止まらぬ歩み冬風 狐作
"いっ・・・痛い・・・畜生、ヘマしちまった・・・。"
 そう彼は強く思った、視線の先の夜空には満天の星星が輝き身の世のもので無い位までに美しく言葉を失う以外に何も無いだろう、最もそれはこの様な状態でなければの話である筈だ・・・。しかし今の彼はとてもそんな悠著な状況には無かった、それは彼の今の姿を見れば分かるであろう。Tシャツに短パンそして露出している両足の内片足は星明りに照らされ何処かもう片足と様相が異なっていた。詳しく言えばややてかっているとでも言えるだろう、まるでたれをつけた肉であるかの様に静かに輝いているその様は不気味と言えば不気味であって、そちらの脚が動く度に彼は苦痛に顔を歪めて喘ぎ動きを止めていた。それは見ているだけだと言うのにまるで見ている方も思わず顔をしかめてしまいそうな有様であった。
"助けを・・・でも行くのが・・・くそっ。"
 今、男がいるのは陸地から遠く離れた洋上に浮かぶ小さなヨットの狭い甲板の上であった。ヨット船室への入り口、そしてその中にある無線機までは後数メートルと言う短い距離であったのだがそれは余りにも遠い距離であった。それもこれも全てはあの明らかに様相がおかしい脚のせい、そして結果的には彼自身がふとした思い付きで考えはじめそして安易にした結果の非常に大きな代償に過ぎなかった。それは彼から更に数メートル離れた船首付近に散らばっているものを見れば分かるだろう、そこには海水が詰まり幾つかの棒の様な物が挿し込まれたバケツにライターそして袋に詰まった棒・・・花火が転がっていた。

