浜田時恵という名前の恋人の行方がわかったのは唐突な事だった。いや正確に言えばかつて恋人であったと言うべきなのかもしれない。分かったきっかけは一通の国際郵便、全く覚えが無かったので受け取った彼、宮元高彦は幾度と無くその封筒を前にして躊躇したことか分からない。しかし裏に書かれていた差出人の名前が彼を動かした、そこに書かれていたのは恋人の名、数年前に大学卒業と共にいきなり行方をくらませてしまった懐かしい名前であった。
訝しがった事を悪く思いながら封を切った後に出てきた中身は全てが彼女、浜田時恵の物だった。いきなり姿を消した事への謝りと近況報告の手書きの綴りに最近取られたと思われる写真、その顔は記憶に残る物と殆ど変わりは無かったが色白であった肌が小麦色に焼けているのが何とも印象的だった。無事に生活している事を知って胸を撫で下ろしどこかで引っ掛かっていた何かが落ちたのを感じると、彼はすぐさま机に向かって腰掛けて自らも彼女に倣い手書きで綴り始めた、最後に出会ってから今日までの近況に思いをひたすらに彼は綴ったのである。
そう彼女が今なおその文面から読み取れる様に自らを想っているのと同じく、自らも時恵の事を想い忘れてはいないと言う事を証明すべく一心不乱になって彼は書き表した。時と我を忘れてそれこそ夢中になってただただ書き連ね全てを書き終えた時にはカーテンの外の世界はすっかり夕闇に包まれていた。そしてその足で外に出た彼は早速手紙を投函する、微笑みを浮かべ期待と喜びを胸に強く感じながらその手を動かした。ポストの中へ吸い込まれる際の音は止まっていた2人の時間が再び動き出した事を告げる鐘の音に等しかった。
そしてその後繰り返されたやり取りの間に彼はある決意を胸の内に固めていた、それは彼女に直接会おうと言うものでやり取りを重ねて直筆の文面を読めば読むほど思いが募って仕方がなかったからである。幸いにして彼にはその辺鄙な島国の端に位置し時恵の滞在する小島へ行くだけの時間と資金を持ち合わせており、その気になれば何時でも実行できる状態にあった。だから彼にとって最も悩んだ事はただ1つ、自らが訪れる事を時恵に伝えるべきか否かと言う事だ。
確かにこれまでの事を思うと港位まで迎えに来てはもらいたかった、しかしそれでは少し恥ずかしいし何よりも事前に知らせている訳だから色々と準備をされてしまう訳である。彼はそれを面白くない事だと感じていた、彼もまた彼女を驚かせたかった・・・初めての手紙を受け取った時の自分の様な驚きを時恵にも感じさせたかったからである。とは言え手紙とは違い人である自分がいくのだから例え一日程度の滞在とは言え、長時間に渡って彼女の行動を束縛してしまう事は否めない。流石にそれは失礼であると感じたので彼は郵便局に問い合わせる等して平均的な配達所要日数を計算し、自分が島に到着する前日辺りに彼女の手元に行く胸を記した手紙が届く様に仕組んで自らもしばらくの間を置いて旅立った。大体3日程度の間を置いて彼は、道田忠彦は日本を離れた。
直行する便は日本から存在しない島国であるから、唯一国際便の発着する首都の空港に至るまでに2回の乗換を経てようやく忠彦はその国の土を踏んだ。ここに至るまで途中の中継地の空港内で一泊したので2日がかりで辿り着いた訳であり、そのままターミナル前に止まっていたタクシーに乗り明後日に出港する島へ向けての週一便の定期船までしばらく滞在した後、早朝の日が昇った頃に出港した定期船の客となって一路海路を西へ・・・本来なら一泊二日の行程であるのだが途中でエンジンが故障した為に二泊三日となってようやく島に辿り着いた時はもう日付が変わりかけていた。
"流石に今からじゃ不味いか・・・多分寝てるだろうし、ひとまずは宿だな。"
