神無月の杜・第一章終編 冬風 狐作
 それは暖かさ・・・暗闇の中にじんわりと染み入る暖かさ・・・気がつけばそれだけを感じていた。その内に新たな感覚は段々と増えて重なっていく、くすぐったさ、ざらつき、ふとした匂い・・・吐息の気配。
「ん・・・。」
 覚醒・・・吐息をきっかけとして全てが目を覚まし、その勢いはまず表に示された小さな呻き声に示された通りに穏やかなものであった。そして目蓋を開くと目の前にはふさふさとした穏やかな黄色と白の獣毛に包まれた口が開き、その中から伸びた赤い舌が小刻みに動き自らの頬を湿らせていて・・・不意に動きを止めて離れる。そして離れたそれの形は狐の顔、その中の普段は細く閉じられている瞳が開かれ琥珀色の眼がじっとこちらを見ていた。
「よぉ・・・目が覚めたか、俺だよ。覚えてるだろ?」
 気さくな口調で親しげに言葉を発する狐、しかし思わず顔をしかめると彼女はやや厳しめの口調で言葉を返した。
「あなた・・・何でいるのよ・・・。」
「何でって言われてもなぁ・・・勘違いしている様だが俺が来たんじゃないぞ、お前が来たんだからな。だから間違えるなよ?」
「え・・・私が来たなんてある訳ないじゃないの、私は家に・・・家、あれ・・・。」
 いきなり言われた事にわずかに面食らいそして否定をかける筈だった、しかし不意に自らへの違和感が浮かびそして記憶が戻る。脳裏に示された記憶は今、口にしようとした反論とそれの元となった認識とに完全に反しているばかりか新たな事実を突きつけてくる。
 暗闇の中を帰宅する彼女の姿、不意に感じた違和感、それを確かめようと体を動かし・・・悲鳴と言う流れを。それに纏われた強い現実感には否定出来る素地が全く無かった、淡々として強烈かつリアルな記憶は静かに彼女の言葉を封じ締め上げ息を詰まらせた。そして押し黙ったのを見計らって狐は再び口を開き言葉を吐く。
「ああそうだ・・・くく、面白い奴だよ。お前は帰ってない・・・しかし帰ってきた、どこだかわかるかここが?」
「・・・あなたの家・・・?」
「ご名答、まっ家なんて上品なもんじゃねぇ・・・巣だな巣、家と言う言葉は俺のご主人に対して使うべきだろうよ。」
 彼女の答えに満足げに肯いてにやにやとしつつ事実を告げていく、そして軽く首を横に震わせると軽く息を吐き擦り寄ってきた。
「種明かしをしていけば要は俺は飼われている訳だな、格好つければ養われていると言う事さ。そしてご主人は今は留守している・・・まぁ毎年の事だから慣れてるとは言え・・・。」
「慣れているとは言え・・・?」
「寂しいな、一人で一月もここにいなくちゃならないのはさ・・・。」
 言葉を区切り再び発せられた言葉は少しトーンの下がった低いものだった。表情もどこか冴えず深刻そうでそれで見つめられては共感をそのまま抱かずにはとてもいられない、引き込まれるようにぶすっとしたやや不機嫌気味で固まっていた表情は、相手を思い図らんとしようと試みる思慮深さを滲ませた表情に切り替わる。しばし見詰め合う2人、深刻に見開かれた瞳を細く閉じると狐は・・・思い出したかのように口を開きその場に動きをもたらした。
「それで・・・その事を今回行く前にご主人に言ったのさ・・・。」
「寂しい・・・ってね?」
「ああそうだ、お前に言うような感じで言うとご主人は・・・。」
 そう言いながら更に接近する狐、細い狐らしい顔のまま余計に体を近づけて密着すれすれまで・・・。
「撫でてこう言ってくれたのよ・・・。」
  「ん・・・。」
 相槌と共に再び漏れる彼女のかすかな言葉、それは狐が彼女の鼻先を愛しげに舐めた事によるものだった。
「仲間を作れ・・・妻を娶れ・・・ってね。」
「ふぁ・・・ん・・・んぅ・・・。」
 鼻から頬、そして顔全体に舌が広がり・・・口が絡められる。それは少し上等な積み木細工を組むように口と口とをしっかりと結合させて、その中にて狐は舌を絡めてきた。不思議とその行為を疑問に思わず・・・特に異種である筈の互いの口同士がしっかりと組み合わさっている事には疑問を大いに挟んでもよさそうだと言うのに、挟む以前に全く浮かばせないで受け入れ舌を絡める。
