のんびり受け流れて冬風 狐作
「すまんね、いきなり呼び出したりしてしまって。」
「いやいいですよ、提出するレポートも仕上げて暇でしたから・・・。」
 部屋でゴロゴロと猫と共に転がっていた美菜子にお呼びがかかったのは春とも初夏とも取れる季節の末の午後の事だった。最もお呼びがかかったからとは言えそれは何らかの命令とかその様な物ではない、ただそう呼ばれているだけ・・・近所に住む人々の間でそう呼ばれているだけだ。
「そうかい、なら良いんだが・・・今日も1つ手伝ってもらいたい事があってね。」
 美菜子が今歩いている場所は日本建築の家の縁側、簡素な日本庭園を片側に見つつ彼女は軽く猫背で前を行く男の後に従って付いて行った。そうその猫背の男・・・男と言うには年を取り過ぎているかも知れないが何処か漂うその独特の気配と穏やかな物腰、そしてその博識と言える知識と求められれば必ず返す適切な助言のお陰もあってこの近所の住人から密かな尊敬を集めている老人である。だからこそその老人が時折してくる頼みには皆快く応じ返す、そして老人は皆からの相談に乗りその都度適切な助言をする・・・今時珍しい、何処か時代かかって温かい関係がそこには息衝いていた。

 来る者を拒まず去る者は追わず・・・その言葉をそのまま形にした様な老人であっても人間である以上幾らかの好みと言う物は人並み以下かもしれないが存在していた。大抵の場合老人が自ら手伝ってもらいたいと声をかけるのは十代の若者、中でも美菜子を含めた数名が特にお気に入りらしく、事ある毎に関係を持つのでもうすっかり気心の知れた仲であったと言えよう。そしてそんな美菜子が老人に呼ばれたのはほぼ二ヶ月振りの事、前回曾孫娘が遊びに来るとかで色々と準備を手伝って以来の事だった。
「今度は何ですか?前は雛祭りの飾り付けでしたけれど・・・。」
 美菜子は二ヶ月前の事を思い出しながら親しげに軽い調子で声をその背中にかける。同年代の女子の中では平均よりやや上の身長である美菜子から見ると老人の猫背な体は小さくてどこか頼り難い、そんな印象すら最初の頃は抱いていたものだが、今となっては老人の上に積み重なった長い人生の結果としての様々な蓄積に気を抜くと押し潰されてしまう・・・そう思いを抱かざるを得ないと噛み締めるのに至っていた。
「これじゃよ、頼みたい事と言うのは。」
 ようやく言葉を老人が返した時、2人の足は動きを止めて開かれた襖を前にしていた。老人の指差した先には明かりが灯ってない上にカーテンが引かれていて薄暗い畳の部屋、倉庫代わりに使っているのか様々な箱が無造作そうに成されている様に見えつつも良く見れば一応の整理を付けられて置かれている。そしてそれらの箱の中に沈むかの様に置かれて埃の払われたちゃぶ台の上に老人が占めさんとする物が置かれていた。それは直接彼女に縁のある物ではなかったが日本人であればまず知っていて当然の物であった。
「これは・・・鯉のぼりですね、そう言えば今日は子供の日かぁ・・・お孫さんでも来られるのですか?」
 ちゃぶ台の上に無造作に置かれていた鯉のぼりを見て感心したかのような声を上げる美菜子、その時彼女は自分の弟がまだ幼かった頃に自宅の庭に上げられていた鯉のぼりの事を思い出していたのであって決して馬鹿にしたりとかそう言った事で声を上げたのではない。そして雛祭りの記憶と被った事で終いには"孫"の文字が脳裏に浮かび上がったのだった。
「まぁ正確に言えば今回も孫の子供、曾孫が久し振りに遊びに来るのじゃよ。それですっかり喜んでしまってな、その嬉しさを現そうと孫の時に上げて以来ずっとしまって置いた鯉のぼりを上げようかと考えたのだが・・・。」
 そう言ってしばし黙り込んだ老人はおもむろに手を伸ばすとその口を掴んで上へと持ち上げた。見えたのはあの大きな鯉の目と髭そして白い箇所に紅色の鱗とそのままの姿の鯉のぼりであった、流石に数十年もの間仕舞い込んであったと言うだけはあって全体的に今の物とは様相が違い何よりもデザインが緋鯉だと言うのに勇ましい。手書きなのだろうか?そう思わせるだけの柔らかさもそこには垣間見えている。
「いい状態だろう?」
「えぇ・・・とても昔の物とは思えませんね、本当にそうなのですか?」
 率直に感じた通りに美菜子は口にして更にそれを凝視した、だが老人はその好意的な良い反応に対して何も答える事無くただ口元を軽く歪ませると一気に持ち上げてそして指差した。指差された先には当然の如く緋鯉の腹がありもう尾びれも近くてやや細めになっている、しかしそこには唯一それまでの箇所とは大いに異なる特徴があった。それは当然彼女の目を惹き付けずに入られない、それは1つの楕円形をした茶色の染みと幾つかの小さな虫食い穴で白い部分に留まる筈が無く緋色の鱗や鰭の箇所にもしっかりと大きく広がりを見せていたのだった。
「久し振りに曾孫の為と思って開いてみたらこの様でな、わしは悲しいよ。」
 如何にも寂しげに老人は呟いて見せた、その言葉は確かな重みを持って美菜子の心を捕らえて喰い付き離そうとはしない。この言葉の重さが老人の最大の武器だった、幾ら言葉巧みであっても、人徳があってもそれは形として存在するのではなく見えない音や気配として存在しているのみであり分からない人、理解出来ない人には全く効果が無い。しかし重みそして深さのある言葉と言う物は別だ、それも心の底からの真実の重さは表には現れなくとも誰彼の心の別なく何処かで大なり小なりの動きを起こさざるにはいられないのだから。

