青き影冬風 狐作
「でもどうすればいいんだ・・・これから?」
 暗がりの中呟く声・・・その時、彼は深い困惑の中に沈みこんでいた・・・。

 それは何の事は無い平凡な休日だった。普段と同じ様にぼんやりと過ごしていたその日、唯一違うと言えばもう5月だと言うのに3月の始め並の気温と言う事だけだろうか。ただそれは自分を取り囲む環境が何時もと違うというだけで自分自身には何の変化は無く、それこそ普段と変わらぬ調子でただ久々の寒さを感じながら本を読み耽るそんな事をしていた。
 だが幾ら好きな事をしているとは言え何時間も自室にこもって本を読むだけでは能が無いし、何よりも夕暮れが迫ってくるにつれて気温が更に下がって来た為体の冷えと共に眠気が全身を襲う。これが暖かい5月らしい穏やかな日であればむしろそうして居眠りをする事は個人的には好ましく思え、別に何とも無いのだがこうも冷えている時にはそうやつて寝てしまうのは何処か健康に悪い・・・そんな気がしてならなかった。だから本を脇に畳んで置いた彼は椅子より立ち上がって体を伸ばし、解したその足で上着を着ながら玄関を出た。季節外れの夕暮れの中を散歩する為に。

 アパートの前を走る道を西へしばらく進むと直行する様にハナミズキや桜、そしてケヤキの入り混じった緑地帯が走っておりその中央には江戸時代初期に掘られて以来農業用水として現役であると言う堰が流れている。彼はその堰沿いに道を左へ折れると未舗装の萌えて確実に広がりつつある若草の生した小道を歩き始めた、時折思い出したように小さな東屋やベンチが現れるが今日は人っ子一人の影もない。何時ものこの時間なら犬の散歩をする人や子供等が遊んでいるのだが、矢張りこのいきなりの寒さの前に時間をずらしてもう終えてしまったか今日は見合わせているのだろう。その様な事を考えながら普段のちょっとした喧騒の欠片すらない静かな道を堰を流れる水の音を耳に聞きつつ進んで行った。
 そんな道を進んでどれ程経っただろう、時計も携帯も家に置いて来てしまったものだからそう思った所で正確な時刻など分かりもしなかったが、大体30分ほどは経過してと思われる時に彼は普段散歩の時に折り返す橋の袂に到着した。目の前の橋はこの小さな堰を跨ぐものだから長さこそ短いが幅は長い、そして容易にそれを乗り越える事は出来ない。何故ならその橋の上に走っているのは鉄道だからだ。
 とは言え堰よりも更に西にしばらく行った所にある工場への貨物専用の専用線だから滅多に列車は来ない。一応人が立ち入れない様に線路脇には低い金網が設けられているが大人であれば容易に乗り越えられる高さであるし、設置されてから大分時間が経っている様で全体として歪んで所々が錆付き傾いたそれは、小学生程度でも何とか乗り越えられる代物に成り果てていたから殆どの人に無視されている哀れな存在だった。そんな本分を果たしているとは言えない金網を認める数少ない存在が彼だった。
 彼はこれまでこの金網を乗り越えて線路を横断した事は無い。堰沿いの道は専用線によって一時的に断ち切られてしまうが彼にしてみればそれはむしろ好ましい目印であり、良い区切りとして見ていたからこそそこで散歩の度に折り返すように決めていたのだから目障りな存在とも感じた事はない。そして訳あって専用線の向こう側に渡らねばならない時にはこの小道を使わず、アパートの東側にある普通の路地を歩いて踏み切りで乗り越える様にしていたから機会も無かったと言うのもこれまで超えた事の無い理由の1つなのである。
 だが何時も思う気持ちが同じであるとは限らない、そして何時唐突に沸々と新たな興味・・・好奇心がその心に浮かぶとは言い切れない。彼の場合も正しくそうだった、どうしてそうなったのかはこの季節に合わぬ異質な天気が影響していたのかも知れないが、しばらく川の流れと緑色に塗られた鉄橋とを見比べていた彼は線路の向こうが気になって仕方が無かった。当然見える景色はこちらと殆ど変わらない堰と緑地帯、そしてまだ水の入っていない田圃と転々と散らばった家々があるだけだ。
 それはむしろこちら側よりも田舎の風景であると言えよう。だが何かがそちらで待ち構えている、そんな気が特にしてならなかった彼は今度は目の前の傾いた金網と薄く草生したバラストの上を走る細いレールを見比べてそっと足を駆けると後の行動は素早かった。一気に先にかけた片足に力を込めて飛び越えると足早に横断し再び始まった反対側の小道へと飛び降りるまでは瞬く間になされた行動だった。

