水銀の小瓶 冬風 狐作
 僕はそこが好きだった。それは学校にある、普通の教室よりも広い理科の実験室。その更に更に奥にある自分の狭い部屋の広さにも似た準備室だった。
 そしてそこにある冷蔵庫の中に入っている小さな小瓶が、その部屋に対する僕の思いをより強める事になる。それは銀色でに限りなく近いねずみ色に近い物質、小瓶の半ば以上をそれが占め残り上部は普通に水で充たされている、そんな具合に分離した存在。そしてたまらなくひんやりとしていた・・・あの瓶越しの感触。
 準備室に教師の許可無く立ち入るのはよろしくない事だったのだろう。しかし僕は立ち入っていた。教師に許可をもらって?いやそんな事は無く、ただ昼休みとかに皆の気が緩んでいる時にコッソリとその階へ回って、そして堂々と踏み込んでいたのである。だからこそこの様な展開、つまりそこを管理している教員と鉢合わせになると言う事は、予想こそしていたし何時かはなるもの、と覚悟していた。しかしまさかあの様な事になるとは思ってもいなかった。

「あの・・・先生」
 しかし実際にこうして相対すると思っていなかった感覚、いけない事をしていたとの事実の重みに僕は押しつぶされそうになった。それは放課後の一幕で、慣れた昼休みではなかったのもこうなった一因であったのだろう。
「全く、どうしてこんな所に?」
 教師の口調は決して攻め立てるとか、そう言うものではない。だからこそどこかで怖さを感じてしまう、そう相手の感情が見えないから、と言えるだろう。だからこそ僕は何を言うべきなのか、分かっているのに口から出なくなり噤んでは、相手を見つめて視線を泳がすのに逃げてしまうのだ。
 場所はあの理科の準備室である。何時も通りに入り込んでは、冷蔵庫の中から取り出した小瓶を手にしてのんびりとしていた矢先、不意に入って来た教師に見つかったのだった。手にしていた小瓶は冷蔵庫に戻せる隙などなく、かと言って手にしておくのも不味いので咄嗟にポケットにしまい、何とかやり過ごす。しかし入っていたと言う行為は消せるはずもない、だからこそこうして、立って向き合う形で質問を受けているのである。
 間が悪いのは、その教師は折りしも2時間前の授業の担当で休み時間に質問をしてやり取りを交わしていた、そんな相手であった事だろう。更に教師と言う傍ら、色々と外部で研究等に関わっていると言う、ただ教師と括れないそう言う相手でもあった。だからこそ気まずさに留まらない、何とも言えない感情を別に強く抱かざるを得なかった分、頭は硬直してしまってしまう。出来る事はと言えば懸命に、わずかな余裕の中で考えを巡らすしかなかった。
「それは・・・ちょっとまた質問したい事があって」
 しばらく黙り込んでいた僕がようやく口に出来た言葉がそれだった。つまり2時間前にしていた質問の続きがある、そう言えば良いのではないかと閃いて口にしたのだが、結果としてそれは悪くない選択肢であった様だった。
「昼間の質問かな?」
「そうです、ちょっとこのプリントの・・・」 
 僕は教師の返してきた言葉の流れに乗って傍らに投げ出しておいた鞄の中身を開く。そしてプリントを取り出すと二から三のまだ分からないと言う点を質問していく、幸いなのはそれが実際にまだしっかりと理解出来ていなかった事だろう。だから演じるのではなく、実際問題として分からない、そう言う形でやり取りを交わす事が出来たのだから。

 鉛筆が完全に止まるなり、僕は安堵の息と共に口を開いた。これで何とかなる、と思ったからだろう。
「ああ、つまりこれはこういう・・・わかりました、ありがとうございます」
「そうだな、そして・・・どうしてここにいたんだい?」
