見栄えと面子冬風 狐作
 赤道近くの常夏のとある島国、そこに比較的大きめなそれでいて人は少なく原始のままの自然の残されている島があった。そして観光地として、世界遺産等には登録されておらずまたそう宣伝もされていないと言うのに密かな人気を集め、世界各国から愛好家を中心に人々の集まる様々な意味で濃い場所となっていた。
   島に住む人々は南端にある唯一の町に居住している、そこには天然の良港とプロペラ機が辛うじて離発着出来る程度の小さな空港が存在していた。空海共に数日に1往復、その島国の首都との間を結ぶ定期便が発着する以外は国境警備隊関連の運用と漁船の利用がある程度で至って静かなものである。そしてそんな港に数日振りに到着した貨客船、降り立つ人々の中にその女性は含まれていた。一見すると何の変哲も無い観光客然と振舞いつつ彼女は島への第一歩を踏み出した。

「どうしたものか・・・捕獲失敗とは。」
「もう日にちは無いと言うのに・・・。」
 頭を抱える人々、彼らは共通の話題である悩みを共用していた。
「あと数日しかないのだぞ。どうするんだ。」
「そんな事は分かっている、しかしどうすれば良いんだ。」
 会議は踊るされど進まず・・・言葉がそこでは踊っていた。

 電話がけたたましく鳴り響く、静かなる島の朝の時間を打ち破るかの様に。まだまどろみの中にいた時恵は慌てて現実へと引き戻されその受話器を手に取った。ただその受取った声は不機嫌ではなかった、むしろ機嫌が良い。何故であろうか?だがそんな事を考えている間に簡単に着替えて支度を整えた彼女は飛び出す様に家を出た。そして止めてあった自転車を漕いで簡易舗装の道を下っていく、彼女の家は比較的高台にある。そこからは真青い大洋が手に取る様に見渡せる絶好の場所であった。
「時恵です、いま着きました。」
 町の外れの岬近く、そこにはこの島の自然を政府から委託されて管理研究に当たっている研究所があった。幾つかの建物より構成されている研究所の主な機能は、その中でも比較的大きい2つの建物に集約され運営されている。一方は研究に当たる機関、そしてもう一方はそれを一般向けに公開展示する機関・・・要は後者は博物館と言う事である。ただ観光名所で島の自然を一堂に紹介し把握出来る人気スポットであったのだが、目玉となる展示品が無い事に常々頭を抱えてもいた。そんな博物館の建物へとオンボロ自転車に跨った時恵はブレーキの音も高らかに入って行った。
「あぁ時恵さん、いいよーいいよーたいじょぶ、だいじょぶ。じゃこち来てねぇ。」
 やや慌て気味で入って来た時恵を迎えたのは異国だと言うのに日本語、ただどこかイントネーションのずれた笑える物である。それを発しながら近付いてきたのは若く明らかにその外貌は日本人ではない異国の民であった、だがそれにどちらも違和感と言う感情を抱く事無く挨拶を交わすと事務所の奥へと彼は時恵を連れて行った。そして配管等が張り巡らされた狭い通路を通って辿り着いた先には1人の人影が待ち構えていた。
「所長、時恵を連れてきましたよ。」
「あぁ分かった、じゃあ今から言う事を聞いてから通訳してくれ。」
「わかりました。」
 時恵を除いた2人の交わす言葉は英語である、英語が飛び交う中で時恵は平然としてはいるが実のところその意味は全く解せずただ突っ立っているだけである。そう彼女は初歩の初歩の英語しか分からない、加えてそれ以外の外国語は全く素養も知識もなかった。言わば母語である日本語しか分からないと言う事なのだが、どうしてこんな日本を遠く離れたこの地域に住む海洋民族の言語と英語しか通用しない島に彼女がいるのか、それには彼女の抱いていたある想い・・・時として野望とも願望とも呼ばれ方を変えられる物が存在していた。

