狐の恩返し・後編 冬風 狐作
「あら、また置いてある」
 そして数日後、再び家へと戻るとまたもや小包が、それも玄関の中に置かれていた。連日の様に置かれている小包の中には内容こそそう代わり映えはせずとも、新鮮な野菜等がぎっしりと詰め込まれていてその度に内容の違う言葉の書かれた紙が挟まれておりそれを夕飯とする日々が続いていた。そのお陰からか今では最初の頃のような驚きは余り感じてはいない、申し訳なさこそ感じているが日々置かれている事から段々とそちらも薄れて日常の一部と化して来ている気配すらあった。
 そしてそれは様々な範囲に、風呂上りの布団敷きからあの立派な朝食とこの3つの異色な事が日常と徐々に化しつつあったのである。どれにも共通するのは驚き―つまりは感動の薄れとそれでも感じる申し訳なさ、説明しようの無い不可思議な減少に意識と神経が麻痺して来ているようだった。
「本当、誰かいるのかしら?不思議で仕方が無いわね」
 事ある毎に独り言として彼女は家の中でそう漏らす、しかし当然返答が返って来る訳が無く部屋は静けさそのものに包まれていた。

「あれ、こんなに毛深かったかしら私…?」
 そして盛夏も去り残暑の半ば深くへ入った頃、ふと鏡を見て髪を結っていた広恵はある異変に気がつく。それは自分の耳、そこには先日髪を結った時には気が付かなかったほどにびっしりと細かな産毛の様な毛が生えて包み込んでいた。触ってみると肌触りは柔らかで何とも気持ちが良い、思わず目を細めたくなる様な不思議な感覚に驚き、そしてふと酔う。だがすぐに我に戻るとその場はそれを剃り落としてきれいにすると外へ出た。
 だがおかしな事が続くときと言うのはどう言う訳か連鎖して立て続けに起こってしまう物である。広恵の場合もそうだった、耳の異変に気が付いたのがあの小包を始めてみた時と同じ様に異変の前触れであった。次に感じた異変はそう余りにもクリアな視界、とは言えそれは目が良いという意味でのではない。これまでは気がつかなかった様な細かい物の動きが良く捉えられるという事である。それは例えば空を飛び地面を跳ねる小鳥や虫の動き、そして風の流れと言ったこれまでも見る事は出来、感じる事は出来てもそれ以外に取り立てては、と言う様な事柄が良く感じられるのである。
 そしてそこまで鋭敏なのは決して目だけによるものでは無いと言う事を認識していなかったからこそなのだが、彼女はあくまでも目だけのよる物だとばかりに信じ込んでいた。だからこそ耳が、そう先程毛を剃ったばかりの耳がピクピクと細やかに動いている事は露も知らず加えて認識すらしていなかった。そうして頭を捻りつつも彼女は矢張り日常の中へと消えていくのであった。

 そしてそれからも日々は紡がれる、朝に目を覚ませば食事が用意されており帰れば例の小包、そして風呂から上がればしっかりと布団が敷かれていて、もうそれは慣れ親しんだ事になっていた。もう当初の様に戸惑いも遠慮も無くなりむしろ当然と感じる日々、もう傲慢とかそういう事も無しに何も感じない有り触れた空気の様に捉えてそれを摂取し利用していたと言えるだろう。
 そして久々の誰かいる気配、姿は見えなくとも何かが自分のそばにいる―その感じる気配は日増しに強まりそしてそれに何処かで精神的に依存していく連鎖。それは断ち切れなかった、断ち切ろうともしても自分がそれを邪魔する。わずかにでも感じていた警戒心は自らによって排除され依存に全てが染まった、そして深く深くじわりと沈んでいく、まるで時が遡っているかのように、祖父がいて母がいたあの時代に戻らんばかりに、この1年の成長が無になり更に崩壊していくのに彼女は全く抗しようとする素振りを見せなかった。
 最後に境内が掃除されたのは何時の事だろう?そしてお供え物が取り替えられ新しくなったのは?どれも、あのふとした違和感を感じた日からそれこそ転げ落ちるように広恵は変容した。次第に表には出なくなり家の中に閉じこもる日々、それに呼応するかの様に小包は完全に玄関の中に置かれるようになった。これまでの様に外に置かれたかと思ったら中に次は置かれていたというような変則性は無い、全て玄関に置かれているそれで質素な夕食を作る。
 とは言えその内容は段々と質素と言うよりも素材をただ切った煮た程度、料理とはとても呼べない代物であった。それを何時の頃からか彼女は箸を用いず手掴みで、そして今では直接口をつける犬食いで食す。その食べ方も配慮の無いもので食い散らかすと言うべきか、とにかく必要な量だけ食べたら後はその辺りの決まった場所に放って捨てる。その場所は台所の隣の物置、どうしてそこに捨て始めたのかは分からなかったがそこには食い散らかされた残飯が山となって積み置かれそして異臭を放っていた。
 彼女の変容はますます続く、意識は朦朧として我を忘れている時間が格段に増えていた。それでも時折ふと元に戻り惨状を見て困惑する、それは周囲の環境だけではなく自らの体を見ても、彼女の体は全身が今や、あの耳と同じ様に微細で柔らかい毛に覆われてもう皮膚は見えなかった。
(何時の間に…剃らないと…あぁっ)
 剃らないと、そして片付けないと思う度に再び我を失いそれこそ獣の様に振舞う。犬食いをし風呂にも入らず部屋は荒れ果てトイレも使わない、姿は一応は人でもすっかり獣じみた生活を送っていた、そして何時しか布団は敷かれたままになり朝食も用意されなくなっていた。代わりに素材そのままの物がかつてあの料理が並び広恵を驚かせた卓袱台の上に並んでいる。
 そしてそれをそのまま貪る広恵―素材そのままのそれらは矢張り耳の異変の頃から徐々に質が悪化していたが、今やあるのは肉と言えば死んだ鼠や兎、野菜と言えば野山にある草や木の実、それ等を上手そうに食べる姿はもはや人であって人ではなかった。服ももう何日も着替えては無い、汚れ果てくたびれ果てた服は今にも脱げてしまいそうになっていた。
 それでも寝るのは敷きっ放しになり白が次第に変色しつつある布団と言うのがせめてもの人である証なのだろうか、そしてその様にしていたある晩彼女はふと目を覚ます。軽く唸り声を上げるオマケ付きで。瞳はその時には縦長に変形した形となっており妖しい輝きを放つ双眸は一点を見据えていたのだ。

