それから100年前後の経過したある秋の日、同じ村の同じ駅に1人の少年の姿があった。その少年は夕暮れの駅舎に何処からとも無く現れ見上げては思わずため息を漏らす、腕時計を見ると時間は17時を本当にわずかに回ったところ。駅舎の中に掲げられた時刻表には1700の文字が、そしてその後に続く数字は2127と大きな開きがある事が分かる。
振り返った先には駅舎からまっすぐ続く道とその左右にある幾つかの木造家屋―とは言えそれらには生気が無い、そもそもこの駅前に広がる集落全体に活気というものが全く見当たらないのだから。それもその筈、もうこの駅前の家々は放棄されて久しいのだから、最後の住人がこの集落から「車」で立ち去ったのはもう前世紀の事。
急激な過疎化と農業衰退は容赦なくこの集落を襲いモータリゼーションの波と共に鉄道の客を奪った、結果民営化された鉄道会社は大幅に本数を削減し利便性は大いに低下。それが更なる、そう、悪循環の結果がこの惨状であった、もうこの集落は駅があるからこそ地図に載っているものの、駅が無くなれば地図からも消えてすっかり忘れ去られるのは避けられえない。しかしそうなる可能性は全く否定出来ずむしろ強いとも言えた、何故なら累積する赤字の多さに鉄道会社がこの地域の自治体に廃線を打診している事が数年前に新聞記事となったからである。
以来毎年の様に存廃論議が新聞を賑わせ様々な立場の意見が表明される。会社側は沿線自治体の動向が固まった上で存続の可否を決めるとしているので、無駄に議論が長引かされているのは決して否定出来ない。そんな不安定な中で今年も存続したこの路線、この光景が来年も目に出来るとは決して分からない。今のところは来年も何とかと見られているが、もう数年来の議論であるので痺れを切らした会社側が廃止届を提出しないとも限らないし、何よりもひょんな事をきっかけに議論が廃止の方向で固まる可能性すらある。故に全く予断を許さない、それが事実だった。
そしてこの少年、彼は世間的には鉄道マニアと言われている趣味を持つ者である。彼はこの路線の起点、つまりは山の向こうの都市に住み、鉄道雑誌でその様な記事を見て以来と言うもの季節の折を見てはカメラ片手に沿線に撮影に歩いていた。
そして今日はこの駅から最も近いトンネル付近で昼過ぎから撮影をし、その後ダイヤに大分空きがあることから線路付け替えにより廃止となった廃隧道を探索、そして夕焼けの中の野原―かつては田圃であった土地の中を走る気動車を撮影し、全速力で走った。そう列車に乗り遅れまいと駅へ向かって、そう彼の撮影した夕焼けの中を行く列車とは彼が帰りに乗る予定の列車なのだから。
乗る列車を駅以外の所で撮っていながら乗れるのだろうか?そう疑念を抱かれたかもしれない。これは種明かしをするとその列車はこの駅にて対向列車と行き違いの為に10分停車し、撮影地点から駅までは走れば5分と言う時間と位置の関係があったからである。とは言えその撮影地点から駅までの時間の根拠はかつて彼自身が走った事によるもので、それも回数は少なくただ1回のみ。
ましてや季節も秋と言うならまだしもそれは真夏の好天の時、無風で軽装と何の障害もなかった時。だからこそ今回も間に合うとは限らなかった、当然それは彼も薄々承知はしていたものの敢えて考えず必ずや間に合うとしてした次第なのだ。だからこそ信じていた余り、その疑念に打ち勝とうとでもしようかと彼は走りに走りとにかく駅へ突き進んだ。乾ききってひび割れたアスファルトを蹴って駅へ向かって駆けていく。
だが今日は強い向かい風に加えて、薄いシャツにズボンと言う最高の軽装であった夏よりも着込んでいるのが、足を動かす上での大きな抵抗だった。その様な不利な状況の中、彼が幾ら思いを強くして間に合おうと努めても状況が見方をしない以上、最良の状態で5分との時間は到底達成出来ないとして良いだろう。