 同じ堰に沿って流れる小道とは言え前述した内容からも察せられるだろうが彼がこちら側の小道を歩くのは全くの初めての経験だった。ただ線路を挟んでいると言うだけで経験の差がある事を勘案してもまるで違う世界、そう感じたのもあながち嘘ではなかった。実際堰の流れはこちら側ではただ直線が続くだけで無く所々で曲線を描きそれにそって律儀に緑地と小道も曲線を描くのだから何処と無くおかしくてたまらない。まるでこのまま異世界か何かに引き摺り込まれていく、この先には文字通り未知の世界が待ち受けている、そんな軽い錯覚にも囚われながら足取りも軽やかに進んで行った。
 そして堰と緑地は続くもそれ以外の周囲の情景は次第に田舎と言う色を強めていった、田圃の中に点在していた家々の数も減り何よりも田圃自体も次第に数を減らし、野原や雑木林の様な人の手がわずかに入ったかと言った様相の物に遷り変わって行く。それだからこのような天候でただでさえしなかった人の気配と言うものはますます本当に感じられなくなり、ただ季節外れの冷たい風と季節通りの自然だけがせめぎあっている。
 そのような中を歩く事・・・即ちそれに夢中になって彼は歩き続けていた。もう辺りは薄暗く太陽自体は既に西の山々の陰へと沈んで余韻としての鮮やかな夕焼けが残るのみで東は深い藍色、そろそろ満月が姿を見せてもよい頃合であったが不思議とここで来た道を元に戻ろうと言う気にはならなかった。むしろその時の表情は薄っすらとした笑みすら浮かべていたと言えよう。彼は楽しんでいたのだ、この状況の何もかもを。そして夜が全てを包み込む、月は出てこなかった星空も、分厚い雲がそれらを遮っていたからだった。
「ん・・・雨・・・?」
 そしてその雲、雨雲から滴が無数に零れ落ちるのにはそう時間はかからなかった。

