目立った変化を見せなかった事だろう。苦しみは増える事も減る事もない、一定のリズムを持った痛みへとなる。ある意味それは体が慣れた、と言えようがただ時間だけが経過するのがしばらく続く事になった。相変わらず洗面台を見つめて舌を垂らしたまま、全てが何時かは落ち付くものとして信じつつ、息を荒くするそんな時間がしばらく続く。
 しかしそれはただ希望するだけで叶う代物なのだろうか、いや信じるだけで出来るのだろうか?確かに病は気からと言うし、念ずれば岩をも通すとも諺は言う。だが、とその直後に起きた展開について僕は今でも思う。それは果たして当てはめるのであればどちらが相応しいのであろうかと、今でも思えてしまうのだ。

 それからもう間も無くだった、ようやく頭を上げる事が出来たのは。まだ胸の辺りにはつっかえた感じは残っていたが、少なくとも痙攣は再び、その始まりと同じく急速に薄まっていたものであったし、僕はようやく終わったと言う安堵の気持ちすら浮かべていた。しかし次の瞬間、僕は思わず息を呑んだ。それは再び鏡を見つめたからであろう、そしてそこに写る己の姿を見てしまったからだろう。
「・・・っ!?」
 口は開いたが言葉は出なかった、ただ強い言葉となる筈の息が口から強く吐き出されて代わりに、そう正しく代わりに胸に直接、空気が吸い込まれるのを感じた。手は幸いにして動いたからそれを撫でる事が出来た、そう胸の、両胸の真ん中に浮き上がったその塊に触れる事が出来たのだ。
 その形は縦長だった、形で言えば菱形に近いが菱の部分がやや上に集中していて、そう言う形のカイトを浮かべてもらえれば分かり易い。そして矢張りその部分が一番盛り上がり下、へそ側の頂点に向かってなだらかな一筋の尾根を持った傾斜を描き、最後の部分で軽い盛り上がりを見せている。何よりも注目すべきはそこに穴が開いていたことだろう、両脇に丸い穴が開き、そしてその真下に横に広がったより大きな穴、合計3つもの穴が広がっていたのだ。
 体に穴、そうでなくとも傷が気が付いたら開いていたと言う事自体、そもそも尋常な出来事ではない。しかし明らかにそれは開いていたが出血とかはなく、結果として恐る恐る触ってみても手が赤く染まる事はない。そもそも真っ白のクリームを塗りたくった直後であるからもし出血していればそれは見事に鮮血に染まるのが当然と言うものであろう。だがそれはないばかりか傷口独特の、妙に弾けたとも言える感触すらなかった。
 それはもう昔からその通りであったかの様な滑らかさのまま、穴の中へと続いていた。何よりも不思議だったのは撫でた途端に、いきなり大きなくしゃみを催した事だろう。そして反動といわんばかりに空気がその胸の穴から吸い込まれていく、そうその穴で呼吸しているのだ。吸い込まれた空気は確かに肺に回っているのを、そして一番下に位置する穴からはただ使用済みの、二酸化炭素をたっぷりと含んだ呼気が出て行くのが分かる。そしてそうであるのに僕の鼻と口はピクリとも動かない、そう僕は自分の口と鼻で呼吸をしていないのが知れたのだった。
"一体・・・これは・・・っ"
 だから何を言わんとしても声にはならなくて当然だった、喉に空気が流れてこないのだから。しかし浮かぶ困惑の気持ちを少しでも外に出すべくの意思表現として、ただ鏡に映る自分に対して意識もせずに身振り手振りを繰り返しては、更に内面での困惑を強く吐き出す。だから何時も以上に何かしら思っていたには違いなかったが、余りにも慌てていた事からその多くは思い出せない。そしてその困惑は胸の穴を通る呼気をますます増大させる、何時しか心臓はバクバク、と言う表現が似合うほどに拍動を強め、胸は全力疾走を終えた後の様に大きく上下していく。
 しかし次第にその胸の動きはただそれが呼吸を激しくしているから、では説明が出来ない動きを始めた。浮き彫りになる、あるいは浮き出るとでも言えるだろう。胸に出来た3つの穴、そこを頂点として次第に胸に浮かび上がっていく1つの形があるのは次第に明らかに、そして明白となった時、僕は今度は首の付け根が酷く圧迫される感覚に陥った。思わず吹き出る脂汗の中に意識は朦朧として、また前かがみの姿勢に戻っていく。
 不思議とその姿勢が楽だと感じる気持ちが生じ、手の平を地面に付ける事が当然かの様な意識がふと過ぎる。それこそ走馬灯の様にクラクラとする度合いを強めて、とうとう耐え切れずに瞳を閉じたが最後、その目蓋はもう二度と開く事はなかった。