そしてそれはそのまま形となった、駅まで懸命に走ってかかった所要時間は9分。廃隧道探索の為に重装備で来たのが最大の障害となったのは否めず、わずか1分のタッチの差で気動車は非常にも大きく身震いをして出発して行ったのだった。
「乗り遅れた…はぁっ」
大きく肩で息をしつつ無人駅の改札を抜け、ホームで呆然と残り香を鼻で嗅ぎながら消えていく気動車の影とテールライトをそう呟いて見送る、それだけが出来る事であった。
「次は4時間半後かよ…参ったなぁ」
ようやく息も落ち着いたところで電灯もつかずただ暗闇だけが拡大する駅舎の、土間を思わせる様な待合室、そこの時刻表を見つめながら少年はそう口にした。外はすっかり夜の帳が全てを包み終えようとしており、頼りない哀愁すら感じられる豆電球の簡易な傘だけの明かりが、ホームの木柱の上からホームとレールを照らしている以外にろくな明かりは無い。
当然公衆電話は撤去された後があるだけだが、携帯の電波が無意味にも3本立っていたので乗り遅れ帰宅が遅くなる事だけは家に伝えてある。軽く小言を言われたが連絡をせずに最寄り駅についてから連絡するよりはずっと傷が浅いだろう、そう考えるとどこか気持ちが楽になり軽く息を吐く。そして暗闇に包まれつつある駅舎を出て頼りない文明の明かりと半月、そして星星の明かりに虫の声に満ちたホームへと出た。自然が人と人の所産を静かに包むその中に、ふらっと。
「本当良い場所だよなぁ…」
ほっと気持ちをつぶやいてからは、軽い鼻歌と共にホームを端から端へと歩く。当然何があるわけでもないがただそれだけで気持ちが沸きたって来るから不思議なもので、反対側のホームにも移動して満喫し終えるとベンチに腰掛けて後は携帯等を弄って時間をつぶしていた。
そしてあと1時間余りとなった時、彼は不意に立ち上がる。そして辺りを見回しある物を見つけてほっと顔を緩ませて足を向ける、軽く腹を抱え前かがみに顔を強張らせた彼。その足の先にあったのは駅舎からはわずかに離れて立つ小さな小屋、中から軽い臭気を放つその入り口の脇にはただ二文字でそれが何なのか示されていた、そう「便所」と。
彼は安堵とも不快とも取れる顔をしてその中へと踏み込んでいった。
「うう…早く済ませよ。なんでこういう時に限って…」
軽く漂う臭気、そして上部に設けられ換気と明り取りとを兼ねた窓から差し込む、わずかな明かり。それを頼りに彼はベルトを外しズボンを下ろし足を折る。そして数十秒後に大きく息を、それは何かを吐き出した事を示す息を漏らし上を見上げた。体から感じる軽さの―つい先ほどまで溜まっていた重さが無くなった―ささやかな快感に彼は大きく息を漏らすのであった。
「ふぅ…快感」
いきなりの腹痛に便意そして今感じている軽さ、昨日からもやもやと腹に抱えていた重さは、今ははるか底の原始的な穴の中に分離されていた。幸いにして紙はあったので埃を払いつつ使い、穴の中に投げた後で水を流そうと手を前に伸ばして苦笑を浮かべる、そう水を流す必要の無い、ある意味では自然に優しいトイレなのだと気付いて。
そして微笑ながらズボンに手をかけつつバランスをとって立ち上がりかけたその時、軽い、いやそこそこ重い異変に彼は見舞われたのだった。それは足の硬直、バランスを逸した彼はそのまま尻餅をつくようにして背後に倒れ後頭部を木戸にぶつける。いきなりの痛みに目を白黒とまでは行かずも戸惑っていた時、更なる緊張―それが背中に入り脳に衝撃を与えた。そしてそれは言葉となる、そう1つの明確な意味を持つ。
(僕を汚した…)
「えっ?」
しかし言葉もそれっきり、ただ後には沈黙と空白そして静けさが脳裏にも空間にも満ちる。気を取り直そうとして立ち上がろうとした時再び硬直が、今度は全身に走りその人様には見せられない恥ずかしい姿のまま固まる。何の音もない、唯一ある息遣い以外に音は出ない筈だった。だがかすかな音が響き始めていたのは確かだった、そしてそれは大きくなり共鳴する様に辺りを満たし始める。