 彼女がこの島へ来たのは、冒頭の観光客と共に上陸したのはもう2年も前の事だ。だからもう彼女も何処か日本人的な雰囲気を残しつつもすっかりこの島の雰囲気に馴染んでおり、時折現れる日本人観光客のガイド等をして生計を立てていた。だが英語が満足に話せないと言うのは大きなギャップであった。そしてそれは幾らこの島の自然に大して憧れと共に情熱を抱き、それを生活にも振り向けても補い埋め合わせる事は出来ず、物価の極めて安価な島だからこそ生活が可能と言う状態が延々と続いていたのだった。
 そんな時恵の下に時折舞い込んでくる大仕事、要は大きな収入の見込めるのが研究所からの依頼であった。その内容はその度毎に様々で多くの観光客が一度に押し寄せてきた時の入場整理等と言う単純な物もあったが、その全てに共通していたのが喋る必要の無いと言う事でこれは研究所の配慮でもあった。
 先程書いた様に研究所は政府からこの島の自然の管理権を委託され、結果的にはこの島の行政をもそこに内包されていた。だからこそ自然にも気を配ると共に島民として住まう人々への福祉にも配慮しなくてはならない、そこには職の提供とそれを通じた生計の維持も当然含まれていた。それ故にもうこの島の住人とある意味ではなっている時恵にもその恩恵はもたらされたのだ、研究所からの臨時の仕事の依頼と言う形にて。そして今日もまさしくそのものであった、ただ何時もは通されない奥へと通された点がこれまでとは異なっていたが時恵はそう気にはしていなかった。

「えっ泳げるかって・・・普通に泳げますよ、水も怖くは無いです。」
 そう日本語で行った時恵の言葉を、島で唯一日本語を解する先ほどの青年が英語へと翻訳して伝える。
「泳げるなら問題ないな・・・じゃあこちらに付いて来てくれ。」
「時恵さーん、こちについてきてだって。」
「あっはい。」
 時恵の言葉を英語で聞いた所長は頷くとそう言って、奥にあった扉を開き中へと入った。促されてそれに付いて行く時恵の後に通訳役の青年が続き扉を閉めた。通された通路は先ほどにも増して狭く歩き難い、ただ物凄くひんやりとしているのが何とも興味深かった。加えて冷房の気配は無いのだから尚更であった。そして突き当りには再び扉があり、そこを開けると何処か生臭い臭いがむわっと風に乗って流れてきた。
「くさっ・・・魚臭い・・・。」
 思わずそう呟くほどの臭い、ただ時恵以外の2人は全く動じてはいない。扉を抜けた先にはうす青と白の塗装の施されたコンクリートの箱の様な空間で、床の半分は大きく窪みそこには水が満々とたたえられていた。
「時恵さーん、これきてっ。服脱いでね。」
 所長の指差した箱の中から何かを取り出した青年はそれを広げて時恵に手渡した、手渡されたそれはひんやりとして人工的な感触がありウエットスーツの様に見受けられた。ただ2色のプリントが施されており何やら突起の様な物もある、それらからは何処かで記憶にある代物との共通点が感じられた。
「これはウエットスーツですね?」
 時恵が思ったままに尋ねると伝え聞いた所長は自身有り気に首を縦に降った、一体何の為に着るのか?ふとそう思いもしたがどこかで安心を感じた時恵は、柱の影に隠れるとさっと服を脱ぎ通訳役の青年が何処からか持ってきたかごに脱いだ物を畳んで入れる。そしてそのスーツへとまず足を通し、次いで手に胴体と体を沈めて背中を青年に閉じてもらった。
 日本にいた頃は良く親しい仲間と共にウエットスーツを着込んでは、スキューバダイビング等をして良く遊んでいた時恵にとっては数年ぶりの懐かしい感触で思わずうっとりとしてしまう。それでもそれに浸り切らずに再び元いた所へと戻った時恵を見た所長は更なる指示を伝えてきた、そのまま水へと浸かる様にと。だが辺りを見回しても特に機材なども用意されている気配はなかった。
 だから一体何をこの閉鎖的な空間でさせられるのだろうかと時恵はふと思いもした。ただ幾ら物価の安い島とは言え、経済的に弱い立場に置かれている自分が生活を続けて行く為にも必要となる資金を稼げる機会を、もしも尋ねた事によって失ったら敵わないとも同時に思った。そして梯子を伝って水面下へと首から下を沈めて更に水深の深い場所へと指示されるがままに移動する。
 久々にする一連の行動は体が覚えていたがそれを実行する筋力が衰えていた為にやや辛い面もあった。それでも彼女は歯を食いしばってそれを維持し続けていると、体の慣れがそれを補ったのか次第に楽になりリラックスしてそこに浮ぶ。だが一向に次なる指示は与えられなかった、そうこうしている内に時間だけが過ぎ去り流石に慣れで・・・加えて精神力等を動員して補っていたその姿勢にも限界が迫ってきた。段々と辛さが再び甦り始めて来る、顔に出すまいと食い縛るが逆にそれが表へと表してしまい、ようやくのところで言葉がかけられた。

