「おや、こんにちは」
「ああ、こんにちは、今日はお休みですか?」
それはマンションから徒歩数分ほどの小さな公園、その東屋で始まった。ふと一服、タバコをくゆらせていた彼が散歩をしていたご近所さんに挨拶を、そして話しかけられたところから。
「いや、今日は帰ってきたところです」
「帰ってきた、と言う事は夜勤でもされていたので?」
「いえ、大学ですよ。何時もある講義が今日は休講でございませんでして、それで」
当然ながら彼にとっては正にその通りだったので、そうと答えたまでだった。しかしそれに対して、ご近所さんが見せたのは、えっとでも言うかの様なふとした驚きをたたえた表情であった。当然ながらそれは彼自身も認めていた、しかし余り相手の反応を気にする、そう言う性向ではなかったので顔色1つ変える事無かった。むしろその心は良い具合にたまったタバコの灰を、灰皿の中へと落とす方にむしろ集中していたのもあるだろう。
「あ・・・そうなのですか、となると大学の先生でも?」
だがその次の瞬間にぶつけられた言葉には、流石に視線をそちらへと向けて軽く首を傾げざるを得なかった。そう身に覚えの無い、予期せぬ言葉を言われたのだから当然なのだろう。そしてほんの数拍の間を置いて、彼は口を開いた。
「いえ、わっしはまだ学生ですのでその様な身分ではございませんよ」
「えっ・・・あっすいません、すっかりもう働かれているものだと勘違いしてまして・・・あの、その何時もその様にしっかりとした格好をしているものですから、てっきり」
彼が言うのが矢張り事実であった、しかしそれは隣人にとって、つまり平然と言い返してくると言う姿は予想外であったのだろう。だからこそ今度こそ呆気に取られたような顔をした上で、慌てて取り繕うように愛想笑いを浮かべつつ、弁解の言葉を紡ぐのに彼は何時もの通りに反応するのみだった。
「あっいえ、お構いなく。何時もこの格好ですし、慣れておりますから」
「慣れている・・・ですか?」
「ええ、良く聞かれるのです。わっしにとってみると何時もこの格好ですから気にはならないのですがねぇ・・・」
そう慣れていたのだ。初めて会う人には毎度の同じ反応をされるものであるし、仲の良い知人ないし友人には事ある毎にネタにされるものであるから彼としては今更、先ほどの様に驚きの顔を見せられたり勘違いをされるのには特に何も感じない。
だからこそそう返したまでであったのだが、それが隣人の焦り、つまりその態度から逆に不機嫌にさせてしまったのではないかと深読みを呼ぶ。それだけならまだしも、更なる焦りを誘った挙句、何とかしなければと言う思いを加速させてその口から再び言葉を投げかけた。
「はあ・・・何時もなのですか?」
「ええ、何時もです。一番落ち着くものですから」
「なるほど・・・そう言えば以前に和服姿であるかれていましたよね?あれも自前なので?」
焦った時、それも何とかしなければと言う思いに駆られている時に限って余計な記憶を思い出して、ついつい口に出してしまい墓穴を掘ってしまうと言うのは良くある事であるが、今回もその王道であった。隣人の脳裏には今年の年初にふと最寄の駅で見かけた、紋付袴では無いにしろハンチングを被った普段着としての和服姿をして人を待っていた、そんな姿の彼が思い出されてしまったのだった。
当然ながら、それも全て彼は肯定する。むしろそれに気付かれていたのが嬉しいとすら思って、そして彼もまた1つ尋ねられていない事を口にしてしまったのだ。夜寝る時もパジャマは稀で、専ら寝巻きでございます、と。