 思考は停止し目はぼんやりとして細く、瞳の視線の焦点はやや暈けて明確にはない。そして目を狐の如く細めきったその顔はまた狐・・・いや完全なる狐、長めのマズル、三角耳そして二色の色合いと髭が何よりの証明であろう。そう彼女は狐と化していた、但し骨格の形は人のまま・・・狐の顔を持った人とそのままの狐は静かに、じんわりとその場で舌を絡め合わせてそのまま夢中に耽り楽しむ。何時の間にか自然にと・・・その過程に人として彼女が違和感を挟む様は全くなかった。

「ん・・・そう言う訳だ・・・姿はもう・・・。」
 しばし口同士を絡め合わせ外す・・・幾筋かの唾液の筋を見せて切れると狐は再び言葉を出した。それに対して彼女は静かにぼうっと熟れた瞳をぶつけて首を縦に振る。
「姿は・・・良い、何たって俺の一部を分けたんだ・・・次は中身だ・・・なぁ?」
「は・・・い・・・。」
 その反応に軽く口を歪ませると狐は密着していた体を外し・・・更に離れた所へ小走りで移る。それを彼女は見つめているだけ、そうじっとどこか浮ついた気配で無機質なカメラの様に見つめているだけだった。狐も心得ているのか反応などをうかがう素振りは全く見せない。それでも一応軽く首を上げて見つめると目を如何にも細くして軽く跳ね・・・一回点の宙返りをして着地するとその姿は、人の背格好にて載る頭に狐の全身の狐色の獣毛にふっさりとした二尾の尻尾と獣脚。
 言わばそれは彼女の今の姿である、狐人と言える姿で違いは牡であるか牝であるか・・・何よりも着衣なり身に纏っている物の有無だろう。彼女は何も纏っていない、全裸である。対してこちらの狐人・・・彼はいささか古風な着衣を、狩衣に立ち烏帽子と言う時代劇の中から飛び出でて来た様な姿をしているのがまた別であった。そして軽く腰に手をやると大きく欠伸をして体を震わせ、着衣の乱れを直すのだった。
「ふぅ・・・ようやくこの姿になる事が出来たもの。平家に味方したが故に討伐の逆賊とされ逃げた果てにご主人に助けられ、ふと気がつけば幾星霜。見知らぬ世、人であった姿を忘れども俺は俺・・・神使の畜獣となれどもふと思い出されるは愛しき遠くの妻子の姿・・・この気持ちお前にも分かるであろう?」
 揚々と述べ上げると彼は大きく息を吐き再び、何かを込めたやや哀愁すらも感じられる瞳にて見つめてくる。彼の言葉に溶かされたのか、意思のない無機質な彼女の瞳はそこにはなくむしろその意味を・・・彼の真摯かつ真剣な思いを汲み取ったと示すかのごとく、本来的で更には細やかな輝きを内包していた。
「わかるわよ、それは・・・でも私にだって・・・。」
 彼女は彼の言葉を飲み込み噛み砕きつつ反駁する、心には両親、祖父母そして兄と妹の事を思い浮かべて自分にも大切な、自分を必要とし自分が必要としている存在がいる事を訴えようと。だが彼はその全てを一言として余さず聞き入れるとやや醒めた瞳を差し向ける。背筋に冷たい一撃でも入れられた・・・そんな勢いで肝が締め上げられるようであった。
「しかしそれは・・・お前が選んでそこに来たのではないだろう?確かに両親、祖父母そして兄はお前の誕生を望み心待ちとしていたろう。だがお前は・・・お前はどうなのだ?お前は望んでそこに生まれ出でたのか?物心ついた時にはそこに全てがあってそれに沿っていた・・・ただそれだけではないのか?」
「そ・・・そんなこと、無いわよ。それは確かに、私がどの親の元に生まれようとか考えた記憶はないわ・・・あなたの言う通りに物心ついた時にはいたのそれよ。でもね・・・例えそれが偶然の結果としても互いに望んだから・・・と思いたい、互いに記憶が無い・・・記憶云々のレベルじゃない段階の何かによって引き付けられた・・・と。」
 彼の言葉は全くもって彼女には心外な、それでいてどこかかすかに否定し難い・・・これまでの人生の片隅でふと思ったと言う事実は決して消せない羅列だった。しかしそれを彼女は強く否定したかった、いや否定せねばと考えた。何故ならそれを飲み肯定することは、これまでここまで育ててくれた周囲・・・特に両親を筆頭とした身内の者を否定する事になるからだ。
 正確に言えばそれに要した労力を否定・・・と言う事になるのだろうが、その労力を第一に自分に投入してくれたのは紛れもない身内である。だから2つは密接に絡み合う1つであり決して2つには分け隔てられない。良く親しい友人から古風な発想の持ち主だと評される彼女にとって、そう認識するのが至極まともで相当であり、故に彼のドライとも言える言い様には腹が立ち、そしてどこか同調しようとする自らの気持ちの一部に対して示しを付ける為にも反駁を加えた次第であった。