 数週間前、とある都市の港を出港した彼は単身での世界一周を目指して意気揚々とヨットを操っていた。それは幼い頃から思い描き暖め続けてきた夢が現実になった記念すべき第一歩でありもう怖い事など何も考えられはしなかった、目の前に広がるのは即ちそれは夢が現実となった好ましい世界に他ならず全ては順調に思い通りに展開され昇華されて行く筈であった。いやそうでなければおかしいとも彼は考えていたとも言えよう、何故なら彼はこの実現の為にこれまでの人生を全て捧げていこうと考えていたからである。
 それを現実の物とするのに必要となる資金を稼ぐのに手段は選ばなかった、例えその仕事をしている事で周囲からどれだけけなされ爪弾き者にされようとも今に夢を実現させて見返してやろう、普通に生きていたのでは中々困難な己の夢を貫き通してやろうと固く誓い貫き通したのである。そんな末にようやく手にした機会、そして全てを万全に整えて彼は旅立っていった。流石にそれにはかつて彼を馬鹿にした人々も拍手を送り称える他には術はなかった。そこでは完全にもう立場が逆転していたからである。そして彼らは思ったかつて自らも夢を思い描いていた事をそしてそれを不可能だと決め付けて捨て去り現実に自らをあわせ、そこで自らの夢の為に驀進していた彼を馬鹿にした事を恥じ入っていた。
 だからこそ送られた拍手は混じりっ気無しに正しく彼を称えるものであり、それを受けた彼は誇らしく感じその様に振舞って旅立っていったのだった。そして1人になってからも気持ちの高揚はとどまる所を知らず正しく意気揚々として、まるで自分を祝福するかのようにヨットを進め穏やかな環境を与えてくれた自然にも感謝しつつ楽しんでいたのだった。しかし何時までも同じ状態が続くと言う事はまず有り得ないとだけはどの様な事に対しても断言は出来るだろう、そう承知していたからこそ彼は少しでも気を紛らわせ1人の寂しさ等を感じる隙すら作らぬ様に様々な物をヨットへと持ち込んでいた。
 積み込まれた物は主に本が中心であり次の寄港地まで十二分にもつだろうと踏んでいた節はあった、しかしいざ読み始めると一人でいるからなのかはたまた非日常的な空間であるからなのかは皆目わからなかったが、不思議と速いペースで一冊一冊をそうであっても丁寧に中身を把握しつつ読み終えてしまっていたのだ。恐らく最大で一日に付き8冊は下らなかっただろうしそれだからこそ予測よりも大幅に早く全てを読み終えてしまったのである、そしてそれらを再び読み返すも一度読んでしまったので最初に読んだ時の様な感動や発見に類する物が全く無く読めば読むほど早く読み終えてしまうのが常でどうしようも無い。
 そしてその様な調子で最初の目論見が崩壊したのを期に彼の夢想的かつ楽観的な考えによって大分を占めていた計画は次第に綻びを生じて破綻し始めた、それをはっきりとした形でとは言えども決して関連性はなくとも表していたのが何の前触れも無しに起きたGPS装置の故障であろう。気が付いてみると壊れていたとでも言えるその故障を期に、それまで鬱積していた物が雪崩を打って噴出し始めたかの如く彼とヨットを襲い揺るがし始めた。中でも幾つか用意してきた水タンクのほぼ半数が欠陥により水を漏らして空になってしまったのは最大の脅威であったとしか言えない。船や列車と言った自然から遮断された交通機関の中で新線で飲用可能な真水は貴重品であるのは、こうも技術が発生した現在でもかつてと変わらぬ事実であるのだから一人用のこの狭いヨットでは尚更の事だった。
 そうなって来ると寂しさと共に早く補給に修理をしなくてはと言う焦りが強く心の中で頭を持ち上げてくるのは必然であった、そしてその間で彼本来の心は板挟みとなって非常に苦しむ事となる。平常心に孤独感そして焦燥感、その3つが三つ巴となって彼の精神を内面から揺るがし始めたのはある意味では物理的な困難以上に難しい問題が生じたと出切るだろう、確かに物理的な問題、つまり水・食料・燃料の不足は一時的な危機に人を陥れると言う事には全く異存は無い。しかしその先に存在するのは再び補給なりされての機器からの脱却かそれとも補給もままならずに危機が拡大し最終的には死への坂道を転がり落ちていくかの二択しか存在し得ない。
 だが精神的な内面の問題と言うのは物理的の様に何かを与える等すれば解決と言った単純な解決方法は殆どの場合存在せず、例え同じ事実に原因があってもそれぞれ対処法は異なると言う明確な処方箋が存在しない厄介な事柄だろう。その結果として三つ巴の悪循環にすっかりはまってしまった彼は数日の内にすっかり疲弊してしまい、必要であるからこそ操舵をする以外は船室のベッドに横たわってただ天井を眺めるだけの日々を送っていた。加えて自分が原因で折角掴んだ機会を途中で失いたくないと言う意固地な思いも作用して定時連絡では全く平気な様に取り付く有様だからもう救い様が周囲にはなかった、それを知る事すら当人によって阻まれていたのだから非難するのは大変な筋違いとしか言う事が出来ない。
 そんな自虐的な行為を自ら進んで行っていた彼がそんな時にふと思い出したのが件の花火だった、彼はずっとその存在を忘れていたのである。だがとうとう自らもこのままでは自滅してしまうと悟った彼が、報告で言う前に何か気分を晴らす方法は残されていないかと頭をひねると共に思い出されたと言う事なのだ。そして時計を見て外を見ればそこは誰一人として至近には存在しない絶海の洋上、加えて空に散りばめられた星星の宝石は彼の押し潰され掛けていた平常心に俄然力を与え蘇らせたのだ。三つ巴の中で最も弱くそして今にも押しつぶされ消されかけていた平常心に、狂人の一歩手前から彼を救い出したのである。そしてすぐさま室内から花火とライターを持ち出しバケツにどうにか海水をくべて積めて船首近くで始めた。
 それはささやかな南洋上の花火大会であった、彼を精神的な苦痛と圧迫の中から救い出す最善の手段だった。事実彼の一時の死んだ魚の様な虚ろであった瞳には再び輝きが戻り力がこみ上げ始めていたからである、そして再び事態は好転し彼もヨットもそして旅も良い方向へと転がるかと思われたそんな矢先その出来事は起きてしまった。あくまでも彼個人のミスが原因となって、辺りの波の音だけの静けさを一瞬引き裂き尾を引く悲鳴・・・そして彼は倒れ臥し丸くなって脚をかばいながら呻くのだった。わずかに離れた洋上にて波に揺れる焦げた棒、それは誰もが見覚えのある花火の棒に他ならなかった。彼はうっかり花火に火をつけ違えたのである、そしてそれに気が付いた次の瞬間には絶叫していたのだった。

「気が付いたかね・・・君?」
 声をかけられてふと目を覚ますとそこはヨットの上ではなかった、湿気を含んだ風に満たされた簡単な小屋の中に作られているベッドの上に寝かされていた。そして枕元から顔を見せ声をかけて来るのは白く長い顎鬚が特徴的な老人で何とも温和な顔をしていた。
「海岸に流れ着いておってな、治療はしておいたぞ。」
 そう言って老人は彼の反応を待たずに一枚の薄いシーツを剥ぐとその脚を露わにした、その瞬間彼の脳裏には星明りの下での苦痛と爛れた脚の情景が思い出されて気分を悪くせずにはならなかった。だが老人に促されるがままに見たそこにあったのは白い包帯でぐるっと巻かれた火傷した箇所、脛の正視に耐えるまともでありながら異質と言う微妙な姿となっていた。
「しかし中々の火傷であったぞ、ズボンに引火しなかったのが不幸中の幸いとでも言うものかの。」
 と何か箱の様な物を運びながら老人は呟いた。余りにもよろよろとしながら運んでいるので見かねた彼が布団から起き上がって立ち上がろうとすると途端にそれを静止する、それに続いて彼も治まっていた痛みが軽く動かした事によって再発したのを感じ動きを止めて素直にそれに従った。そして言われるがままに再び目を閉じ眠りへ落ちた、そして今しばらく眠り続けるのだった。