「・・・あの曾孫さんは何時こちらに来るのですか?時間があれば自分の親に相談して・・・。」
「クリーニングに出している暇なんてないのじゃ、実を言うと明日の朝には来てしまうんでな・・・直前になるまでこんな染みに気付かなかったわしが愚かだったと言う以外にはないのだが・・・。」
 美菜子の家は規模こそ小さいもののクリーニング店を営んでいる、だからここまで聞いた老人の言葉から彼女は自分を通じてこの様な大物がクリーニングに出せるかと聞こうとしているのではないかと予想していた。だからこそ彼女にとってそれは先手を打ったに等しかったのだが老人が返してきたのはそれを裏切る言葉だった。曾孫は明日来るので今から超特急で取り掛かったとしてもとても間に合わない、しかしそれ以外に綺麗にする方法は存在しないのだからどうにかしろと言うのは無茶な注文だった。
 そしてそれは老人自身も承知している筈である、何故なら彼女の父親が持ち込まれ引き受けたものの手に負えずに困っていた難物を見事に処理する知恵を寄越したのは何を隠そう老人自身なのだから。だからこそ彼女は次第に一体何を老人が考えているのか理解出来なくなりつつあった、加えて若干の不信感をも募らせていたのである。これまでにも色々な事を頼み頼まれてきた中とは言え今回の様な無理難題を押し付けられた事は過去に無かったのだから当然とも言えよう。そうして次第に余裕を無くして一言口にしようかと言う時、今度は老人が口を開いた。
「すまんな、変な事を言ってしまって・・・だがまだ本題ではないのだよ、落ち着いてくれ。そして本題なのだが・・・ちょっとこれを握って頭の上にかざしてはくれぬか?」
 これには思わず口を丸くするしか術はなかった。

