「お帰りなさいませ、狐陽佐様。お久しゅう御座います。」
本家までの道のりはおよそ2日、最近はろくに運動していなかった事もあってか当初の内は早く着こうとする使いのペースにずっと合わせていた事もあって中々辛かったが、何時しか慣れてあと残りわずかと言う時には僕の方が先導している有様だった。そして辿り着いた本家、つまり幼い頃からのかなりの時間を過ごした故郷にまもなくと言う付近まで近付いて来た時には、その土地の匂いに何と昔の記憶を思い返されたもの・・・兄弟皆で遊んだ事、一人遊んだ事、そして色々と教えを受けた事等様々な記憶が回想されつつの到着となった。
少なくとも到着した時の感慨と言うものは記憶の回想にどこか浸っていたせいかそう強い物ではなかった。しかし自分の少しばかり薄くなった本家の自室に踏み込んだ時には、一気にその感慨は強くなり思わず意味もなく涙が出そうになってしまったのは不思議なものだと感じられる。矢張りこここそが僕が本来いるべき場所なのかもしれない・・・と感じつつ畳の上に寝転がる。
これは昔からの、子供の頃からの癖・・・落ち着く場所に入るとそのまま寝転がり丸くなるのだけは一向に変わらない僕らしさなのだろう。そんな折に昔から僕の相手をしてくれた使用人が挨拶に来たのもまた気恥ずかしく、そして余計に心が和んでしまったものであった。
「ああ・・・お久し振りです、お元気そうで何よりですね。」
「私こそ狐陽佐様がすっかり大人になっていられまして・・・ご無事が大変嬉しい限りでございます。」
「それは僕にも言える事ですから・・・ええ。」
僕は思わず髭を撫でつつ昔と変わらぬ、昔接していた時を思い出しながら言葉をかけた。この僕に幼い頃より尽くしてくれた使用人に対して軽く微笑みかけて・・・しかし使用人の態度は硬かった。昔の様な気軽さは中々その姿から見出す事が出来ない、むしろ硬さ、一種の緊張とも取れる明らかに僕とその使用人の間には見えないしかし明白な壁が存在していた。身分と言う名の硬く絶対の障壁がそこにはあった。
それに対して僕はどこと無く憤慨の気持ちを心に宿した、どうして昔の様ではないのかと言う疑問と共に。どうして昔の様に、つまり久方振りの出会いであるからこそと僕は昔の様に対応してもらいたい訳である。しかし使用人は頑なにそれを拒んだ、一度たりとも頭を上げずに平伏して耳を垂らして尻尾を垂らして・・・それには流石の僕も次第に不信感を強めずにはいられない。
加えてそれを助長するかの様に使用人は新たなる拒否を、そもそもどうしてここに僕が帰ってくる事になったのかと言う事すら旦那様、つまり父の命令故と言う事で明かしてくれないのだ。だから次第に僕はその気持ちの矛先を二股に、そしてより父に対して強めていく事になり・・・それは使用人が退出した後には余計に強くなり落ち着きを失っていったのだった
そして一昼夜が瞬く間に過ぎ早普段の住処を出立してから一週間、その頃になると尚も抱かれていたどうしてここに呼ばれたのかと言う気持ちは更に強くなり、今や不信感と言うよりも早くどうにかならないかと言うもどかしさに突き動かされている始末であった。傍目からすれば相変わらずただ落ち着きを無くしている様にしか見えないかもしれない、しかし内面では今や不安に満ち満ちていて当初の帰って来たばかりの頃の様な不信感の捌け口を求めてと言う意味での落ち着きの無さとは明らかに一線を画しているのだから。
しかしそれを余計に募らせようと言うかのごとく相変わらず尋ねる人全てが僕には何も教えてはくれない、いや知っているらしいのだが緘口令が敷かれているらしく口を噤んでしまっているのである。自分に関わる事であるのに知る事の出来ない悲しさ、そしてそれに伴う孤独感ほど辛い物は無かった。
どこかで気が狂ってしまうのではないかとすら感じられるその痛みに僕は何とか耐え・・・そして気が付けば10日が自然と経過し自然と耐える事にその頃になれば感覚は麻痺を来たし始めていた。もう分からなくても良いのだと言う諦め。もうこのままどうにかなるだろうと言う投げやり・・・そして抗する事は無理だという・・・何か。そしてその何かがすっかり霧の向こうから僕の心情に置いて見えかけたその時、ようやく事態は父からの呼び出しと言う形で動いた。それは出立してから12日目の夕方の事であった、その知らせを僕は大きく四つんばいで伸びをして迎えていた。
「父上、今回は一体・・・。」
「おお狐陽佐か・・・すまぬのう、長く待たせてしまって。いやはや月の日取りが上手く合わなくてな・・・ようやく合ったので呼べたのだよ。」
「日取り・・・どういう事です・・・?」
父の話す内容は、相変わらずの変わらない早口で少し聞き取りがたい口調から理解しがたいのはあったがそれは僅少。むしろその口から出る、自分と比べたら大分年を取っている事もあってやや艶に欠けた毛に覆われた中から出る言葉の中に含まれる幾つかの単語を理解し難かったのだった。その言葉の中に含まれる単語、それらはまるで・・・先日家を出たばかりの姉を連想させる様な単語が含まれていたのだから。
そう日取り、決してそれはある一つに限定された単語ではない。しかし狐陽佐の中には不思議と日取りと言う単語から連想されるのは先日、お嫁に出たばかり香葉姉様の事だけがぐるぐるとそれこそ渦を巻いて脳裏に浮かんで成らなかった。そんな僕を知ってか否かは分からない、ただ続けて出てきた父の口からの言葉は・・・僕の脳裏にあって止まない香葉姉様の婚礼の儀の事であったのだから、決して偶然ではないと言う思いだけは強くなっていった。