 だが完璧ではなかったのはその質問で求めるところが、あくまでも確認に近かったところだろう。つまり複雑な問題が分からないのではなく、ある程度分かっていてそれでも一部が分からない、分かっていても何故そうなるのか納得出来ない、と言う程度の一部の瑣末的な問題でしかなかったのである。よって思いの他早く、その質問は終わってしまった。
 そして足早に立ち去ろうとするのも不味かったのかもしれない、とにかくそれを押し止めん、と言わんばかりに返す教師の言葉、その半ば後半の部分が僕の動きにブレーキをかける、そしてその瞳は忘れたとは言わせない、と言外に漂わせる微笑すらも併せ持った不敵な輝きを漂わせていた。
「あとな、ポケットに何をしまった?出しなさい、持ち帰られると困るんだ」
「・・・あっはい、すいません」
 だがそれ以上に僕の気持ちに影響をもたらしたのは、先ほど咄嗟にポケットにしまった事を見ていた、と指摘された事だろう。流石にここまで言われると逆に気持ちがすっきりすると言えようか、僕は反射的に言葉を漏らして非を認める言葉を漏らして、ポケットから取り出しつつ言い繕う様に一言告げる。
「ちょっとこの冷たさが好きで・・・すいません」
 その言葉にしばらく教師は無言のままだった、傍らの机の上に僕が置いた小瓶をしばらく見つめてから、すっと視線を動かして冷蔵庫を見る。そして半分腰を上げて冷蔵庫の扉を開けて中を見てから口を開いた。
「ま・・・漏れなくてよかった、お前、その中身分かってたのか?」
「え、いや・・・水銀ではないのですか?」
「どうしてそう思った?」
 不思議な質問だ、そう感じたのが答えながら、そして尋ね返されながらの想いだった。教師ほどではないとしても一応の知識はあって、その情報と小瓶越しに感じる冷たさから来る印象とを結びつけると、恐らく水銀だろう、とは浮かんだからこそそう応えたにも関わらず、肯定されずに逆に質問を返される、その感覚は不思議であったし、ふとした困惑を気持ちの中に浮かばせずにはいられなかった。
 それを知ってか知らずか、教師はふと立ち上がるとそのままで待っている様に、の一言を残してその場から立ち去った。一体何が始まるのだろう、それがその時の気持ちであったろう。何時の間にか時間はかなり経過していた様で、先ほどまで窓越しに挿し込んでいた明かりは弱くなって部屋の中には薄っすらとした影が漂いだしている。それを晴らしたのは電気の光だった、そう部屋の中に戻ってきた教師が暗くなってきたな、の一言と共にスイッチを入れた事で部屋の中は再び明るさに包まれたのだった。

「待たせたね、まぁ実はこれ水銀じゃないんだよっと・・・食べられる物なんだ」
「え・・・こんな食べ物が?」
 僕はようやくの答え、その一部を聞いて混乱するしかなかった。水銀ではなく食べ物と言う一言は全く予想していなかった、故に信じられないという思いがあったからこそ、小瓶の周りに置かれたコップ、そして調味料入れは何に使うのかと関心を向けざるを得ない。
 教師の手はまず調味料入れの中から取り出した粉を幾らかコップの中へと入れていく。続いては小瓶の中身を、当然蓋は開けてその中に入れるとすっと混ぜて止まる。覗き込むとその中身は不思議な色合いをしていた、何と言うのだろう、まず印象は濃い、言うなれば抹茶に近い。しかし色は緑色ではなくて真っ白で、それはどこか不気味なほど白かった。
「まっ飲み物に近いかもしれないが・・・んっ」
 何時の間にかコップは2つになっていた、そしてそのもう一方に先に教師が口をつけ、一息にゴクリと飲み干すのをのどの動きから見る。そうなると僕の手は自然とコップに伸びていた、掴んだ感触は変わらずの冷たさ。まるで飲んだらお腹をどうかしてしまうのではないか、そう思えるほどの重い冷たさで、小瓶の中に納まっていた時よりもずっとそれがある。
