紅葉の静寂・後編 冬風 狐作
 ふと気が付くと彼はベンチの上に座り込んだまま体を斜めにしていた、どうやら軽く居眠りをしてしまったらしくかすかに頭が重かった。首を左右に振って何とか残っていた重さを振り払うとゆっくりと立ち上がって背筋を伸ばす、薄曇と言うせいもあるだろうが空気は涼しく程よい湿気を含んでいて何とも美味しい。相変わらず前述したような音以外には静けさに満ちていて彼は如何に、普段己が騒々しさに包まれた空間にいるのかを改めて感じた。彼の職場は人の出入の多いサービス業、常にざわついて音に包まれていて中々気が休まらない生活だった。
「ずっとここにいたい位だ・・・まっ出来っこないけどなぁ・・・。」
 軽く自嘲気味と言う訳でもないが思いを含ませつつ呟き改めて視線を元に戻す。池も林も相変わらず静まり返っていた、動くものは風ぐらいでそれも木の葉や水面に波が出来るのを介してしか見る事が出来ないから、実質動いているのは彼だけと言う状況に変わりは無かった。
「そうだ・・・まだしてなかったな。」
 ちらっと背後を振り返りベンチの上に鞄が置いてあるのを見ると彼は再び歩き出した。それはおよそ池の縁に沿って半周ほどした所までの数十メートル、比較的円に近い形をした池であるからベンチからは完全とは言え無いが比較的対称な位置にある人工物の前へと移動した。その人工物とは丸石の積み重ねられた石積みの上に鎮座している小さな祠、その見た目からでは相当古いものの様に見えるそれは若しかすると鉄道開通前から存在しているのかも知れないがそれを知る術は無かった。
 そして何を祀っているのかも分からないが恐らくは池の畔にあると言う事はこの池、つまり池に棲むであろう水神を祀っていたのではないかとは容易に推測できた。何よりも祠の隣を池から流れ出す小さな沢が流れている時点で尚更その確信は強まる、だから彼は自然と昨年もここを訪れた際にはこの様な素晴らしい場所に敬意を表する意味も込めて、ちゃんと手を合わせてお参りをしていた。込めるのはただ1つ、感謝。そうこの様な場所である事に、そしてここに来れた事について礼をする意味でもしっかりとしないと彼は気が済まないのであった。
 そして今回も短いながらもそれを終えて再び一息を吐き畔に立つ、何時の間にか風も吹き止んでいたので水面は鏡の様に平面で映る物をそのまま正直に映し出していた。色取り取りの紅葉、白い曇り空そして彼の姿・・・ふと眼鏡を外して裸眼で覗き込む、彼の視力の悪い瞳では眼鏡では普通に見える高さからではすっかりぼやけてしまい何が何やら判然としなくなってしまう。だから基本的に眼鏡は外さないのだが、今日は不思議と気持ちが落ち着いていた。それでいて妙にこの静けさと一体化したい、そんな思いが疼いていたのである。だから裸眼、つまり眼鏡と言う人工的な物を介さないで自らを見ようとしたのだろうか?
 とにかく彼は眼鏡を外して水面を凝視していた、全ての輪郭がぼやけて今にも溶け合って一緒くたになってしまいそうだった。だが不思議と紅葉にそれが似合うのにも気が付いてしまった、水面の紅葉を見た後は顔を上げて実際の紅葉を見る。赤に黄色、混ざりに混ざり1つになって・・・白い空すらその一部だった、瞬間、体が浮いた様な感覚に包まれた。
「!?」
 驚くので精一杯だった、それも一瞬だけ・・・一瞬だけでも驚けたのだから幸いだったのかもしれない。全身に纏う冷たさ、それは飲み込むように体に纏わりついて服に染み込む水だった。水といえばあるのはあの池の中、そう池の中に転落していたのである。浮き上がろうと彼は必死になったしかし目を開けていられない、目が水に触れて痛くて仕方ないのだ。だから彼は思わず目を瞑り更に必死になって浮き上がろうと体を動かす、だが涼しいであろうとやや厚着で来ていたのが最高に災いをする。
 恐らく夏の軽装であれば目を瞑っていても浮き上がるのは不可能ではなかっただろう、しかし水を一気に吸い込んだ服は予想以上に重くなり体の動きを封じた。そして何よりもいきなりの冷たさの前にすっかり彼の体は驚いてしまい、込み上げて来る苦しさと共に口を大きく開いた彼は口の中から気泡を水中に多く放出しながら水底へ沈んでいった。池の水深は思いの外深いものだった。

"・・・?"