「うわぁ・・・びしょ濡れだ、弱ったなこれは。」
 緑地帯で木々が雨を幾らかは遮ってはくれたものの全てを遮る事は出来ない、そのお陰で行く手に見つけた壊れかけた一見の小屋と思しき建物の中に逃げ込むまでの間に彼はすっかり雨に濡れてびしょ濡れになっていた。取り敢えず小屋の傍らに唐突に立っていた水銀灯のお陰で明かりは何とか確保出来、ボロボロとは言え雨漏りはしていない小屋の中に置かれていた椅子に腰掛けると濡れた上着を脱いで埃を払い机の上に転がす。窓から外を見れば雨は酷くなる一方で止む気配は無い、ある意味この小屋の中に閉じ込められているそんな感じだった。
 その様子にため息を吐く彼だったが何もする事は出来ないので、唯一出切る事である小屋の中の探索をしようかと腰を浮かせて立ち上がろうとしたその時、強い風が何の前触れもなしに吹き付けて窓ガラスを大きく揺らした。それ以上の何も引き起こしはしなかったのだが拍子に彼は思わず反射的によろめき、傍らに置かれていた台の上の薄い箱の中に手をついてしまったその瞬間彼は何が起きたのか把握できなかった。息も止まり視界は黒に、そして感覚も何もかもが失われたのだから。
 だがそれは一瞬の出来事だった、正確に言えば感じた事の殆どは錯覚であり視界と触覚に体の自由だけが奪われただけであった。今となっては五感は全て正常で違和感は・・・これに限っては無いとは言えないだろう。むしろ大有りだった、どういう訳か全身の皮膚が何かに覆われて外界と遮断され包み込まれている。そしてそれ以上に不可解なのは身に纏っていた服の感触が一切感じられない事だろう。久々の冷え込みでそこそこの厚着はしていたからそれが全く感じられないと言うのは不可解以外の何者でもない、ただその代わりなのか分からないが服のあった場所に服とは違うドロッとした半流体の感触があった。
「っと・・・何なんだよ、これ気持ち悪いし何か包んでるし・・・青いけど何なんだろうこれ・・・。」
 くぐもった声を耳にしつつ目で見える腕・・・それは青い生地の様な物に包まれているのが一目瞭然だった。指先からは生地のひんやりした感覚が伝わってきてそれは気持ち良くもあり未知の物だからだろうが、正体が分からず気持ち悪くも若干感じずにはいられなかった。しかし全身を包み込まれたそれから逃れようともどうやって脱げるのかは皆目分からないから手の施しようが無い、仕方が無いので体の自由は利いたことからこのはっきりしない姿のまま小屋の中を探索する事にしたのだった。
 とは言え大仰に探索とは言えども数分もかからないほど小さな小屋だからすぐにする事は無くなった、だがそれは大きな収穫をも同時に彼にもたらした。そう鏡を見つけたのだ、薄暗いとは言え外からの水銀灯の明かりである程度の物を判別出来るだけの明かりに辺りは満たされてはいる。だから薄暗い中で青白く輝く鏡を見つけたのはそれこそ驚きであり喜びであった、そうして得た鏡を前に臨んだ彼はそこで始めて今の姿を把握できたのである。