それを耳にした隣人の脳裏はどの様な物だっただろう。次々と出てくる自らの記憶にある事実、そしてそれが真実であると言う裏打ちの反応の繰り返しに、すっかり打ちのめされた様な気分にすらなっていたのは難くない。だからこそ押さえ込んでいた気持ち、ここでは純粋なまでの驚きをその度に表情により露にして行ったのだ。そして終いには言葉としても一言、明確な驚きのそれを漏らし挨拶もそこそこに、それこそ退散する様にその場を立ち去ってしまったのだから。
流石にその様な姿を見て何も感じないほど、彼は鈍感では無かった。ただ彼の場合は既に相手は自分の姿に驚いている事、それだけはやり取りの最初の時点で認識していた事もあって、ちょうど吸い終えた吸殻を片付けてから傍らに置いてあった自らの、年季の入った革鞄を再び手にすると緑地の背後にそびえ立つマンション、その一角にある自宅へ向けて踵を返すと言う余裕があった。だが心の中では一連のやり取りを反復していた、ひたすらじっくりと繰り返し、そしてその過程で浮かび出て来た気持ちを心の一角に抱え込む様になった時、その体は自室の椅子の上へと投げ出されていた。
「んー弱りましたな・・・まぁしかし」
しばらく前の呟きから一体どれだけ、懐中時計はその音を響かせたのだろうか?そう思えるほど微動だにしなかった彼が、ふと体を起き上がらせたのは矢張り同様な呟きを共にしての事だった。
「悩んでいても仕方ありませんでしょうし、何も恥ずかしがる事はございません。それがわっしのジャスティスなのです、ただ前進あるのみ、いぇぃ!」
彼はひたすらあのやり取りが、そして改めて自分が普段している格好。ネクタイを締め、三つ揃えに革靴のどこがおかしいものか、そもそもそれが己なのだ、と改めて認識をしたのだった。だからこそ体を動かし、椅子から外れて立ち上がる。だが一方でその手は締めていたネクタイに、身に着けていた服へと伸び解いていく。そして丁寧にたたみ、クローゼットへと片付けて下着一丁になると再び机の元へ戻り、どこからか鍵を取り出して1つの棚を開いた。
その中より1つある物を取り出す、それはちょうど指先で抓める程度の大きさの小瓶。その蓋を開け、軽く鼻に近づけて匂いをかいだ途端、その表情は休息に緩む。
「では・・・こいつは効くものです」
そして一思いにくいっと、口を付けてその中身、小瓶の中にたたえられていた透明な液体を飲み込んで喉を潤す。しばらく唾液を飲み込んで軽く喉を揺らしてから、彼はソファーの形をしたままのベットへと、寝巻きも見に付けぬまま横になった。そしてしばらくゴロゴロと動いてから、静かになる。何時の間にか動き始めていたクーラーの送り出す冷たい風、その音に静かに混ざる相変わらずの懐中時計の音だけがこだましている中に1つ・・・その体は横になっていた。
だがそれはただそこに在るだけではなかった、横にこそなったまま次第にその背格好は変わり始める。元の姿が歪んで行くと言えるだろうか、そう手足が縮み胴体が縮み、それによって生じた不恰好を隠す様に豊かな毛が、その白い肌を多い輪郭をぼかして行く。
その頃には身に着けていた下着はすっかり弛んでただ覆っているだけの、ただ加工された布に等しいと言えるまでになっていた。その中にある体と言えば、前述の通りにすっかり変わっていてその色、短めではあるものの濃密でしなやかさの感じられる毛の質。何よりも流れをたたえたそれはふとした温かみのある黄と白の2色に区別されて、ふとした柔らかさをただその色だけで感じさせてくる。
そもそも肉付き自体、それがすっかりそれまでの物と変わっていた。一言で言うなら四足体型であろう、すっかり二足歩行には適さないその足の形、何よりも付け根の角度、そして大きく、トランクスの部分を跳ね除ける様に尾てい骨の部分より伸びた長い尻尾。それらが全て、今の姿が人で無い事を完全なまでに証明していた。すっかりマズルと化した長い顔は、鼻先のヒゲをわずかに揺らすのを見せて瞳は閉じられたまま。そんな仰向けの体がソファーの上に横たわっているその姿。