 次に気が付いた時、彼は自分がいる場所について一瞬理解が出来なかった。そうそこは見える限り明らかに確かな質量を持つ物体の中・・・透明で光が物質的に揺らめく水の中としか思えない空間だった。
「な・・・!?」
 理解出来ないのはそれだけではなかった、そう声が水中の中だと言うのに口から漏れて耳に届くのである。それも明瞭に、何よりも呼吸を普通にしている・・・そして目は痛くない、少なくとも自分の体は空気に包まれているとしか有り得ない。
「あら・・・目を覚ましたわね、御機嫌よう。」
 そしてそこに投げかけられる声、その時にはもう驚くも理解出来ないも通り越して何が起きたのか分からない一種の思考停止状態だった。ただ反射的に体を震わせるしか出来ない。
「ふふ、緊張してるのね・・・大丈夫、今解してあげる。」
 すると再び冷たさを・・・唇に感じた。その感触は口付けと言える物で深くには至らなかったが不思議と混乱は解けて冷静さ、何よりも若干の興奮が体に芽生えて目を丸くする。
「は・・・っ・・・。」
「ふふ、改めて御機嫌よう。泡の中の居心地はいかがかしら?」
 泡・・・確かに言われてみれば水中で空気は泡となるものだ。
「あら・・・まだ駄目かしら?」
「・・・え・・いやこれ・・・。」
「あっ大丈夫ね、良かった・・・私はこの池に住まう者。人間・・・特に殿方と話をするのは初めてだわ。」
 響いてくる声は透き通る清楚すら感じる声、不思議と魅力的に感じられてしまうその声に思わず聞き入る内に落ち着いてくるのだが姿はどこにも見えなかった。
「だ・・・誰なんだ・・・神様・・・?」
「ん、良い答え。やっぱり良いお方ねぇ、貴方は・・・名前は明かせないけど確かに私はこの池に祀られているわよ。」
 声は次第に弾んでいた、そして不思議と水の中を何かが、ただの水の流れなのかもしれないが動いているのが見えるような気がする。しかし改めて凝視しても何も見えない。
「神様・・・水の中・・・死んだの・・・か・・・。」
 落ち着いたとは言え、混乱からは抜けられたとは言え考えだけはまとまらなかった。何よりも現状が全く理解出来ないのは変わらなかった、そして自分は死んだのかと言う思いが浮かんでは彼はとらわれてしまいたまらなく感情が高ぶってしまう。
「人としては死んでますね、でも貴方は生きていますから安心して下さいね。」
 神と言う事を自ら口にしないまでも認めた相手はそう優しく言ってのけた。人としては死んでいる、しかし生きている・・・聞いた途端、彼は驚きを当然禁じえなかった。自ら死を予兆し口にしていた以上そうするべきでは無いのだろうがしなくてはいられない、それに対して声は無言の肯定をした後にさらっと言ってのけた。
「人としての貴方を殺めたのは私ですから、ふふ。」
 それは驚きの告白だった、安心させられた相手からの告白・・・だがそれに対して彼は再び目を見開くしか出来なかった。それは最初に見せた驚きの仕草と全く同じ、そして言葉無き疑問を発した途端、次なる言葉が彼に降りかかる。
「生きている貴方は私の物、だから私の好きな様にさせていただきます・・・。」
 それで終わりだった。全ては終わった、それに対する疑問を言う時間は寸分も与えられなかった。ただ声を発している・・・言葉の調子から女の微笑が水の中に浮かんだのを見たと思った瞬間、彼は体が急速に浮上していく感覚にとらわれた。感じる、動きは全て感じられた。しかしそれに対する感想は一切漏らせない、浮かべる事すら出来ない。