 正確に言えば全身をすっぽりと包み込んでいる物の形を、結論を言えばそれは人の姿ではない異形の姿。青とも紫ともとれる色の長い髪に米神より伸びる2本の先端が分かれた角、長いマズルと濃い青と明るいカーキとも取れて蛇腹状になっている顎下から腹部にかけての部分に、それこそ長く背鰭上に上と同じ色をした鬣の様に走っている尻尾、そして背中に翼・・・。明らかに見慣れぬ姿をしている生物の姿がそこには見られた、ただその姿を見て彼の脳裏にはすぐにある言葉が浮かんだ。
 竜、この姿は竜であると言う事を・・・視線を向ければ先程の棚の上には白い箱だけが置かれていて中身は何も無い。考えられるのはあの中に入っていた物が今、己を包んでいるこの竜の姿の元になったのではないかということだった。そう思える以前にそう思うしか術が無いのもまた事実で彼の困惑は深まる、見た所どこにも継ぎ目の様な物は無くこうも自然に動けるのだからかなり柔軟で頑丈な繊維だから破く事は困難だろう。、こす。 そして仮にこれを脱ぐ事が出来たとしてもその下にある筈の自分の体はどうなっているのかも気にかかる所だった、まず第一に服の感触が無い事が影響しているのだろう、次いで何やら半流体の感触を得ている事にも・・・もし全裸であったらどうするのか。そう言った不安が高まりかと言って何かを成す術も無いままに彼は狭い小屋の中をグルッと巡りながら不安に犯されるのだった。
 ただそれよりも気懸かりに感じていた事がもう1つ、それはその後に気がついたのだが胸に膨らみが薄いとは言えあり股間より垂れる物の代わりに何やら割れ目の様な物がある事に・・・それに気がついた後は脱げるか脱げないかよりもそちらの方に関心が強く寄った。幾度と無く鏡の前で両手なり片手を胸の前、そして股間に宛がおうとしたか分からない。強い困惑と葛藤の中で迷いに迷った挙句、意を決して彼は胸へとまず片手を宛がうと軽くその膨らみを揉んだ。返って来た感触は至極普通では違和感無い、その時は特に自分自身にはどうも包み込んでいる生地と肌の間を満たしている半流体を解して感触が伝わって来た以外に特に何も感じる事はなかった。
"何だ・・・何でもないのか・・・暇だからもう少し揉んでみよ・・・。"
 それにすっかり気を良くした彼は再びその手で胸を、何時の頃からか両手を宛がって自ら揉みに揉んだ。男である彼がこれまで感じた事の無い手を通じた感触は余りにも愉快だった、それはまるでお気に入りの玩具で一心不乱に遊ぶ子供の様な心持になっていたのだろう。夢中になるが余り次第にそれだけではなく胸と共に腹を揉んだり、或いは股間の割れ目をなぞりその裏にある自らのペニスの膨らみをも味わいながら、何れも半流体を介して伝わってくる感触に酔ったのである。
 しかしそれには落とし穴と変化が潜んでいる事に気が付く筈が彼にはなかった、むしろその落とし穴が近づくにつれて小刻みに気が付かないほどそれこそ断続的に起きる変化が、彼の感覚をそうなる様に乱していたのだから気が付かなくて当然と言えるだろう。半流体、鍵は全てこれだった・・・彼の包み込まれている下の体は素っ裸だったのである。服の生地は包み込んだ生地、分かり易くスウツと呼ぼう。スウツの裏面にあった特殊な成分によって分解と再構築による編成を経て未知なる物質へと様変わりしていた。
 そしてそれは次第に全身へと彼の動きによって広まり胸を揉む事に熱中していた頃にはほぼ全身へと広がっていたのだ、そうして準備は完了したのである。何者かが何の意図に基づいてかその真意は分からず置かれた時期も判別出来ないが作り出したスウツの発動する要件は全て整い、それは発動した。生地の下にて全身を包み込んでいた半流体は振動にあわせて皮膚の表面を溶かし緩めると染み込んでスウツの生地をそれに一体化させる。次いで神経から骨格に感覚の何もかもがそれに馴染み変質しスウツの表面・・・青い表面がただツルッとしているのではなく微細な割れ目を生じさせた。
 生じた割れ目はそれこそ微細で一見しただけでは割れ目があるとは判別出来ず元通りのツルッとした感覚が残っているが、実際はそれらは硬く柔軟な無数の鱗と化していたのだ。最も変質したのは薄いカーキの蛇腹状の箇所も同じだったがそちらはそこまで細分化はされず、元から付いていた割れ目の通りに分かれて色も変わらずに融合しそれ以外は他の箇所と変わる事無くしっかりとした新たな皮膚に成り果てていた。そして全てに感覚が行き渡り強い快感が去った直後、全ての完了した証として眼が開かれた。その眼は縦割れの黒いもの以外は黄色の鮮やかな白目が燦然と輝きを放つ双眸となって暗闇の中に輝いていた。

 興奮醒め止まぬのか荒い息と共に口は開き咆哮が小屋と辺りを揺るがす・・・途端に雨の勢いが強くなったのは決して偶然ではないだろう。霧雨となっていた雨は一気に叩きつける大豪雨となり騒々しい音が一気に辺りを包み込む、青竜たるからなのだろう。大きく羽ばたかれた翼によって鏡が床に落ちて割れ机がひっくり返り窓硝子と小屋自体が共鳴した時、彼はようやく我に返った。変化と言う快感から解放されて、しかし彼にしてみれば変化していると言う意識は微塵もなくただ胸を揉み砕く事によって感じているとしか感じていなかったのだから、わずかな間を置いて狼狽した事は言うまでもない。
 そしてそれは困惑へと、騒動の後の何とも言えない余韻かそれに類した感覚となって彼、いや胸と割れ目から胎に通じる感覚を持つ彼女となった青竜は耳をつんざく様な、この事を祝福するかのような雨音の中で立ち尽くすのだった。


 完
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