 だが彼がその程度の反駁でどうとなる訳がないのも薄々感じていた事である。何せ相手はこの世に生を受けて18年になるかなるまいかと言う彼女の10倍・・・いや50倍もの年月を生きていると言う、かつては人であって今は人ではない存在。そしてその孤独を、自らの判断の結果として永遠の別離となった妻子に対する強い思いと渇きを満たそうとする気持ちはそれは強烈だった。
 良くぞ力技で議論の最中に返さないものだと感心出来る、その強い自制心と言うマントルの下にある猛るマグマ・・・それを感じ取れず読み取れなかったのが彼女の最大の敗因なのだろう。そして動揺がそれに煽りを加えて・・・言い合う内に次第に彼女の論点は混乱し始め口数が減り、終いには口を噤む様になる。

 狐はそれを見てますます容赦なく言葉をぶつけて彼女を切り取っていった、弱い部分から着々と切り取っていたのだが・・・ふとペースが乱れ始め同調し始める。計算していたのかは分からない、とにかく彼女の混乱へ・・・そしてそれを落ち着かせようとでもするように。
「とにかく・・・俺はお前が欲しい、かつての妻の如くいやそれ以上にお前を・・・望む。たださびしいからと言うではない何かを・・・強く感じ得てならない・・・。」
「何かを・・・感じる・・・。」
「そうだ、そのこうも・・・お前を苦しめさせて申し訳ない、だが・・・俺は・・・そうしなくてはいられないのだ、引き止めておきたいのだ。一緒に・・・何時までもずっと・・・。」
   ただの数回のやりとり・・・それで2人はどちらが上なのか、順序は狂って乱れ違う。しんみりしている彼に落ち着いた彼女、しんみりとしている様に見えて混乱していた彼女と得意げに、そして効果を狙い言葉を選びつつ霰の如くぶつけていた彼の関係はもう見出せない。
 当然彼女は翻弄される。何せあれほど彼女の反駁に対して事細かに・・・神経が参りそうなまでに一つ一つ潰しをかけてきた彼が今や彼女に、言い方を悪くすれば擦り寄るが如く伺い立ててきているのだから。滑稽とも言えば滑稽で奇妙とも言えば奇妙で・・・複雑な思いが交錯し、新たな混乱がわずかに起きる。
 彼を信じようか信じまいか・・・それとも何も反応しないでおこうか、と。とは言え最後の意地悪な思いは空花、すぐに刈り取られ残るは2つの前者のみ。そしてわずかな迷いの末に選んだのは前者の中の前者、彼を信じる事にしたのだ。もうああも苦しめられたやり取りはどうでも良くなっていた、しかしそれは臭い物に蓋をするという意味で曖昧にしているのではない。
 むしろああも言うまでに互いに望まれそれを仲立ちとして共に生きる存在を欲する、ある意味で実直な・・・それを素直に口に出来ない不器用でひん曲がった彼を元に戻してみよう。そう言う意気な気持ちで決心したのだ、それは彼女なりの意地悪な一面も否定は出来ない。しかし彼を満たしつつ自らも満たす・・・乗りかかった船、招かれた船から無理して下りるのも無粋なのならばそれでは・・・と言う事だった。
「キャウゥーン。」
「・・・ギャウゥーン。」
 いきなりそう鳴いた彼女に彼は思わず面食らったような顔をするもすぐに鳴き返した。狐人の口から漏れる狐の鳴き声、狐であるからして当然なのだがだからと言って言って捨てる事は出来ない独特の気配。しばしそうして鳴きあった2人、その毛並みと彼の着衣が乱してじゃれ合うのはまもなくの事だった。

「おや・・・はてはてこの黄色の包みは・・・?」
 数日後・・・霜の降った日もまだ昇る直前の境内の参道。不意に現れた気配がそれを拾い上げその表面に黒字と赤字で印字された文字を読み上げる。
「せんたぁしけん・・・とな、ほう菅公の言っておられた人の子に関わるものじゃの・・・。」
 朱色の鳥居の続く中、黄の包みを手にした影は納得した様に呟き歩を進め・・・またも首を縦に振り納得してみせる。拝殿の前、その影を待ち受けるように座った二尾の狐を・・・白く純白にて幾つかの朱をその表面に映えさせた2匹の狐を見てうなずき、口元を微笑ませる。早速一つの取り決めが形となった事を知って。
 霜降る境内、草の中には壊れた自転車が枯れて沈み・・・年は着実に変わり目へ向けて歩んでいた。 続 



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