時間も遅い事もあって翌日の朝に時恵の元を訪れる事にして、船から下りるとこの島で唯一外国人が宿泊する事が出来る宿を目指して歩き始めた。こんな自然に恵まれた小さな島だから治安は良く、夜中に独りで彷徨っていても安心と言う事は国内にて情報を集めていた際に複数耳にしたのですっかり気を緩めて、最もこれには疲れも若干加味されているからだろうがフラリフラリと夜の街を横切る。
そして港からしばらく行った所にある宿の玄関をくぐってフロントに部屋を訪ねたその時、ぼうっとしていた忠彦は不意に我に返った。何の前触れも無しに後から肩を叩かれたからである、とは言え我に返ったもののそれで疲れが一層されて正常な判断能力が戻ってきたという事は無く、それこそ勢いに任せて反射的に振り返り文句の1つでも言ってやる。そんな無作法な対応をする事で一種の憂さ晴らしでもしようかと仕掛けたその時、忠彦は思わず目を丸くしてそのまま固まった。
それは驚きだった、背後からフロントで応対していた係員が声をかけてきても反応しない、いや出来ないほどの驚きの出来事だったのだ。何故ならそこには意外であり想定外の顔が微笑んでいたのだから、何の事は無いそう彼女の浜田時恵の顔があったのだから。
「久し振りだね忠彦、来るのならちゃんと連絡してよね。もう。」
「あっ・・・あぁごめん、いやちょっと驚かせたくってさ。ほら時恵だって俺に手紙をくれた時・・・。」
いきなりの事に混乱してそこで言葉が詰まる、驚きに包まれていた彼はとにかく頭の中を混乱させていた。言うべき事は分かっていると言うのに浮かんで来ないと言うもどかしさに苦しみながら、彼は振り絞る様に声を紡いだ。
「いきなりだっただろ、だからそのお返しにさって思ったんだよ・・・。」
思わず顔を赤らめて語尾も不明確になって彼は頭を垂れて反応を待った。実際にはわずか数秒程度に過ぎない間がその時にはまるで永遠に続くかの様に感じられ極度に息が詰まってならなかったが、そんな忠彦を時恵は軽く頭に手を載せて応じた。これは大学時代に付き合っていた頃からの時恵の癖であり思わず忠彦は、これまでに無い感動を覚えるとしばらくそのまま衆人の目の下にあることも忘れてその姿勢のままでいたのであった。
そして2人はその足で宿を出て時恵の住まう郊外の家へと移動する。程よい湿気と暖かさに包まれた南国の島の夜、以来一週間の間滞在すると帰りは空路で忠彦は帰国の途に着いた。プロペラ機の窓から見える時恵の姿、そして離陸後次第に遠ざかっていく島の姿に思わず忠彦は目尻が熱くなってならなかった。
それから更に数年が過ぎ去った、ふと休日と言う事もあって近所に散歩に出た忠彦はふと数年前の事を思い出す。あの島国へと恋人に会いに行った時の事を、出国し帰国した頃にはまだ寒々しい光景の広がっていた日本も今は新緑に溢れていた。そうしてあちらこちらより田植えが始まったとかそう言ったニュースが流れ、耳にしただけで何処か何もかもが華やいでいた事をそんな気配が強く感じられたものだったのを。だがそんな時に飛び込んできた1つのニュース、そしてまたしても一通の国際郵便が忠彦の元へと舞い込んで来たのである。
まずニュース、それは南海の小国で国軍の非主流派が決起し全土が内乱状態に陥っていると言うものであった。そしてその国名はベルヌン共和国・・・そう彼女の、時恵の住まう国である。彼が一気にそのニュースへと関心を寄せたのは当然だろう、考えてみればあの出会いの後しばらく数回のやり取りの後にやり取りは途絶えて今に至っているのだから、彼女の事に直接触れてはいないとは言え間接的に関係している記事であるからそれこそ飛び付いたと言う訳だ。