 次に目覚めたのは矢張り刺激によるものだった、とは言えそれは何らかの意味を明確に解した物ではなく抽象的な痛みであった。足の包帯の下からの激痛・・・目を覚ますとすっかり寝汗を書いているのに気が付きながら彼は耐え時折呻いていた。辺りは暗く薄く灯されたランプの明かり以外は外からの月明かりのみですっかり闇に包まれていた。だがあの老医師も寝付いてしまっているのか全く気が付いてくる気配は微塵にも感じられなかった。そしてそのまま寝付けず彼は呻き苦しみ続けた、何時の頃からは包帯と接する皮膚の感覚に幾らかの硬さすらも感じつつあり極めて不快な気持ちの上を漂い一夜を明かす事となった。そしてその不快さは朝日が差し込むと共に消え去っていった。
「ふむ・・・何とも無いのう。気のせいではないかな?」
 夜の事を幾ら訴えても包帯を換えながら老医師の言う言葉は常に変わらなかった、絶対そうではなく何かが起きていると彼は感じていたのだがそれはとても確かめられなかった。何故なら夜寝れない事で元々落ちていた体力と相まっていよいよ気力が弱まっていたからである、それだから初日の様に腰を支点として体を丸めて持ち上げる事も不可能であり全てを老医師の言う事を鵜呑みにするしかなかった。そしてそれからも毎夜の如く彼はその得体のしれない感覚に苛まれる事となる。そして朝日と共に残されるのは強い倦怠感と疲労感・・・それと共に体力ばかりか体の感覚、そして体その物が消えて行くような錯覚を受け始めたのはほぼ一週間が経過した時の事だった。
 その頃から喋る事すら億劫になり老医師に食事を与えられる始末ともなっていたが、むしろそうしてもらう事をどこかで喜んでいる自分に気が付いたのもその時だった。そして更に自体は加速し三週間もした頃には考える事すら鬱陶しくなっていた。何もかもが小さい何かへと収縮していくという感じ、何だか一肌脱げて行くそんな調子だった。それはただ体を覆っている肌と言う事ではないだろう、何だかこうこれまで背負ってきて歩んで積み重なってきた人生や記憶をも含めて脱げて行く気がしてならなかった。だがそれに対して彼は全く怖がろうとはしていなかったむしろ混迷する意識の中で歓迎すらしていたのかもしれない、その中ではあの長年の夢の実現した形すらも馬鹿馬鹿しくてしょうがなかった。
 もう今はそれらが全て消えた後のさっぱりとして軽くなった自分を楽しみに思う他には何も浮かんでは来ず、そして何時の頃か分からぬ内に彼と言う存在も脱げて一新された。つまりは人としての彼は消えたと言う事なのだ。そして一肌脱げた彼はシーツの中に一匹の大蛇となってとぐろを巻いて眠っていた・・・幾つかの大きな抜け殻をそこに残して蛇へと身をやつしたのだった。

「ふん・・・ようやく交代出来るかと思えたがまだまだと言う事か・・・縛られし者の宿命なのだろうが、うむ・・・。」
 そう老医師は1人暗闇の中に立ち竦んで呟いた、その首には長い物が・・・わずかに差し込んでくる光にその鱗の緑を輝かせる大蛇が巻き付きわずかに動いていた。老医師はその頭を軽く撫でると導く様に地面へと下ろし暗闇の先を指差してこう言い放った。
「さぁ行くがいいぞ、母なる神の下へ・・・それがお前の定めじゃ。」
 すると地面の足元の辺りをうろうろしていた蛇は理解したかのように鎌首を持ち上げて一瞥すると静かに暗闇の奥へと消えていった、それを見送りふと老医師は視線を上へと上げこう呟いて静かにその場を後にした。
「また1人あなた様の下にお返ししましたぞ、温かく迎えてやって下さいませ・・・。そしてわしには何時になったらお役を、お皮を引き受けてくれる者が現れるのでしょうなぁ、そろそろわしも疲れましてな。」
 と呟く老医師の瞳は縦長の人ならざる蛇の瞳、そして蛇人へと何時しか姿を変えると静かにその場から立ち去っていった。見上げた先にあった巨大な女蛇の彫像に一礼をしたその体で対にある出口へ向けて消えていった、そしてその服の捲れた大腿部には一部他の箇所とやや色彩が異なる箇所を垣間見せて・・・彼の歩みはまだ終わらない、かつて人から人ならざる者へと生まれ変わり役を引き継いだ老医師の歩みは彼のそれを引き継ぐ者が現れるまで。蛇神の使いとして選ばれ縛られた老医師の歩みは終わらない。


 完
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