それは荒い息遣い、あえぎ声、そして体の軋み最後は悲鳴。恐らく外に人がいたならすぐに異変を感じ取るほどのものだった。だがここは見捨てられた町、少し格好つけるならゴーストタウン―人なぞこの少年以外の誰も今時分は存在しないのだ。そして響くはその少年の断続的な悲鳴、彼の肉体が変貌していく事によるものだった。
比較的長身のその身は大きく痙攣をまずは繰り返しやがては小刻みに、振動の変化に伴って服のしわは増えて体は縮み始める。胴体も腕も脚も、全てが小さく服の中へと消えていく。
「あーああ…か…体ぁ…っ」
その口からは今や途切れ途切れにしか言葉は漏れず、やがては途切れても意味を成していた言葉は失われ、ただの呻きと喘ぎ声だけに成り果て意識も消える。それにあわせて唇の端から涎がたれそして唇はおろか顎の骨格が変わり始めた。鼻筋を含めて大きく前へと勃立した顎は明らかに顔を人で無くして行き、ようやく動きが止まり固定化された時には顔は無くなり鼻筋を頂点とした滑らかな形にまとまる。閉じられた目は一筋に長く軽い弧を描いて細く、そして耳は左右は左右でも脳天の上へと移動していた。
短くなった腕にあわせるかのように全ての指もまた縮み親指にいたっては裏側へ。表には四指のみが丸めで鋭い爪をたたえて備わっており、脚もまた似たように。ただ唯一の違いは踵から爪先にかけてが縦に斜めに伸び、人の脚とは似つかぬ形を成していることだろう。
そして痛みが収まり同時に変化も終えたその肉体はもぞもぞと服の中で動くと、何とか抜け出し個室の木戸の下のわずかな空間を抜けて便所の通路へ。そして風を頼りにホームへと出る、月明かりの下に露わとなったその姿は当然少年ではなかった・・・四足の生き物、獣。ふさふさの長い尻尾を持ち長いマズルと三角耳の特徴的な1匹の獣、狐の姿があった。狐色の毛皮は月光に映え狐はしばらくそこにたたずむ、そこからわずかに離れたベンチの上には少年の荷物が置かれて月光に同じ様に曝されていた。
(ん…あ…外だ)
狐は軽く身を震わせてそう思った、全身に感じる風の感触、鼻に感じる夜の香りの全てが心地よかった。
(あの臭い所から脱出出来たんだ、よかったぁ)
狐は軽い快感に酔う、久しぶりの下界の空気そして感覚・・・もう近くにあって久しく届かなかった物に触れられた喜び。
(さぁ帰らないと…)
狐は狐の意識で思う、狐はまだ子供、あと少しで母親から離れる子狐だったのだ。だからこそ幾分狐にしても小柄な体つきをしていたのである。しかし子狐は知らなかった、年月の流れを―もう今は彼が一度死んでから100年前後もの時間が過ぎ去っていることを。鉄道建設工事の際に迷い込んだのを人間に見つかった彼は、逃げられると感じて完成していた便所の便槽の中に飛び込み、そのまま傷ついて動けないままに斃れた。そしてずっとそこに止まり眠っていたのだ、当時の意識のままで、今の今まで。
どうしてそうなったか、それは子狐にはわからない。ただここから出たいと思いつつ、外に出る事を欲していた矢先に現れたのが少年だった。そして少年から切り離されたものは子狐のかつての肉体、一応は子狐の宿っていた肉体を直撃した事に子狐は驚き、怒った。
するといきなりその霊体は亡骸から切り離され一気に昇り少年の肉体の中へ、そう出されて空間の開いていた少年の肉体へ飛び込んだのだ。そして後は今までの流れの通りである、そう子狐は再び、この世界へと足を着けているのだ。
便所から出てホームにたたずんでいた子狐は、軽く耳を震わせて顔をある方向へと向ける。そちらからは規則正しい低い音に耳に響く音、そして強い光が迫ってくる―気動車の音と前照灯に気が付いたのだった。そしてそれがホームへと差し掛かる直前に、子狐はその身をすっと隠す。ホーム脇の草むらの中へ、すばやく消えてはそのまま姿を見せなかった。