「こうで・・・いいですか?」
 手渡された銀色の自分の体をその中に収める事の出来そうな輪を両手に握って美菜子は老人の前に立った。何とも珍妙な説明のし辛い姿である、もしこれが新体操か何かの練習とでも言えば周囲の納得は得られるかもしれないが美菜子自身はその様な事は全くしない性分であるので自分に対して説明が上手く出来ず、まとまらない複雑な気持ちの中でそれを言われるがままに老人に頼まれての事だからと言い聞かせてするしかなかった。
「よしよしその姿じゃ、では一旦下へ手を下げてくれぬか?1つしなくてはならない事があるんでな。」
 そう言われて輪を握ったまま下ろすと老人はどこからか何時の間にか取り出していた白いロープを、巧みに輪に等間隔にて線を引けば四等分出切るかのように付けられていた小さな輪に通して縛り付けていく。まるで漁師の使う網の様に一点にて纏められ三角錐の形をした格好になると再び指示に従って元の姿勢へと戻す、その格好の滑稽さは先程よりも増しておりまるで捕らえられた魚の様だと美菜子はロープの根元を掴んだままの老人の手を見てふと思ったその時だった。
「ではよろしく頼むぞ。」
 不意に呟いた老人は軽くロープを引いた、軽い引きとは言えいきなりの事であるから思わず美菜子はバランスを崩し、膝を床に突いてそのまま正座する格好になった。また共にロープもその手から老人は手放したので一気に頭上に掲げられていた輪が引き寄せられて頭がその間にはまり輪の一部と接触してしまう。その衝撃自体は大したものでもなく掠り傷すら追わなかったのだが大きな事はその次の瞬間よりいきなり彼女の身を襲う事となる。
 掠った瞬間に咄嗟に一方の手でつい先ほどまで老人の握っていたロープの箇所を握りしめ、片手にてのみ支える格好となった事から床の上に次は落下する事を思い描いていた。しかしそうとは成らなかった、頭に引っかかっているからだろうと思い込んで安堵したものの軽く頭を動かしても落ちて来ないと言うのが妙だった。勿論首や後頭部に引っかかっているのならそうで当然だろうがそれならばその付近に感触を感じて当然な筈だ、だがそう言ったものは一切今上げた各所加えて前頭部からも最初の内は載っていると感じていたのだが今では全く感じられない。
 当然疑問の色は濃くなり彼女は思い切ってロープを引っ張り外そうとした、しかしその時顔全体はおろか体全体がその方向へ向けて引っ張られて動き前へつんのめったのである。そしてその間にその現象に対して疑問を呈し考えを巡らせ始める間も無く次なる不可思議な感触が彼女を襲ったのだ、それは自分の中に涼しさを・・・空気の流れを感じると言うそれこそ有り得ない物だった。と共に美菜子は視野が急に暗転した事に仰天する。
 一体何が自分の身に起きているのか?それを把握する最大の器官が前触れなしに、次いで顔から次第に体としての実感をもこちらは静かに着実に消え代わりに空気の流れを内から感じつつあったのだから気持ちが大いに混乱するのは無理は無い。だが気持ちに体が全く対応しないのだ、だから彼女は受身のままで顔、首、胸、腹、腰・・・それらが段々と空になり熱と質量ではなく空気に満たされていくのを恐怖の内に感じ、やがてそれこそ空気に気持ちまでも成り果てて消えて行った。
「・・・すまんな、明日から数日頼んだぞ・・・。」
 老人はその様子を余す所無く全てを見届けると立ち上がり、猫背の背を更に曲げて丁寧に掬い上げた。そう畳の上に広がったそれは見事な長さと太さを持ち、鮮やかな緋色の鱗を金色のアクセントを以って表現した鯉のぼりを見つめていた。

「ひいおじいちゃーん、大きな鯉のぼりだねぇ。」
「あれはなひいおじいちゃんの子供、高弘のおじいちゃんに買ってあげた物なんだぞ・・・。」
 そう交わされる世代を超えた会話の上、雲ひとつ無く澄み切った陽光と青空の下で4色の鯉のぼりはそれこそ悠然と気ままにのんびりと時には暇そうになびく・・・それは何時の日かのとあるこどもの日の物語。


 完
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