 そして口へと持っていく、何故かそうしなくてはいけないと言われてしまったかの様な気分になって、ごくりと喉の奥へ流し込んだ。全てまるで分かっている、そんな気分も合わせての結果だった。
「飲んだか、どうだ?」
「はい・・・ん、豆乳みたい」
「はは、豆乳か。まぁ確かにそうかもしれないが・・・説明も聞かずに飲んでしまっちゃ駄目だぞ?」
「あ・・・すいません、でも不味くはなかったです」
 不味くはなかった、それは確かだったからこそ僕は返す。しかしそれは全く的外れであったらしい、苦笑した教師は鍵は全部かけてある、と一言言うなり、再びはっきりと口を開く。
  「そうか・・・まぁ勝手に立ち入った以上、駄目な以上、罰は与えなくてはね。しばらく時間を頂く事になるよ」
 僕は抵抗なくうなずいた。確かにここは生徒が勝手に入っていい場所ではない、それが改めて分かっていたからだろう。だがその素直な気持ちは次の教師の言葉で、ある意味打ち砕かれ、そして事態に僕は気が付かされる事になる。ただ説教されるとか、そう言う事で留まらない展開を身を以って知る事になるのだ。

「・・・もう言葉が喋れないのかい?さっき飲んだ効果がもう出たのかな」
「・・・く・・・う・・・くううっ!?」
 言われてハッとなって気付く、きっと言われなかったら僕はそのまま受け入れていたであろう現実に、僕は気付かされてそして喉に手をやった。声が出ないのだ、そう言葉として出て来ないのだ。ただうなり声と言うか鳴き声と言うか、それが喉の奥から搾り出される、そう言う感じなのである。
「確か君は寮生だね?じゃあしばらくそれでも問題ないな」
「くう・・・!?きゅうう・・・っ」
「あれは薬なんだよ、水銀にそっくりなんだけど・・・まぁ私が頼まれて保管していた物だけど、こうして使ってしまっても良いと言われていたからね。どうだい?体がどこか窮屈じゃないか・・・?」
 呻きつつ言われた事は理解できる、だからこそ思っている事、書き表せないほどの多くの疑問等が体の中で爆ぜて行く様だった。故に体の節々が痛かった、それはどこか縮んでいく、と言える具合で吹くが次第に体に纏わりついてくるのだ。
「うんうん、効いてるようだねぇ・・・まさかこんな所にそんな薬が置いてあるとは大抵思わないだろう、と言う事で預けられたがこう言う風に生徒が触れてしまう可能性は、ちょっと考慮してなかったな」
 他人事の様に話す、普段から見慣れた教師の顔はどこか違っていた。ふとした影を持った顔と言えようか、あの親しみのある笑顔はどこへ消えたのか、と言う様で熱血気質と言うよりも冷徹との印象が強く伝わってくる。だが観察する余裕はそれまでだった、急に姿勢ががくんと下に落ちる、それと共に足と腕、特にその付け根や肘に膝、そして踵が強い痛みに塗れ始めるのだからもうどうにもならない。
 足は明らかに縮んでいた、腕もそうだった。だから制服がだぼっと体を包みだして体がその中に沈んでいく、と言えるだろう。そしてもがけばもがくほど、包むからまとわるへと服は単なる障害物へと変わっていく。そうもう腕と足に留まらず体自体が縮みだしている、それを感じずにはいられない。
「・・・何を思っているのかは分かりませんが、少なくとも今、私は君に対して生徒としては見ていません。あくまでも研究者として、あの薬を飲んだ人間がどうなるのか、聞かされた理論が現実のものとなる場面を見ているだけです」
「きゃうう・・・わう・・・をあう・・・っ」
 ただ言葉だけは不思議とはっきりと、今までにも増して明快に聞き取れてしまう。疑問こそ感じれど服の中でもがいている以上、はっきりと見通せないから分からない。ただ痛みが顔や首にも回ってきたのは明らかで、口の中、そう歯が激しく痛む。その根元の骨と一体になって伸びていくかの如き痛みにますます苛まれていく。
