「はいっ?何ですと、そんな所に・・・馬鹿も休み休みにしてくれ。今我々は撤退の許可を求めているんだぞ、それなのにどうして攻撃なんて・・・それに例の日が近いのでは?」
まだ夜も明ける前の司令部の一室、1人の将校が電話口に向って呆れ共怒りとも取れる声を叩きつけていた。
『大佐、これは作戦司令部からの命令です。大佐が如何に感じられようとも命令は絶対なのは分かっていますでしょう?それでは・・・後、機密事項です。口にはご注意を・・・。』
「っておい、ちょっと待て・・・っ畜生、切りやがった。後輩の癖して・・・作戦司令部付きだからっていい気になりおって。」
大佐と呼ばれた将校は1人ぶつぶつと呟きつつ机の上に肘を立てて顔を顰めた。そして目の前に置かれた卓上の時計を見て軽い溜息を吐くと座ったまま体を大きく背後へと反らし、再び受話器を取って何処かへと電話を繋いだ。しばらくすると扉がノックされ1人の矢張り軍服を・・・とは言えこちらは戦闘に適した野戦服を身につけた男が1人入って来る。大佐は気の進まない顔をして先程伝えられた事柄を自らを介して相手に伝えたのだった。
「すまないが・・・頼むな。」
嫌な予感を強く感じる中で大佐はその影を見送った。
「うったく・・・こんな雨とはね、最悪の決定に最悪の作戦と戦況・・・そして天気までの4拍子が揃いやがった。」
雨に濡れてずれた鉄兜を軽く上に上げてその兵士は大粒の雨の降り注ぐ、深く掘られた塹壕の中から見上げる濃い灰色に覆われた空はただでさえ沈み気味な気持ちを余計に暗くさせる。塹壕の最低部には一応厚い板やら金網が渡されているが、その下には流れ込んで来た泥水が川となって流れているのが良く見える。
戦線が膠着してもう2年余り、800日近くこの土地に留まり続けこの塹壕内では最古参の1人となっていた彼にとってすっかり馴染みのある土地となっていたが、愛着はとても一欠けらすら抱けるものではなかった。むしろ嫌悪感ばかりが募る、かつては広大な原生林の広がっていたと言われるこの土地に今あるのは無数の骸と銃器類の残骸、地面に掘られた多くの塹壕の筋に立ち枯れし焼け焦げ黒く染まった木々の残骸・・・そこにはかつてこの地域有数の美しさを誇ると歌われた原生林の姿は何処にも無かった。
そして回想に浸る間も無く、地面を揺るがす振動と空気を切り裂いて飛んでいく金切り音が辺りにこだまする。ここから数キロ離れた砲兵陣地から発射された砲弾の音であった、そして着弾。こうも激しい雨が降っていては果たして敵陣の中に着弾したのか塹壕にこもる歩兵には分からなかった、しかし砲撃が始まったという事はまた今日もあの日々の1つとなる時間が展開される事の証左・・・そう思うまでも無く班長の檄が飛び一斉に慌しく塹壕の中が、それでいて迅速に動き始めた。
今の班長は半年ほど前に着任した新任将校、祝すべき実戦投入の第一がこんな過酷な消耗率の著しく高い反面効率性は最悪と言う戦場である事がつくづく気の毒に感じられるし、それを裏返せばそれはもっと経験のあるベテランを現場は求めている証明と言えよう。しかしそれが叶わぬ夢である事はこの塹壕で戦う者達は皆認識していた、何故ならこの長い戦いの結果としてもう人材・・・特に将校として使える人材が極端に不足している事は明らかになっていたからである。
通常の兵士と異なり将校には上から来た命令を忠実に実行に移し成功を得る以上にその場その場の情勢を読み、より適切で正確かつ成功を確実な物とする道を取れる能力も求められていた。だからこそ不足すれば必要な訓練を施してすぐに投入出来る様になる徴募兵とは根本から存在理由が違うのだ、だからこそこのような戦時となっても士官学校や昇進によって供給出来る将校には限界があった。
だから結果としてまだ経験の少ない新任将校がこの様な過酷な第一線へと送り込まれ、下手をすれば彼よりもその戦場を知り尽くした兵士達を指揮せねばならないのである。それは送り込まれた将校にとっても災難であっただろうが受け取った側の兵士達にも厄介な問題であった、彼らにしてみればそれまで現場に精通し兵士と将校と言う立場の違えはあれども、戦友として精神的に同一にあると看做していた仲間を失ったばかりか、まだ訓練や机上でしか戦争を知らない者を指揮官として指示を仰がねばならないのだから。
それもあって一部の部隊では新任将校と兵士の間での対立と乖離が問題となっている事は、兵士間の情報網を通じて皆が知る所となっていた。しかし幸いと言うべきかこの部隊ではその様な事にはなっておらず、むしろ兵士達が新任将校が現場に馴れるまでカバーし合い色々と教えあい成る丈早く熟知する様に促す・・・その様な体制が出来上がっていたのだ。
だからこそ過酷な戦場下においてそれはまだ若く青い新任将校からすると唯一の救いとも言えたであろう、だからこそと言えるかは不明だがこの部隊は不思議と消耗率が低くこの地獄のような戦場において奇跡の部隊と一部から囁かれていた。
