美化志望に黒い影・第二章冬風 狐作
 大学の入学式も終えて講義も始まりすっかり馴染んだ頃、穏やかに訪れた5月の連休に夕美は一ヶ月と少し振りにあの事務所へと顔を出した。事前に連絡を取ってあったのであの時に応対してくれた女が待ち構えており、そのまま上の階へと事務所の中にあるエレベータに乗って向かった。今日から数日間、彼女はあの時に申し込んだプランを受ける。エレベータのドアが開くと早速専用の個室に通されて持ってきた手荷物を置き着替えるとまずは良くあるエステを丹念に、とてもそれはこのビルの外観からは想像出来ない様な清潔で簡潔にまとまった豪華な空間だった。
 その中で丹念に全身にエステをまず施されるとその余りの気持ちよさにまるで魂から溶かされるのではないかと思えてしまう・・・生まれて初めてのエステを絶妙な感覚の中で受けてその日は終わった。これで10万円というのだから安いかも・・・ふとそう思いながら用意されていた夕食を摂り早々に眠りに就く、そして翌日も続きを受けた。たった一晩寝ただけで昨日の記憶と交錯してもう気持ちよくてならなかった、室内に漂うかすかな良い花のような香りと心地よいBGMによって体だけではなく心までもが解され酔わされる有様で夢を見ているのではないかとすら感じたものだった。
 そして日は流れ迎えた4日目、彼女に差し出されたのはあの真っ白なスーツだった。ここ3日間に施された事ですっかり高揚していた夕美は進んでそれへ体を沈める、かつて契約を結んだ時に言われた様にエステの最中に体の寸法を測ったのか全くぴっちりと肌に張り付くように輪郭を描き出す。彼女のなんちゃって小太り気味の体とは言えこの間のエステと彼女自身の節制により多少なりとも以前と比べれば引き締まった体はより引き締められ、全身スーツであるから着用して実質的に中に閉じ込められているに近く夕美は少々苦しくも感じた。
 だが上手く出来ている物で基本的に素材は空気も何も通さないラバーではあるが、口元の辺りは特殊な素材のようで限りなくラバーに近くそしてその様にしか見れないと言うのに呼吸が出来るという代物だった。だから苦しいというのは息苦しさではなく体が締められた事により骨格が矯正され、余計な彼女が理想とする体型には不要な肉が居場所である弛みを失い強引に押し込められたからである。そして手を惹かれて導かれていくと扉の開く音と共に強い熱気に晒された、熱い空気が唯一外の世界に通じている口元の素材を通じて呼気となって肺に流れ込んできた。

 いきなりの熱気に肺を焦がしながら言われるに従い中へ立ち入った所で、背中を軽く押された夕美は思わずその場に転がってしまった。次いでそれを無視するかのように扉が閉じられ鍵がかけられる音が響きその熱気の中へと夕美は1人取り残された・・・視界が今は一時的に奪われているので正確には言えないが恐らくはサウナかそれに類似した部屋だろう。
 その中で気密性が既に書いた様に恐ろしいほど高いスーツはここでは地獄をもたらす責め具と化した、幾ら水等は通さないとは言え熱は通す。瞬く間に熱がこもり釣られて全身が強い熱に苛まれてならない、そしてそれは全く抜けようとはしないのだ、ひたすらに体温を上げ続け肌という肌の汗腺からは汗がそれこそ溢れんばかりにわずかな極小の隙間へと噴出しそして溜まっていく。
 更に熱と汗で皮膚が焼けるのが良く分かった、塩が染みてわずかな動きで擦り込まれ全身が千切れんばかりに痛みを抱えて訴え始める。だが何も出来ない、その場で寝転んで痙攣と蠕動をする以外には何を試みてもする事は出来なかった。耳には己の発する唸り声が聞こえてくる・・・まるで獣の様な唸り声だと熱ですっかり茹って惚けかけている意識の底でふと思う。もう頭が痛くてならなかった、加えて酷い渇きは脱水症状になりかけている事を切に訴えるが如何にもならない。そしてこの時に及んでようやく夕美は死という物を意識した、加えて騙されたのではないかと、自分をこの様にして殺し大学生とは言えそれなりに持ち合わせている財産を巻き上げられてしまうのではないかと。
 とは言え例え思ってもそこ止まりだった、もう思考に耐えうる状態に意識がなかったからである。もう今にも失われそうかと言う頃にふと全てが絶望とも言えるその中で、意識を繋ぎ止める物が現れたのは何とも絶妙であったと言う他無いだろう。何とその空間に音楽の様な物が流れ始めたのだから・・・熱以外の新鮮な刺激に意識は本能的に反応し踏み止まった。単調でもなくそう複雑でもない中途半端なリズムの曲は何とも心を惹きそして何かを閃かせ次いで連想させた、連想によって浮かんだ物は細い理想の体を得た自分。幸せそうな己を夕美は思い浮かべていたのだ。  だがどうした訳か途中から曲の調子が変わり次第にその姿に混乱がおきてようやく再び形となった時それは全く異なった物へと・・・何故か艶かしい雌鹿がそこにはあった。そしてそれから鹿に関する様々な連想が始まっていく、その謎の展開は如何言っても説明する事は中々に困難でどうしてそうなのかは恐らく言えないだろう。ただ一時的にしろその流れが夕美を救ったとも言えるかもしれない、何故ならその間彼女は全く苦痛を忘れて連想に夢中になっていたからだ。その出来事は例え平時であってもありうる事だから特段不思議な出来事ではないのだろうが、その事とまるで呼応するかの様に連想以上に不可解な出来事が表では起きていた。