「くくく…すっかり堕ちたね、君も…唸るんじゃない。」
 現れたのは白い輝きに包まれた1匹の狐、中々に大きい体格のその狐は脳裏に直接人語を伝える。その口は動かずただ不適に瞳が動くだけであった。そしてその瞳を見た途端、四つん這いになっていた広恵は不意に気を抜かれたかのように脅え始め唸るを止めて一歩引いた。
「それでいい…あの晩はありがとう、そして今までもね、しっかり世話をしてくれて」
 そう脳裏に語りかけていた言葉は途中から空気を介した振動となって通じ始めた。そう白狐の姿が変貌したのである、それは三尾の尻尾を持った狐人であった。彼が立ち上がると共に広恵も我を弱弱しくも取り戻した。
「あなたは…」
「君、そして君の一族に世話になった者だ…長い間どうもすまなかったね」
「えっ…あ神様…?」
「そうだね、その通りだ。そしてこの様にしたのもね」
 そう呟くと自らこの神社に祭られていた神だと名乗る白い狐人は軽く膝を曲げ広恵の額に手を当てる。途端に何かが緩まったような気がした、それは彼女の自我・・・正確に言えば人としての何かだろうか。それが緩まりそして自壊し果てていく。恐ろしかった、思わず呻き声を上げた。しかし相手はそれをするどい眼光を光らせる事によって鎮めて続ける、そしてその展開と共に彼女の体も変わり始めた。
 異様に火照ったかと思うと体が縮まり始め、そして盛大に縮まった分を補うかのごとく毛が生え始めた。体はたちまち見た目だけでも気持ち良さそうな厚みを持った獣毛に包まれ次いで体が変化を始める。中々に大柄なしっかりとした体格をしていた広恵の手足は縮み脚は爪先より踵までが特に伸び、胴体よりもやや短めな毛に覆われて人の足の面影は何処へやら獣の華奢にも見える細い脚へと成り代わった。
「ん…んはっ」
(あ、あぁ、何…何か消える…消えるぅ)
 彼女がただうわ言の様に精神の中でそう呟いていた折にはその顔が変わり行く所だった。鼻から下顎にかけてが伸び始め先端は黒く湿り、そして輪郭に比較的そった薄い毛が多い尽くすマズル―歯並びも変わり鋭さが加わった。舌は長くなり瞳孔は完全に縦長に、他は黄色に染まりそして瞳が閉じられる。尻の辺りからは尻尾が突き出ていた、比較的長い一尾の尻尾は胴体以上にふかふかの獣毛に覆われて突き出て揺れていた。
「よしよし、これなら良い」
 そして彼は額より手を離した、すると広恵は―いや広恵の変容した生物はその場にお座りをし目を細めたままシャンとしている。それはあの晩、広恵がスイカを食べていた時の狐の姿と同じであった。無理も無いだろう、狐色と白の獣毛に覆われた狐がそこに入るのだから。色合いとしてはホンドキツネ的だがそこそこの体格を持ったその狐はじっとして構えている。
「さてさて…これからも私に付き合ってくれるかね?私に付き従って私と共に歩むかね?ここには長く居過ぎた、私は世界を周りたいのだ」
「キャウウッ」
 その問いかけに対して狐は目を細めたまま一鳴きした、まるでお世話になったのはこちらこそ、そんな事を言うかの様に感じられたのが何処と無く不思議だった。それをみて軽く微笑んだ彼もあの白く輝く白狐の姿に戻ると付いて来いと言わんばかりに軽く一瞬後ろを振り返って歩き始めた。進んだ先にあるのは壁だった、しかし白狐は臆せず進みそして壁にぶつかり・・・いや壁を透過して外へと出た。それに続いてあの狐も同じく壁を透過し外に出る、涼しい秋風の走る満月の夜。
 その白狐と狐は静かに森の中へと消えて行った。そしてその神社も以来そのままとなり誰もが忘れる頃には、そこに至る道までも含めて全てが自然に埋もれ消えていったと言う。そして極稀に廃道を好むものが立ち入る以外は全て人から隔絶されたのだった。


 完
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