それは1匹の狐であった、白い腹部に温かい黄の毛並み、そしてふと薄っすらと目を開けた拍子にくるっと一回転して着地した時、体にまとわり付いていた下着であった物は器用に脱ぎ捨てられて、耳の裏だけがこげ茶色をした、ほんのり小柄なホンドキツネが大きなあくびをして、尻尾を軽く揺らしつつ扉の方へと少しばかり面倒臭そうな表情を浮かばせては歩き出していった。
「ねぇ紺一郎」
「何でしょう、Мать?」
彼が母親にその様に声をかけられたのはそれから数日後の事であった。ちょうどアルバイトへ行こうと支度をすべく自室を出た、そんな時だった。
「だからそこは普通に日本語になさい・・・1つ良いかしら?」
「ええよろしいですよ」
「あなた、もっと普通の若者らしくなってくれないかしら?今日ね、ご近所さんと話をしていたらあなたの事が話題になって・・・私が恥ずかしいじゃない」
「んー・・・弱りましたな、これがわっしですからねぇ・・・そんなにおかしいでしょうか?」
「今時の若者風、ではないのは確かね」
ほんの少しだけ苦笑いを浮かべる彼、しかしふと時計を見てはっとした顔をすると、姿勢を正して改めて口を開いた。
「然様で、しかしわっしは・・・ああ失敬、そろそろアルバイトの時間ですので失礼します」
「もう・・・ああそう、そのお隣さんね、奇妙な事があったそうよ?」
「ほう、奇妙とは気になりますな?」
当然、アルバイトをしているのは母親も承知している。だからこそそれ以上、彼の身形に関係する話は続けなかったのだが、ふとその時にしていた別の会話を思い出し咄嗟に口に出した。それは動きつつも彼の興味を惹くのに十分であった、だからこそ母親はさっとそれを言いのける。
「あの人、絵を描いていらっしゃるじゃない?それがね、先日、少しだけその部屋から目を離して戻ってきたら、何も描かれていなかったキャンバスが倒れていて置いてあった絵の具がその上に撒き散らされていたんですって」
「ほぉ・・・それはまた奇妙ですなぁ、何時か機会があったら詳しく伺ってみたいものです。それではМать、アルバイトに行って参ります」
「はいはい、気を付けていってらっしゃい。ちなみにお隣さんが言っていたけど、何か犬の足跡みたいな痕跡が一緒にあったそうよ、奇妙よね、ペット飼ってらっしゃらないお宅なのに」
「うーんますます気になりますなぁ・・・では失敬します」
そう言って軽く頭を下げると、やり取りの間に靴をはいていた彼は玄関の外へと出た。そして再び振り返って頭を下げて閉め、鍵をかけるとエレベーターのボタンを押す。今日は箱がかなり階下にあるのか、少しばかり時間がかかった。だからこそふと視線を床、無機質な灰色のコンクリートの床に向けてしばらくした時、はっとした表情と共に一言口走った。
「これは・・・いけません、あとで何とかしておきませんと」
それは箱が到着し扉が開いた途端の事だった、とにかく中に乗り込む。何時も通りの姿をして乗り込み、ドアを閉めて下降し始めた箱の中で彼は引き続き見つめていた。わっしとした事が、と。
目に映っているのは白い箱の床にある痕跡であった。幾つかの色の交じりあっと思える、それだけでは何色かは判別し難い色。その足跡、つまり犬の、否、狐の肉球の形に残っていたその痕跡。それをどうしようかと浮かべつつ、白い自らの手の平を思わず両手共に向けてしばし見比べてしまっていたのだった。
だが幸いなのは強く反復するほどではなかったと言う事だろう、微笑すら浮かべていたのが、あの隣人に直接言われた時との大きな違いだったのだから。改めて幸いなのだった。