 夕美の中から表へと目を転じると焦げる様な熱気に満ちた空間の中に白い物が横たわっている、これこそ中に彼女がおりそして閉じ込めているスーツである。もしこの素材が綿であれば今頃は汗が滴りその場にて蒸発しているという光景が見られるかもしれないし、或いはリンパ液が染み出していたかもしれない。しかしラバーである以上表面上は何とも穏やかで平然としている、まるで包み焼きのアルミホイルの如く熱を中に蓄えて静かにと・・・だが何時の辺りからか無数の小さな点の様な物が表面に浮き上がれ始めた。それはどこか乾いた血液の様に赤黒い黒点で精神衛生上余り好ましい色でない、それが無数に次から次へと出現しているのだから尚更である。
 それでもそんな事はお構いなしと言った調子で白の変わりに赤黒くおぞましい色に染まり切ったかと思うと、今度は変色を始めた。赤黒い色は次第に比較すればだいぶ明るいパステル系の茶褐色に、背骨に沿って細く濃い茶色が走っており腹部などは大分白い物になっている。次いで体が再び蠕動し始めた、最初は芋虫の如くその場で痙攣するだけだったが次第に骨格が各々動く形へと移り変わる。ラバーである光沢の表面は全くそれに従って動いていく、何の歪みも見せる事無く自然な動きを見せていた。そうあの赤黒い色が浮かび上がると共にラバーは皮膚との間にあるわずかな隙間を無くしていたのだ、皮膚と硬く結合して馴染んで癒着・・・人工的な物質と自然の産物の結びつきはそれこそ堅固で最早違和感は微塵も無かった。
 始めに明らかな変化を見せたのは首と頭だった、元々長めだったその首がわずかに伸び次いで鼻の頭が動いて顎全体が前へと突き出る。そして箱型に近い形で上顎の方がわずかに前へ突き出た格好となった時には、黒く湿った鼻の頂点眉間に至るまでは緩やかなラインが描かれており耳も羽の様に浮き上がってその存在感を主張していた。それと同調して明らかに変化を終えた箇所はラバーの無機質さから肉の有機質さを鮮明とし、ラバーの生地の色に沿った配色で獣毛が覆って起き上がっていく。
 変化は顔から下へと続き元の体型を生かしつつもほっそりとした夕美の臨んでいた姿となった輪郭に加えて、その胸には以前は乏しかった膨らみがはっきりと現れる。それも一つではない、その本来の位置の下にも1つ加えてもう1つ・・・合計で6つもの乳房が出現している。但し本来の位置にある一番上の物を筆頭の大きさとして下に落ちるにつれて小さくなってはいるが存在感は大きい。
 そしてこちらもほっそりとしつつも全身と同じくつくべき筋肉はついて豊かな獣毛に沿って良く分かる腕に脚、手は五指のままで指先が硬質化した蹄となり足に至っては踵との間が伸びた俗に言う獣脚になっていた。一番下にあるのは2つに割れた偶蹄で人ではない事を完全に示している・・・そして尾てい骨の辺りからは控えめな尻尾が、背中の毛並みには白い斑点のような物が幾つか浮き出ていた。もうどこにもラバーの面影は残されていなかった。
   そうして再び時間が流れる・・・。

 夕美が不意に正気を取り戻したのは長い時間が過ぎ去った後の事だった、彼女が気が付いたのはベッドの上だった。窓は格子付きで摺りガラスで淡い光としてしか外の明かりは入ってこない、そして天井には蛍光灯が二本あるのみで後はカーテンで全てが覆われていると言う病室の様な一角だった。
"あれ・・・何時の間に・・・?どうしちゃったんだろ・・・。"
 そう思って視線を前に上げるとそこには何故か一枚の平鏡が置かれていた、そこには何かが写っている・・・位置からしてそれは自分の顔だと彼女はすぐに直感した。だが何故だかおかしい、どうにもまず色が変な様に感じられたが気のせいだろうと直視した瞬間彼女は固まり次に悲鳴が上がった。ただその悲鳴も聞き慣れない物で甲高く突き抜けるかのように鋭い、何よりも喉から発せられるその時の具合がこれまでに感じた事のない物だったのだから。そして鏡に写っていた物・・・それは確かに顔だった、それも夕美の。しかし夕美ではなく人でもなかった、それは獣だった、一匹の雌鹿の顔がそこには写っていたのだから。
「あっお目覚めになられましたね、小池夕美様・・・成功しましたよ。」