「辛いか?」
 と。一瞬正直に答えるべきか否かと戸惑った時恵であるが、ここは敢えて正直に辛いと彼女は答えた。すると所長は軽く顎鬚を揉みしばらく考え込む様に見詰めると今度は次の様に語り掛けてきた。
「そろそろそうならなくなるとは思うがね・・・さぁ帰るぞ。」
 何と英語ではなく所長は日本語を発した、それまで2年近くもの間初めて出会った時から英語しか話せないと言っていた所長が流暢な日本語を発したのである。それは新鮮な驚きを彼女に与え、そして更なる衝撃を行動によって所長は与えた。そう最後の言葉通りに青年と共にその場から立ち去り、まるで時恵の存在など知らないかの様に扉を閉めて加えて鍵をかけたのである。
 これには時恵は当初唖然とするしかなかった。だがすぐに我に帰るとその水の・・・海水の満たされた水槽の中から這い上がろうと縁に腕をかけたその瞬間、彼女は強い鈍痛と違和感を下半身に抱く事になる。そして縁から突き放される様に再び最深部の辺りへと戻って、痛みを堪えながら目を腰から下へやった時彼女は思わず我が目を疑った。次いで体の異変を強く悟り実感したのである。
 小さく波打つ水面越しに見える己の脚、それは2本のすらりとした長い時恵ご自慢の物であった。しかし今視線の先にあるのはどう見ても長さこそ変わらないであろうがただの1本の棒に近い物で、2本の脚が寸分違わずにわずかな隙間すら作らずにくっつきあっている様な調子だった。そう感じると彼女は再び縁へと戻る為に両脚に力を込めて足漕ぎをしようと試みた。ところが両脚に込めた筈が思い通りに動かない。まるで片脚だけに力を込めた時の様でバランスを崩し、そのまま彼女は顔を水面下へと沈めてしまった。
 唐突に水面下に顔が浸かってしまった事で混乱し慌てふためいた時恵は、自分はこのまま窒息して溺死してしまうのではないかとの錯覚に陥った。そうしてますます混乱を深めて沈むのに拍車をかけてしまう。だがそれにしては一向に、ある程度からは沈まずむしろ浮上しつつある事に彼女はようやく気が付いた。そして途端に体から余分な力が抜け、不意に浮んだ思いのままに彼女は脚に力を注ぐとこれまでの出来事が何であったかの様にアッサリと水面上へと顔を浮かべた。
 その余りの意外な展開に驚きを表にしつつ彼女は深呼吸をする。新鮮な空気が肺を満たしこの上ない幸福感を味わった所で今度は冷静になって再び脚を見た、そして力を加えて時恵は大きな溜息を吐く事になる。そう先ほどの混乱の原因は事実だったのだから・・・彼女の両脚は融合していたのだ。両足に注いだ力はその融合した脚に一つの力となって入り込み、何時の間にやら己の一部となった部位の骨格を動かす。
 更にはご丁寧にその形は相応しい物へと今の間に変貌を遂げていた、棒と形容できたその姿は無く先端には大きな尾鰭がそして腰にかけては紡錘状になっていた。それはまるである生き物の一部そのままの姿、イルカの姿の一部そのままであった。ウエットスーツにプリントされていた薄い灰色と白の柄がより自然な色合いとなって表面に定着しており、少なくとも腰のやや上から下に限ってはスーツ特有の密着感等は皆無であり、むしろそこからは温かさと安定感を強く受けた。
 そしてそれは次第に拡大を遂げている事にも。そして気が付いた事により変化した瞬時の精神状態を見逃すまいとでも宣言するかの様に途端に変化は急速化し、下腹部が瞬く間に腰から下と同じ感覚に変わる。混乱は最高潮に達していた、大きく身をよじらせるが何ともならない上に更に肩甲骨の辺りの背骨上から、何か外に向けて飛び出た様な新たな感覚を察知してしまう始末。その感覚は先程ウエットスーツを着る際に気が付いていた謎の突起物と結びつき、背鰭と言う言葉が瞬時に脳裏に映し出された。
 だが又もやそれを痛感する余裕無く変化は続伸し気が付いた時には胸と顎、首が一体化していた。下からの変化の力の波に付き上げられる様に顎を含めた顔全体が上へ上へと押し上げられ、わずかな間視野を含めた全ての感覚が顔より失われた。だが次の瞬間にそれは一気に取り戻された、ただ視野もそして視力も大きく変化してしまったらしく奇妙な感覚で思わず何も考えられない。
 ただ眉間・・・そう言うのは正しいのか分からないが、その付近からもどうした訳か視覚とは別の感覚で辺りの様子が分かる。むしろそちらの方が記憶に残るあのコンクリートの無機質な空間がそのままに感じられ、水中に至ってはその広さ深さと何も知らない筈なのに抜群の感度を誇っていた。そして口には鋭く細かい牙と大きな嘴が生じ、両手は胸鰭と成り果てていた。そこにはつい今の今までいたウエットスーツ姿の時恵の姿はもう全く見られなかった、代わりに薄い灰色と白に彩られた一匹の雌のイルカが一見すると何の感情も感じられない顔を水中から突き出していた。
 ただ口が開かれ鳴き声が響くと・・・それからは強い感情が驚きと悲しみの感情が何処か薄々漂い、人によってはそれを深く感じ入り動揺を示すのではないかと思えるほどの物だった。だがそれをかき消そうとするかのように天井付近のパイプから水が注がれ始める、そして何時しかイルカと成り果てた時恵の放つ鳴き声は消えただ水の注がれる音だけが響いていたのだった。

