「なんだ、1人で乗り継ぎ旅行してるんだ。良いね、若いね」
「まぁ好きでしているものですから、ああ良いんですか?すいません、隣なだけなのに」
最初こそドギマギしていたが女性とは言え、大分男っぽい口調で来る言葉に応じている内に次第に勝手に抱いていたわだかまりは溶けて、いつしか回ってきた飲み物がお酒に変わっているのも気にせずに小声ながらわいわいと夜行列車でのひと時を僕は楽しむに至っていた。
どちらかと言えば僕が色々と尋ねられて答える、そうしたやり取りではあったがここ数日、ほぼ独りであちらこちらを歩き回っていたものだからこうして歓談出来るのは望外であったとしか言えない。
それ故にすっかり僕の心理を突いたとも言えるやり取りにすっかりはまって至った訳で、良い具合に酔いも回って流石にそろそろとなった頃、不意に手を掴まれた時はもうとても抵抗出来る余地はなかった。
「あ、あの…ちょっとこれは」
「良いから良いから、ほらすれ違った車掌も何も気にしてないから問題ない」
グイっと引っ張る力はとても強かった。最初に男と性別を間違えたのも仕方ないと改めて酔った頭で思いつつ、デッキまで連れてこられるとそのままカーテンで仕切られている洗面室に連れ込まれると、ぐっと顔を近づけられる。ふっと吐かれて吹きかけられる息は結構なまでにアルコール臭く、しかしその目鼻立ちの整った顔立ちにどこかドキッとしてる僕がいる。酔っている、それを差し引いても余計に心臓が高鳴るのを意識するほかなかった。
「ねぇ、君って純粋に人間?」
「は?あ、ええ…そうですね」
不思議な問いかけだった、酔っていても流石に何言ってるんだ、としか浮かばないそれを受けた女はまたジッと僕を凝視してくるからそのままに返せば、何時しか微笑みがそこには浮かんでいた。
「そうか、ふーん、じゃあ本当ならこの列車に乗っちゃいけないってヤツだね」
「え、乗っちゃいけない…?」
彼女の微笑みは少しばかり顔だちを崩す笑みへと変わっていた、そして耳元に囁きかける様に、いやそれ以上に僕がびくっとしたのは僕の耳を舐めるザラリとした感覚だろう。確実に舐められた、それは確実だった。
流石に酔いが醒めそうになったのは言うまでもなく、その場から反射的に逃げ出しかけた所を強く肩を掴まれて、それはもう指が体に食い込むほどに押し込まれて、とした方が正確な位にされたらまた言葉が紡がれる。
「まぁそんな予感はしていたからね、車掌はそこまで確認してはないし。だから声をかけて正解だった。ねぇ、君の名前は何だっけ」
「和昭、です」
「そうそう和昭だ、ねぇ和昭?この後も幾度も旅行を楽しめる日々を送りたい、それとも、まぁ必ずそうなるとは限らないんだけど、ここでこれから先も含めて旅が出来なくなりたい?」
「え、あ、ははぁ…そりゃこれからもしたいですよ」
名前を問われたに続く内容に僕はそのままに返していた、それまで心中に抱いていた言葉には出来ない思いはその時は面白い位に浮かばなかった。とにかく、何か不味い事が起きる、いやその只中にいるを察してしまったからの反応かも知れないが、それを聞いた女は幾らかうなずきを重ねるなり、大きく目を見開いてこう告げてくるのを僕はただ受け止めるしかなかった。
「じゃあさ、良い機会だから和昭、アンタは私に着いて来なさいよ。そうすれば度はこれから嫌と言う位に続けられる、それは保証してあげられる。なので、アンタもアタシと同じにしてあげる、なので今から人間やめさせてあげるね」
一人称が変わったと共に口調もより砕けた様になる彼女、言っている意味が分からなかったのも束の間、すぐに来た痛覚がそれを理解させてくれる。
「ヒッ…アえッ!?」
それは首に来た、その時には彼女の顔は僕の正面にはなかった。ただ視界の中にはあって頭髪が僕の体により密着している、そしてそう、その口、その歯は僕の首と肋骨の辺りに寄せられ、そして皮膚を破って食い込んでいたに違いない。
「あ、ああ…あぎ…ッ」
痛覚は幾らかの呼気の苦しさにより幾らか和らげられたがその異様な状況、つい先ほどまで飲み交わしていた女に咬まれているとの状況は変わらない。ただどうしてこうなったのか、どうなっているのか、その把握が不完全なのが幸いだったか、幾らか後ろに頭を垂らした僕はふと一筋の涙をこぼしていた。
ただいつの頃からだろう、痛覚が咬まれているのにもかかわらずほぼ感じなくなったのは。呼気の苦しさは幾らか残っていたが当初ほどではなく、ただ今は咬まれている箇所を起点として全身に強く血流が流れ、かつ熱が籠っていく、そちらに強く認識が変化していた。
「あう…ああ、一体、あ、しゃべ…んぎゃっ!?」
言葉を発せられる様になったのはそれからしばらくして、だった。その時には女は僕から口を離し、つまり咬み付くのをやめて少し距離を置いた具合で口元、つまり僕の血を洗面台に置いてある散り紙で拭きながらじっと見つめてくる。
その瞳はとてもきれいな青色であるのに気付けた、そして瞳孔も縦に割れている。僕もきっと同じなんだろうな、との実感が熱を帯びて先ほど以上にぼやけた脳みその中で認識出来る。だから思った、僕は今、彼女の姿をなぞっているのだと。そしてそれは違いのない事だった。