 その悲鳴を待ち構えていた様にカーテンの向こうから人影が躍り出てきた、それはあの女だった。契約の時から自分をエステの始まりまで何かと関係してきた女である。その顔には笑いが浮かんでいた、そして今の夕美の姿を見ても何ら動じている素振りは見られず淡々として喜びを示して反応を窺っているのみだった。それに対して夕美は強い調子で混乱しつつも何事かと捲くし立てた、それは詰まる所の文句で彼女はどうしてこんな姿になっているのか、元の姿に戻すようにと強く訴えたが口の形状が変わってしまったせいかどうしても思う様に言葉が紡がれない。それに焦れば焦るほどますます酷くなって終いには鹿が本当に啼き叫んでいるのと変わらなくなってしまうほど、自らに失望してそれを止めた時には完全に女は笑っていた。
「ははははっ・・・もぅ何を言われるのかと思ったら、そんな事を・・・。小池様、契約書に書かれていた通りに私共はしただけですのよ。」
「そんな筈はないですっ・・・わっ私はただ望みの体型になれるからと聞いて書いただけです。」
「えぇ確かにそう言いましたね、そしてもう1つ・・・しっかりと契約書をお読み下さいとも。そしてそこにはこう書かれていた筈ですよ、契約に同意した場合は明らかな過失の無い限り全てお客様の責任によりますと。私共は契約に従って小池様が求められた通りに致しましただけですから・・・ですから、お気に召さずに仮に元の体に戻りたいのでしたら新たなる契約を結んで頂かねばなりませんね。」
 そう言ってキッと視線を強めて夕美の瞳を見つめた、すると途端に夕美の体は緊張し始めて呼吸すらも侭ならなくなるのではと言うほどに硬直してしまう。どうもその女の発する視線からは本能的に相容れない物の気配を感じてならなかった、その気配は強くとても抗し難い。今の彼女は人と鹿の交じり合った姿をしている、どちらも哺乳類である事には変わりがないが鹿は草食獣でそれに対するのは肉食獣・・・女の発する気配にはそれと共通する物が多分に感じられたのだった。
「契約・・・ですか・・・それで本当に戻れるのですか・・・?」
「戻れますとも、私共が言う事に間違いはございません。但し相応の支払いを頂く事となりますよ?」
「・・・どれほどですか?」
「そうですね・・・〆て違約金を含めて50万円と言う所ですね。後、小池様からはまだ未払いの代金がございましてこちらも利子付きで計算しますと今日の時点で1280万円・・・合計で1330万円を支払っていく事になります。」
 わずかな間の後に平然と計れた数字に思わず目を点にして言葉を失う夕美、そして今になってようやく自分が完全にそう言った悪徳商法に引っかかりとんでもない境遇に様々な面から置かれている事を痛感したのであった。そして無駄と分かりながらも抵抗を試みた、そんなのは事前に承知していないと強く。だが事前に悟っていたようにそれは無駄な事に過ぎなかった。ことごとく論破された後夕美は再び契約書に署名する立場へと完全に追い込まれていた、まだ慣れぬ不本意の内に変えられてしまった体で己の名前を書かねばなら無いと言う。
 これほど強く屈辱的な事はなかった、名前を書く為に筆を進める度に強い侮辱を受けている様な気がしてならず3枚の契約書に署名し終えた時には、涙が一気に溢れ出てシーツの上へと突っ伏さなくてはいられなかった。新たに契約によって課せられた条件は金を支払う事、それも今日の時点で1330万円と言う巨額の物を借金として負い返済せねばならなくなったのである。それは法外な利率によって一日一日と経つ度にねずみ算式に膨らんでいくのだからとても耐えられなかった、加えてこの体である。もし人の体であったらそう言った機関に訴えでる事も出来ようがこの中途半端な体ではとても不可能、全ては憎き存在へと委ねなくては生きて行く事すら出来るかどうかわからないのだから・・・。
 選択肢と言う選択肢を阻まれて夕美は3枚の内の1枚の契約書にて実質的に己を自ら売る内容の契約を結ばされていた、そこでは借金完済と共に契約は解除され自由の身になると記されていたが、この条項は恐らく発動される事の無いままで終わるのだろう。
 この様な体で一体どうすれば金が稼げると言うのだろうか、考えられるのは唯一体を売ると言う事だがこんな体を好むような人物は余程の好事家にしか過ぎないだろう。更に稼いだ金の多くはリベートとして返済とは別に収めなくてはならないと言う文言もあったからとても覚束無い事は明白・・・もう二度とあの太陽を大手を振って浴びる事の出来ない立場へと堕ちてしまった事を、薄暗い部屋の中で契約書3通のコピーをシーツの上に散らして涙と共に痛感するしか何も出来なかった。
 そして夜は明ける、今の彼女にとっては絶望と非常識かつ未知に包まれた最悪の日々の始まりにしか過ぎなかった。


 続
美化志望に黒い影・第三章
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