 数日後、島の空港に定期便とは異なるプロペラ機が着陸した。その島国の国章が翼に描かれたそのプロペラ機のタラップの前までには赤絨毯が敷かれ、整列した衛兵の中をスーツに身を包み込みボディガードと補佐官を背後に付けた男が確かな足取りで歩んでいく。衛兵、そして手旗を持って歓迎する島民に手を振るその男はこの国の大統領であった。
 そのまま車でまずは研究所へと向った大統領は、所長並びに所員一同の歓迎を受けた後に所内を見学する。その際に足を止めたのがとある巨大な水槽の中だった、そこには一頭のイルカの姿があった。そのイルカの漂わせるどこか哀愁的な・・・その様な物は無い筈であるのに感じられる気配に大統領はしばし足を止めそして立ち去った。その顔にはなにやら考えが浮んでいた、一方で付き添う所長の顔には満足感と安堵の色が浮んでいた。
 そして数日後、大統領が帰途に着くと共に一隻の軍の輸送船が港へと入港した、そして持ち込んだ巨大水槽にそのイルカを詰め込むと静かに島より立ち去っていく。大統領はすっかりそのイルカに魅了されてしまったのだ、彼は常に己の手の届く場所に置いておく事を強く欲し関係機関に指示をして首都にある大統領官邸へと運び去ったのだ。当然所長は反対したが権力には逆らい切れず沈黙と同時に了承する事となり、事情を知る幾らかの所長を含めた人々の前でイルカは運び去られた。
 そしてその後の行方は遥として知れない・・・数年間の飼育記録は残されていたが、軍事クーデターによる大統領の失脚と共に行方不明になってしまったのだから。ただ研究所は何時までも一つ水槽を開けていた、そして丘の上の時恵の家も有志の手によって当時のままで保たれていた。何時でも帰ってこれるようにと一部の人々の切なる思いと共に、ただ所長は大統領失脚の報を前後して行方をくらましてしまったと伝えられており彼もまた姿は無かった。


 完
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