素直な願望 冬風 狐作
「あのー。」
「はい。」
「このチラシ見てやってきたんですが・・・ここで良いんですか・・・?」
 冬にしては暖かい日の午後、ふと学校の廊下に丸められて落ちていたチラシを拾った僕が向かった先は数駅離れた駅前にある雑居ビル。その当時としてもその手のビルにしては珍しかった管理人室に腰掛けていたおばさんに見せると、眼鏡を軽く上げてすぐにどこどこと口にする。どうやらこのビルで正しかったようだ、そして僕はそのチラシを再び手にすると軽く一例をして階段を上り・・・ビルの中へと姿を消した。

「お疲れ様です、先生。」
「ああ君こそお疲れ様、今日もありがとう・・・そしてこれから明々後日まではオフだね?」
「はい、その通りです。今から明々後日の午後18時までオフとなっています。」
 都心から程遠くも近くも無い郊外とも言える位置にある人工島、そこに立つ高層マンションの地下駐車場・・・いわゆる富裕層が住まう事で知られるマンションであるが故に警備は厳しくそこら中に監視カメラの目が行き届き、入口には守衛も詰めている事もあって盗難等の被害は無い安全な駐車場には、余裕を持った個々のスペースに数々の名立たる高級車が並んでいる。
 そしてそこに響く声と足音、そして気配。やや暗めのジャケットを着た比較的痩身の男が、秘書か何かと思われる人影と共にエレベーターホールに向けて歩を進めていた。話の内容からするにどうやらこれから数日、その先生と呼ばれた男は久しぶりの休暇に浸る様であった。恐らくそれは誰にも邪魔されたくないのだろう、幾度と無く男は秘書と思しき相手に対して幾度と無く余程の事以外では決して邪魔をしない様に・・・と言い渡しつつエレベーターに共に乗り込む。
   そしてエレベーターはその高層マンションの最上階にまで達し1人を吐き出す、秘書の影はエレベーター内にも無い事から途中で分かれたのだろう。カバンを提げて自室の鍵を開け中に入りしっかりと鍵が閉まっている事を確認した後に、彼は大きく息を吐いてカバンを投げ出し服を緩める。ジャケットを脱ぎベルトを緩め・・・それまでのお洒落でピリッとした格好には無い余裕ある、少なくとも公の場では出来ない緩々の格好そして気持ちになってソファーに身を預けては海を挟んで対岸の夜景に視線を送るのだった。

 次に彼が行動を起こしたのは・・・数十分、そうしてぼんやりとしてからだった。常に分単位でのスケジュールに追われている反動からだろうか、普通の人であればしない様なこの様な時間の過ごし方が何とも至福でたまらなかった。彼は1人暮らし・・・別に恋人もいなければ親族は皆、ここから遠くはなれた田舎にいるので正真正銘の独り暮らしであった。
 それに余計な雑音・・・この折角の休暇を邪魔されない様に入念な準備もしてある、だから久々の独りである孤独な静かな休暇が楽しめるのはもう自明の理。だからこそそれが分かっているからこそ何も慌てず静かにその序章に浸っていたと言う訳だ、そして服を脱ぎ捨てて・・・浴室にて身を清める。たっぷりと貯めておいた熱い湯に浸かる快感もまた格別、なるだけこの様にする様心掛けているが叶わない事が多い仕事柄だからこその格別感なのだろう。そして大きく息を吐く・・・まだ三十路も入ったばかりと言うのにその息だけは、人生の修羅場を幾つも潜り抜けた老練な気配すら漂っていた。
 そうして風呂を出て体を吹いてそのまま・・・部屋の中は適度に温められているからこのままでいても構わないのだが、一応腰巻タオルのスタイルでリビングを横切り寝室。そのクローゼットの中にしまってある物を、やや部屋に対して不釣合いな古さをした薄い箱を取り出しその中身を表へとつかみ出す。
 掴み出された物は白い折り畳まれた布の様な物、布にしてはあの柔らかさが無いので材質が異なるそれをベッドの上に広げ心底嬉しそうに笑みをたたえ・・・その中へと頭から体を沈めていく。白い人型をした着物、全身を包み込み覆い隠すそれに彼は進んで身を投じて横たわる。彼はそこにいる、しかしそこにはいない。いるのは人の形と厚みをした白いスウツ、その中に隠れた存在などいないと言う様に静かに横たわっている存在だけがあった。
"ふふ・・・これで後は・・・あの日以来の通りだ・・・。"
 そう思うと彼は無心となる、これはもうあの冬の日にチラシを見て訪ねて行った場所にて出会って以来の手馴れた儀式の一環・・・心を無にして閉じられた瞳。それは外から分からない、全て内からしかわからない。動きはなくして呼吸すら怪しい時間の経過は・・・どれほどなのかもわからない。
 そうこうしている内に体に熱が・・・動いてもいないと言うのに熱が生じ蓄えられる、それは脂汗、汗を呼びスウツの生地に付着吸収されて皮膚と密着する。スウツに生じたわずかな変化は止まる所は無い、むしろ始まりの始まりに過ぎないのだから。軽い快感とも違和感とも・・・全身にて白いスウツ地が、要所において窪み盛り上がり滑らかになり飛び出るなどした変形した形に沿って覆う様になろうとも。それが幾つもの・・・黄にこげ茶、黒に黄土と色に染まろうと始まりは始まり、ただあるべき終わりに向かうだけなのだから。

「ぐぅ・・・。」
"ん・・・。"
 彼の意識の再覚醒と呻き声はほぼ同一だった、声色の変わったその声をその後も度々漏らしつつ彼はその身を軽く揺さぶって丸くなってまた静かになる。
"ああ夜だ・・・まだ眠れる・・・。"
 大欠伸、その逞しい何者でも敵いそうに無い太さと頑強さを漂わせた嘴を開かせて空気を喰らうと・・・どこかクリッとした眼を閉じて再び眠りに落ちる。その時に尻尾で軽くシーツを叩くのはご愛嬌、腰より下の獅子の足にその尻尾、そして腰より上の鷲の胴に顔・・・禽獣の王たる姿となって彼は惰眠を貪る。風格ある雰囲気の中に・・・。

「坊やは何を願う?」
「・・・お金、そしてセンスと名誉が欲しい・・・そうすればなんでも出来るから。」
「素直な子だよ・・・良し。」
 あの冬の日、そう僕は問いに返した。相手は特段驚かなかった・・・いやそれよりも淡々としてその様な答えなのに褒めて返してきたのが、意外で余りの反応の素っ気無さにこちらが驚いたほどだった。でもそれの様な反応を、どう思うところがあろうと無かろうと何も考え無しに来た僕が素直にその場ですぐに浮かんだ事なのだから仕方が無かった。
 それ以上に僕は、その後の展開が分からない方が怖かったのではなかっただろうか・・・恐らくそうだったのだろう。だからそうも素っ気無く直球で返せたのかもしれない。僕・・・彼はそう振り返って思っていた。


 完
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