次いでそのニュースに遅れる事数日をして届いたのが一通の国際郵便、それも航空便を経て送られてきた物だった。差し出し国はあのベルヌン共和国、差出人は見たことも無い名前で出された住所も共和国の首都の物で明らかに覚えが無かったが、この様な時に届いたからこそ忠彦は一点の疑いも抱かずに開封し読む。そこで彼は打ちのめされた様な気分にされ我が目を疑い幾度と無く読み返した。しかしそれだけの内容が変わる筈も無く歴然として内容を伝える文面を一瞬彼は何かの間違いだと自らに言い聞かせかけた、だがすぐに今一度直視して内容を読み砕く・・・ようやく落ち着いた時には5分もの時間が過ぎていたほどだった。
どうしてそこまで時間を費やすほど動揺したのだろう、理由は非常に明快で簡潔だった。その文面の伝えていた内容とはつまり時恵が数年前より行方不明である事、そして自分が、つまりはその差出人がそれに関係しているので早急に直接会う事を希望している・・・その2つのみ。そしてご丁寧にもそこには別紙に細々と、消印から見て騒乱発生直後に書いたらしく空路が不通の際の手段まで全てが手配されていた。全く用意周到にして・・・もうすぐに来る事を確信しているそんな気配であった、すぐさまカレンダーとを見比べると次に預金通帳を見て小さく頷いた。そしてその姿は4日後、空港の出国ゲートをくぐり再び数年前のあの時と同じく旅立ったのであった。
だが後一歩で目的地と言う所で彼は手紙の差出人が予想していた通りに足止めを食らうことになる。騒乱の結果、首都の空港を巡って体制派国軍と反体制派国軍が激しい戦闘を繰り返しており航空機の離発着が実質的に不可能となっている為だと言う。それを空港にて聞いた忠彦は払い戻し等で騒然としていたカウンター前から静かに立ち去りその足で港へ向かう。港では同封されていた地図を元に彷徨った挙句、隅も隅に停泊していた如何にも怪しいと思わせる気配を漂わせた老朽貨物船の船員に、別のに同封されていた一通の書状を見せるとすぐに船内へと招き入れられ、そのまま乗り込んだままで船は静かにその晩にまるで隠れるかの様に出港した。
そして場面は冒頭のシーンへと戻る、空路なら4時間の道程は船のエンジンが今にも止まりそうなほどの古さであった為に6日間、途中で海軍の臨検を受ける等はしたものの首都と同じ島でありながらその北部にあるこの国では第二の規模を誇る都市の港へと何とか入港を果たした。第二の規模、と言っても二万人程度の日本で言うなら街や村のレベルに過ぎないこの町は、どうやら元から反体制派が掌握していたらしく戦火の痕跡は微塵も見当たりはしない。
ただ街中には普段通りの生活を送る市民とは別にあちらこちらに完全武装の兵士と警官の姿が見え、装甲車や軍用トラックの類が首都へ直結している国道を高速で走り抜けていく慌しい光景が並存しており、それらからはピリピリとした緊張感が強く漂っていた。そう戦時と言う・・・忠彦は目の前を通り過ぎ首都周辺の戦場へと急ぐ軍用トラックを見ては飛び乗りたい衝動に駆られて仕方が無かった。
しかしここで何かヘマをしでかして全てが水に流れてしまっては何のために危険を冒してここまで来たのか全く意味が分からない。ここは含む所があるのを押さえ込んで手紙の内容に従い指定された宿に投宿し、宿の主人にその旨を告げると反応はすぐにあった。それはその場で主人の口から伝えられたのだ、数日ここで待機している様にと・・・。忠彦はそれに対して何か言葉が喉のすぐそこにまで込み上げて来たものだったが、再び押さえ込み何とか堪えては宿の一室にこもり、街中を彷徨ってはただただ首都のある方角を眺め見て時恵の事、そして自分に手紙を寄越し数年前より行方不明となっている時恵について事情を知っていると書いていた差出人について色々と考えを巡らせてその時を待つのだった。