 そこから先と言うのはあくまでもこうなった結果を見た僕が、体と記憶に残る感覚から描いた物に過ぎないから細部は異なるかも知れない。だがそれは一言で言って変化であったのには違いないし、僕の生涯の大きな、いや大きすぎる転機でしかない。
 結論から言えば僕はそれまでの全てを失ったのだ。気が付いた時に僕の鼻の中に飛び込んできたのは新鮮な青草の香り、開いた眼に映ったのは異様に広い視野に映し出される周囲の光景。
 白い壁、床に敷き詰められたわら、整えられた敷料、そして時折ピシピシッと視界の隅に入る尻を打つ尻尾。視覚には入らないが感覚として感じる大きな体の気配は脳内で幾つかのイメージと被った、まずは家畜と言う言葉と。そして続いては家畜として浮かぶ獣の1つと完全に一致した。
 それは「馬」である。尻尾、そして首を動かした時に見えた大きな体躯は正にその形で、全てが純白の毛並みに染まっていた。それは皮膚の色ではなく毛の色として、しかし恐らくその下の皮膚も真っ白であろうとはふと推測出来てしまえる。それは限りない、限りなく白であった、正しく望んだまざりっけのない白さであった。恐らくあの視界が真っ暗闇に閉ざされた後にこの様な変化を僕の体が遂げた事は明白でもう疑う余地もない、何故ならここまでリアルな感覚の夢はありえないし、仮にこれが夢だとしたら僕は相当な絶望をしてしまうだろうから。
 そう白馬、なのである。白い、真っ白な馬に僕はなっていたのだ。ふと思えばあの時、胸に浮かんで浮き上がって来た物はそう、今だから確信を持って言える。あれは馬の顔だったのだ、だから馬の顔を正面から見たのに全く以ってそっくりであったのだ、と気付いてからは尚更、それは実感がこもったものになる。
 では僕の顔はどうなったのだろう?恐らく首の中に取り込まれてしまったのではないだろうか。胸に生じた顔が新たな顔となり、それまでの顔は伸びていく馬の太い首を構成する1つの物質へと変貌する。だから僕は妙に目蓋を閉じた事を覚えているのかも知れない、何故ならあれが僕が人としての目で世界を見る最後の瞬間だったのだから。そして顔が取り込まれてしまったのなら、骨格自体も内臓すらも大きく変わったに当然であろうし、それ等は首の下につながる太い胴体にまとまったのだろう。
 更にはその顔と首、胴体の大きさに見合うものとなるべく手足はしっかりとした蹄を先端に持った脚へとなったのだろう。そしてそれを無意識の内に意識していたからこそ、僕は手の平を地面に付ける事を拒否せず、むしろ浮かべたのだと思う。

 そうして僕は馬、それも白い子馬になったのだった。もうその様に感じられて仕方ないし、そもそも何だか分かりそうだが分からない虫の居所の悪さがあった。とにかく目覚めたら体はこうなっていたのだし、誰かが親切にも馬である僕に相応しいこの居場所が与えてくれた、いや運んできてくれた事は余りにも恵まれた事だと思った。もしあの狭い自宅の中で目を覚ましていたら一体どうなっていただろう?そう思うと自信が無い。
 だからこそこうなった以上、人としてのこだわりすらも不要であると僕は段々と思い出していた。必要なのは馬として生きる術なのだからと、その他はもういらない筈だと思うと急速に気持ちが楽になっていく。楽に、らくに、ラクニ・・・そうして全てが白く、こだわり通りになっていった事すら僕はもう分からなかった。もう僕はただの白い、ほんのり灰色のかかった子馬でしかなかった。


 完
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