彼女の顔立ちが変わり出す、青い瞳はより丸い円らさがあるものに、しかしぐっと幾らか盛り上がった顎の内には鋭い牙、これが先ほど僕の首に刺さっていたのだなと思うと途端に身震いをしてしまえる。そして長い舌がちらりと、いかにもざらついた表面が垣間見えて耳を意識するなり、彼女の耳も同様に丸みを横に帯びた喇叭状のものへと変わる。
鼻と上唇が境目をなくして繋がった頃にはヒトの皮膚自体が消えつつあった、代わりに毛穴と言う毛穴から噴き出す様に濃密な量の毛が現れて覆いつくしていく。それらは全て縞模様だった、幾らか青みを帯びた黒の他は真っ白なのが彼女、そして僕は淡い黄色を多めに、そして顎下や首筋は白が優勢な勢いでそれこそ覆いつくし生えつくして行く時、ああ虎になるんだ、と確信を抱けた。
更なる身震い、冬服故に幾らか余裕があるのが幸いこそしたが明らかに大きくなった体格は生地に大分負担をかけているのは否めなかった。ただベルトだけは彼女が緩めてくれた、途端に尾骶骨から背筋にかけて突き上げられて抜けていく感覚が走る。それは長いトラの太い尾が生じたのを矢張り、写し鏡の様に魅せてくれる彼女を通じて僕は相変わらず認識していた。
そう考えると履いていた革靴は良く耐えたと思う、その分だけ爪先がきついとの感覚をしばらく抱かざるを得なかったのだが熱がすっと抜けた時には彼女に促されてみると鏡には2頭の、いやヒト型だからふたりの虎の姿が映っていた。それは白と黄の対の色合いであって前者の、いわゆる白虎たるのが彼女、そして後者の普通の虎が僕。ただどう言う訳だろう。
ただ胸には明らかに筋肉ではない膨らみが出来ているのもまた見える。それだけではない、そのサイズは白虎よりも幾分大きいのに戸惑っていると、すっと腕を取ってきた彼女はこうつぶやいた。
「あ、あなたはもう貴方じゃなくて貴女、だからね?アタシよりおっきいじゃない、良いわねー」
「え、これってつまり…おっぱい?」
「そうよ、やっぱアタシが強く咬みすぎちゃったかなー、男としての生活はちょっと厳しくなっちゃうけどサポートするから、ね?これからも旅を続けられる様に、さ」
やっぱり何が何だか分からない、そんな戸惑いを改めて抱きつつさて戻らなきゃ、とまた私は洗面室から外へと連れ出される。そしてまた戻りながらすれ違った車掌を見て驚いた、しげしげとこちらを見つめて来た彼の顔は少しばかり肉付きの良い人の顔ではなく、大きな太い鼻の目立つ猪のそれとなっていたのだから。
座席に戻った後、私は元いた席に座っていた。彼女は座席を挟んだ位置、とは言え最初と違い通路越しに歓談をしながらとにかく過ごしていた。
「さぁて来るわ、ちょっと静かにしましょう」
彼女がそう伝えて来た所で一気に列車が減速する、車窓を見れば真っ暗で街のあかりなぞ見えたものではない。そんな場所で止まろうとしているなんて、と感じた時に答えが出た。そう止まると同時に窓の外に白い駅名標が現れ、そこには「とうか」とだけ記されていた。
それは乗っているこの列車に通じるなのをふと意識した時、静かにデッキのドアが開く。そして乗り込んできたのは白装束に身を包んだ、矢張りその顔だとかは人ではない一団であった。
彼らはゆっくりと、そして座っている乗客がいればその顔をすっと覗き込むを繰り返していく。私の所にもやってきた、彼女に言われた通り怖じ気づく事無く、ただ前を見据えながら眼前に来た顔を何者かと見る。それは狐だった、白狐の金色の瞳と一瞬視線が重なるが特に何事もなかった様で離れていく。合わせて、一段の最後にいる白狐が何か帳面に記入しているのも見て取れた。
「ふぅ、これでヨシよ…要はこの列車、こういう臨時列車なのよね。なので知らずに乗ったヒトがいるとここで降ろされるのよ、貴方もああなるところだったんだから感謝しなさい?」
静かに、客車列車らしい走り出しを始めた車窓。そちらを言われて見やれば薄暗い中に先ほどの白狐の一団に取り囲まれる様にして、駅舎の外に連れていかれるヒトの姿があった。ただそれもすぐに見えなくなる、ああして連れて行かれた人々がどうなるのかは彼女も詳しくは知らない様だった。
「ま、貴女はこれで名実共にヒトの枠からアタシ達の枠に切り替わった、と言えるわね。よろしくね、和昭…ってその名前は女の虎になっちゃったのに似合わないわねー、どうしようか」
どうしようもこうしようも、との心地なのは相変わらずだった。ただ他の乗客も人でないのを車内を見渡して再認識すれば、どこかそれを受けいれてしまわないと、との気持ちが強まってきて居心地の悪さを覚えだしてしまえる。
本当ならヒトに出回るはずがない、ヒトの手に渡ってはならない切符を金券ショップの主人から受け取ってしまったが故の今。結果として僕は目的地の東崎に着けるだろうし、更に言えば家にも無事に帰れる。
しかしこうも変わってしまった姿を受けいれつつ、サポートするからとまた新たに用意したコップに酒を注いでくる白虎の姉様がこれからどうにかしてくれるでしょう、そう思うと何だか楽になって受け入れるつもりがより大きくなる。
窓越しに伝わってくる汽笛の音もどこかそれを促すかの様だった、くっと口に含んだ酒は先ほどよりもずっとおいしく感じられてしまったし、乳房の膨らみの内に抱ける疼く気持ちに気付けたのも、そしてそれは目の前に売ってきた姉様を見ればより強まるのを理解した途端、もう私はひとりの虎として成ったのを実感してしまえてならなかった。