「ぎゃう・・・う・・・きゅう・・・く・・・っ」
 声はもう人の物と思えない、うめき声と言っても人がここまで、自然と流れる様に出せるものではないだろう。その頃には何故か、尻の上の辺りにある服が邪魔で仕方なかった。何かとぶつかっている、その何かの上にのっかっている服が邪魔で仕方なかった。そしてそれさえなくなれば僕はそう、気持ちを明確に表せると何故か感じながらもがいていると、不意に抵抗がなくなった。
 そう服がなくなったのだ、それも全身を最早包み込む布切れと化していたそれは、次第に取り除かれて外気と完全に全身が触れる様になって・・・次の瞬間、僕は抱えあげられていた。

「ふうん、犬か、君は」
「きゅうん・・・わうんっ」
 教師の両手に抱え込まれる様にして抱かれているのは1匹の犬だった、やや鈍い銀色の毛並をした、中型の子犬を少し大きくした程度で、ぴんとした三角耳とやや丸まり気味の耳がその腕の中から漏れている。
 犬であるから顔にはマズルがある、だから歯とその根元の骨に感じた痛みと言うのは、そのマズルの形成による痛みの1つで単なる歯から歯牙へと変わる流れの一部であったのだ。円らな瞳と化した目は黒く、じっと抱いている人間の顔を見上げている。尻尾すら振っているその姿はまるで、その教師が連れ込んだかの如くで建物の中と言うのを除けば、そう見て誰しもが思い納得する光景であったろう。
 しかしその足元に目を転じると布切れ、もとい乱雑に丸められた衣服が見える。そして良く観察するとそれはブレザーの制服で、縫い付けられたワッペンがこの学校の物である事を示している。そう僕の制服なのだ、しかし当の僕の姿はどこにもない。ただいるのは教師と犬、その犬が「僕」である。
「きゃうんっ」
「・・・まぁ取り敢えず私も初めて見たからね、本当にあの薬を飲んだ結果は。とにかく連れて帰ろう・・・」
 鳴声に教師はそう言葉を返す、表情には先ほどの冷徹一辺倒からはやや遠ざかった緩んだものが漂っている。
「連れ帰って、預けてきたあいつに連絡しないとな・・・生徒が間違って飲んでしまって犬になってしまったぞ、と」
 犬の首筋を撫でながらふっと呟く顔には更に新たな表情が浮かんでいた、それは苦笑と困惑の色合い。ついつい冷静さを欠いてしまった自分に対して浮かべるものであった。
   「実のところ私は戻し方は知らないからね。明日からのしばらくの休みの間で解決しないと不味いな、純粋な実験材料でないのだからこの犬は・・・いかんね、ついつい夢中になり過ぎた。ちなみに私が飲んだのはあくまでも単なる水だったんだな、これが」
 それは教師と研究者と言う2つの顔から出た言葉。まずはとにかくどうであれこの犬を生徒の姿に戻さなくてはいけない、生徒なのだから、と言うこの場における立場上の思いがあろう。そして自らのした行動の真実を伝える事で少しでも、内面的な罪滅ぼしをしよう、と言うものであろうか。いわば自責の一種ではあろう。
 だが別にあるのは自らの関わっている研究、人と動物の壁を乗り越えさせる、その内容をより知らなくてはと言う、一種の生真面目さかも知れない。とにかくそれ等を浮かべて時計を見やる背後の窓の外はすっかり暗くなっていて、もう静けさを通じてこの学校と言う空間に殆ど人がいない事を示していた。それは後者の顔を余り晒したくない、その教師にとっては好都合であった、と言わざるを得ない。
 その中でふと微笑んでしばし、犬となった「僕」は教師の思いや事情も知らないで、ただの犬として反応を示すだけ。とても楽で落ち着いているその瞬間も含めて、犬としての意識しかしばらく「僕」にないのもまた確実なのだった。


 完
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