隠遁生活冬風 狐作
 それは春の長雨とでも言うのでしょうか。大型連休を先取りして有給を使って大勢の春山登山客で混雑しない内に、まだ初々しい山の様子を楽しもうと思い立った私は勇み足にて向かった山の奥にてそれに遭遇しました。そうも焦ったのは仕事が嫌でたまらなかった事も、出来る物なら山奥に隠遁生活でもしたいものだと考えていた事が幾許か影響していたのかもしれません。
 そして気が付いたのは朝、テントを激しく叩く雨音に気が付いて目を覚ました私がそっとジッパーを開けて外の様子を窺い見るとそこは昨日の穏やかな様相と打って変わり、激しく天から叩きつける雨によって音に溢れとても外に出る事はおろか下手に彷徨い出ると足を滑らせて泥まみれになってしまう・・・そう思わざるを得ない惨状を呈していたのでした。
 すっかりそれに度肝を抜かれた私は再び固く閉じると、上手い具合に木陰な上に平らな巨石の上にテントを張った自分の判断を幸いだったと感じつつ、とにかくラジオで情報を集めようと鞄の中に手を突っ込みかけてその手を止めました。何故なら昨晩寝る前にラジオを聴こうと同じ事をしてラジオを自宅に置いて来てしまった事を思い出したからです、加えて携帯電話をも忘れて来た事を思い出し私の気持ちは一気に沈みました。既に把握しているのだからどうしてそんなに、と思われるかもしれません。
 しかし今は外の状況が状況なのですから一筋縄で言い切る事は出来ません。本来の予定なら今日は快晴の下を山を更に登って頂上に達して下山し深夜には帰宅・・・そう計画を組んでいたのですから何処かでたまにはそう言った物が無い登山もいいな、等と気楽に捉えていたのですからその予想が崩れたのは非常に精神的に痛手となる以外の何者でもありませんでした。加えて数日間の登山で済ませる予定であった上に半ば慌てて家を出て来てしまったので、何時もの自分からは考えられないほど手薄な装備であった事も更なる追い討ちをかけてきました。  そう衣食足りて礼節を知るというものですがその衣食が決定的に不足していたのです、予備の着替えも食料も無いその状態そして悪化する一方の天気に皆無の通信手段。それで沈むなと言う方が何処かおかしな話でしょう。その様な感じで私は何とかその日は凌ぎました、翌日には一日遅れであの快晴が現実の物になると信じて。しかし期待は見事に裏切られもう3日目、食料は完全につき水もすぐに後を追う事は目に見えて分かっていました。雨は絶え間なく降り続け地盤が緩み切っているのはもう手にとって素人の私にも分かるほど・・・もし土の上にテントを張っていたら今頃流されていたかもしれない、そしてもしかすると今は大丈夫でも地盤の緩みでテント下の岩が流されてしまったらと言う悪い予感を抱く以外には、ただ持って来た寝袋の中に身を沈めて過ごす以外は出来なかったのでした。

 そして五日目・・・ようやく天候は回復し湿り気を含んだ空気の中に陽光が差し込んできました。しかし私はその場から動く気力を全く失っていて陽光が差し望んでいた天気がようやく訪れた事に当初は気が付かないほど憔悴し切っていたのです。でずかしばらくしてようやく気が付いたことで少し気は盛り上がったもののそれだけ、体を動かそうと言う気力を充実させるには至らずただ寝袋の中でテントの生地越しに差し込んでくる陽光の暖かさを感じるのに留まっていたのです。もうその頃には死を覚悟してしたと言っても過言ではないでしょう・・・それも漠然と。そして私はむっとしてこもった空気の下静かに目を閉じたのでした。
 次に目覚めた時は昼間だったのかテント内は非常に蒸し暑く湿気て、全身が寝袋の中にて火照り汗を猛烈にかいている事に気が付きました。当然それも普段なら慌てて熱中症等を恐れて寝袋から這い出たでしょうが、今回もその前と同じく危機を感じつつもぼうっとしてただ時の流れるままに過ごしてしまおうと言う投げ遣りな気持ちに支配されていたのです。ただそれまでとは何処か様子が違うことに私の意識はうっすらと気が付いてもいました、当初こそそれははっきりとはしていなかったのですがその汗から心地よさを感じている事に気が付いたのです。
 続けて主に手足を包まれる感触にも変化を感じつつありました。それまで直立姿勢でずっと寝袋に収まっていた筈だと言うのにどうした訳か密接して特に汗の溜まっていた脇や脇腹と腕の接する部分の不快感が消え失せ、他の部位と同じくただ表面に纏わりつく汗に心地よさを感じるのみとなっていたのでした。それに気が付いたのが狼煙となったのかは皆目分かりません、しかし変化もまたそこから加速してしばらくした頃にふともやもやっとした思いに駆られて腕に力を込めると、何と寝袋の中で棒の様になっている以外に形態を取れなかった筈の腕が自在に動くではないですか。
 それは勢いに乗って試してみた脚もそうでした、ただ何処か腹部に何かが詰まっている感じもその頃から感じ始めつつあったものです。加えて全身が何だか寸胴になって集約されるような気持ちにとらわれこれまでとは別の意味でまどろんで行きすらしていました、そして終いには私は胸も腹も何も無くなり目に映る光景に違和感を・・・一瞬目眩のような物を感じ三半規管か何かに軽い痛みを覚えた次の瞬間、私の周りの世界は一気に巨大化したのでした。途端に沸き起こる外へ出なくてはと言う気持ちは私を突き動かし、わずかに開いていたジッパーの脇から私は外へと這出ました。
 当然外でも見える光景は全てがこれまでに見た事が無いほど巨大化しており戸惑わずには入られなかったものの、私は何者かに呼ばれているかのような気持ちになりその斜面を歩いて・・・飛び跳ねながら下ったのです。程よく湿った土と落ち葉に苔の生えた斜面をそれこそ軽快に飛び跳ねて、そうして行き着いた先には窪地があり中には大量の水が満たされていました。私は何も警戒せずにそれに飛び込むと共に軽い衝撃を受けて意識と力を静かに失っていきました。
 そして消え去る最後に何故か私はここ数日間ずっと身をやつしていた寝袋の事を思い出したのです、以前から愛用していた寝袋が鼠に齧られて壊れている事に気が付き、慌てて買いに走ろうとした所で見かけた気になって仕方が無く入店した店で購入した寝袋・・・あの妖しい店で買った茶と黒の迷彩柄の寝袋とその店の名前を思い浮かべた所で私は完全に意識を消失したのでした・・・。

「ギュー・・・ギュー・・・。」
 伝え聞く話ではその年は一匹の雌のツチガエルが、何時までもその沼で鳴き続けていたとさ・・・虫食って水に入り気ままに生きて散ったとさ。


 完
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