そして始まる突撃、砲兵の支援を受けながら彼もまた塹壕を飛び出し敵陣へと向っていった。もう幾度と無く綱引きの様に繰り返された突撃作戦、効果の程は分からない作戦がまたもや行われたのだった。
「おっ来たぞ来たぞ。」
一方、砲撃を食らった敵陣側も攻撃を予見して構えを行っており早速突撃してきた兵隊達に向って機関銃が乱射される。それに対して相手側からは砲弾と共に無数の兵士と銃弾が襲い掛かってくるのだから、守備する側も攻撃する側も入り乱れての恒例の乱戦が激しい雷雨と変わった天気の元で繰広げられた。皆が皆、一応敵味方の区別は付けつつも戦いにのめり込む、ひたすら必死になり自らと自軍の勝利を頭において干戈を交え合った。
仮に負傷し倒れても生きるかどうかの保障は無い、全ては運任せであった。生きるか死ぬか・・・結果は刻々と一人一人に表われ展開されるのであった。そしてそれはあの鉄兜を塹壕の中で軽く上に上げたあの兵士にも展開された、そうここにまだ原生林が残っていた時期に配備されて以来留まっていた彼、生き延びてきた彼に運命は冷徹に裁決を下す。一発の銃弾が彼の左肩を貫いた、とっさの痛みと衝撃でバランスを崩した彼はそのまま泥濘の中へと倒れそして多くの足と体に踏み付けられながら沈み意識もまた沈んだ。
それは休戦協定の結ばれる翌日の事だった、そうその戦争に一端の区切りがつく前に行われたその戦線における最後の衝突だったのである。即日発効した協定に基づき両軍はすぐさま兵士を最前線から50キロ離れた地点まで移動させ偶発的衝突の可能性をなくした。協定の事を知っているのは上層部と一部の将校だけであったから殆どは交渉が行われている事すら知らなかった。だから撤退準備などされている筈が無く、生きている兵士と武器を回収するので手一杯であり戦場に散った兵士の遺骸は荒涼とした光景の一角、そう荒れ果てた大地に破壊された兵器類と共に光景の一角をなす存在となってその場に放置されたのである。
全くの急な展開故の事であった、放置された遺骸は自然を構成する物となって朽ち果てそして次第に消えていく。だからこそその後の交渉が長引きようやく半年ほどして遺体回収の為に部隊が立ち入った時には、誰が誰なのか完全に判別出来る有様ではなく、ある意味では実戦以上に過酷な戦いであったと参加した兵士は後に回想している。
そしてあの戦場の生き字引とすら言える彼もまた満足な状態で遺体は回収されない・・・詳しく書けば、そう認識票と軍服軍靴のみが回収されて他の物は一切回収されなかったと報告書に記載された。
「そうか・・・戦場で自分が死んでいく夢を見たんだね、それは恐かっただろう・・・まだ子供の君にとっては。」
「うん・・・恐かった・・・。」
椅子に座る人影の胸元に抱きかかえられた仔狼はそう言って尚も小さく震えていた、矢張り話させたのは酷であったかと思いながら人影は軽く息を吐きつつそっと呟きかけた。
「少し目を瞑ってくれないかい?」
「はい・・・御主人様・・・。」
そう言うと仔狼そっと目を瞑った、すると人影はその片手をその額に当て軽く何事かと早口で呟き念を込める。するとその仔狼の中で何かが膨らみそして弾けて消えた、それを感じ取ると人影はそっと手を離しそしてまた口を開く。もう目を開けていいと・・・そして開かれた瞳の輝きは以前と寸分の変わりすら見出せない元通りのままだった。
「今何か夢がとか言っていたけれど何の話だったかな・・・?」
その問いかけに対して仔狼は何とも答えられなかった、首を捻り考えるが何も浮かんでこない。それをわびる仔狼に対して人影はただひたすらに微笑み、それで言いと呟くと地面に下ろし外で遊んで来る様に言う。幾ら狼といえどもそこは子供であろう、嬉しそうに尻尾を振りながら駆け出すと緑の芝生の上を飛び回っている。その姿を見ながら人影は立ち上がって空を見上げた、そこには青い空が広がり白い雲が浮かんでいる。
しかし一歩塀際より下界を見下ろせば、しばらく見渡せる周囲には緑が広がっていてもある距離から先に広がるのは荒涼とした不毛の大地・・・それをみて再び人影は溜息を吐きそして背後で何かを揺らす。
"あの記憶を思い出すとはねぇ・・・まだまだ早いと言うのに・・・。"
多少表情を険しくしたその顔は狐だった、後で揺れるのは九尾の尻尾その緑色の瞳で辺りを見回し耳を小刻みに動かしてしばらく構える。そして1人遊ぶ仔狼の声に誘われる様に顔を緩めて踵を返した、その後を追うかの様にそよ風が1つつい今し方までいた場所を吹き抜けた。そうそれは一度は滅びかけた世界が再生しつつある証だった。
"この仔にあの記憶は毒かもしれないな・・・本当、全くあそこまで克明に私とのやり取りまで記憶しているとは恐れ入ったものだよ。"
ふとした気紛れでの旅行中にある魂と出会いそして復活させた妖狐は思いを過去に馳せつつ、目の前の仔狼を見つめていた。