 まるで色付いた紅葉の一葉の如く、風に吹かれ雨に打たれるがままの如く・・・何も自分で成せはしなかった。流れるままに体は全てが高潮する様に浮き上がる度に膨らむ様な感覚に満ちていく、正しくそれは浮き袋と言うのが相応しかった。それも全体が1つの浮き袋の様になるのではなく、体の部分部分それぞれが独自に膨らんでいく心地で余計に苦しい。もし彼がその時感じる以上の思考が出来たらどう浮かべただろうか?複数の大小ある球体の集合体の様に感じたかもしれない。
 そして何時しか空気が近付くに連れて球体は再び縮小していく、それぞれ元通りとは異なる姿形に変化しながら水面に。伸びる所は伸び、縮む所は縮み、そして生える物は生えて・・・途端にその体は大きく跳ね上がると地上へ着地した。
"地上だ・・・っ!"
 彼の思考も急回復した、足の裏から伝わる地面の感触。水の冷たさとは違うひんやりした温度としっかれとした質量感が大きく彼を安堵させた、目の前にあるベンチを見れば上にはしっかりと鞄は載っていてそのまま・・・まるで妙な夢を見ていた様な心地になった。当然そう思い、先ほどベンチの上で目覚めた時のごとく背筋を伸ばした。
「ギャッ!?」
"え・・・手が・・・!?"
 だがその行動は彼を現実に戻す物、いや彼の意識を根本から崩す事に繋がった。何故なら体は上下にではなく前後に、つまり地面に沿って水平に動いたからである。腰に力を込めて手を伸ばす、これ自体は変わらないのだが姿勢は地面に沿っていて・・・何よりも見えた手の先は人の指ではなかった。楕円形の半分の様な格好をしていて何よりも視野がおかしい、そう下から木々や空を見上げているそんな具合なのだ。
"そ・・・そんな・・・っ。"
 彼は絶句した、そして水面に映る自分を見た。池の水面に映る彼の姿は・・・人ではなかった、前脚に後脚、ふっさりとした尻尾そして長いマズルに三角耳とやや濡れすぼれた感じになっている白い毛皮・・・獣の姿だったのだ。
「ふふ、良い姿になったわね・・・さぁ守って頂戴ね、この池を、森を。それがあなたの役目・・・。」
 唖然としているその耳が敏感に動き捉えた言葉、それはあの不思議な夢の中で聞いた言葉そのままだった。そして耳にした途端、彼は何か大きな事を欠落した様に感じ間も無くそれすら感じなくなった。言葉に従順に従う忠実なる存在、それが己に他ならない。誰からも言われてもいないと言うのにそう感じ込むと軽く頭を下げた後、池に対して反転をして森の中へと進んでいく一匹の獣、白狐と化していた。
 疑問も無くただここを護らなければ・・・彼の意識はすっかり変容していた。そこには人としての彼はもういなかった、いたのは白狐、そう池の主より直々に命ぜられた僕たる意識だけで森の中へとその気配を溶け込ませて姿を消したのだった。そして池の畔は静まり返る、何事も無かったかの様に。もう誰も手にする事の無い鞄すらも太古の昔からそこに鎮座しているかの様だった。
「これからは1人じゃないもの・・・嬉しいな・・・。」
 そう風に乗って声が響いた、かは定かではない。ただ同時刻に段丘の下の谷川沿いの山道を歩いていた登山客の幾人かの耳に届いたと言う。そしてまたこの山に伝わる逸話となるのだろうか?それはまだ定かではない、しかし人が1人行方不明に・・・それも廃線跡でなったと言うのは静かなニュースとして広がりまた何かを呼ぶのだった。


 完
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