母子冬風 狐作
 ある所に大岡劉生と言う男がいた。45才で中央省庁の出先機関に勤務する彼は、休みともなると長年使用している愛用の銃を手に山に入り猟をするのが趣味であった、大体常に2〜3程度仕留めて引き上げる。それ以上仕留める事も時にはあったが基本的にすることは無かった。

 そしてその日も彼は行きつけの山にて何時もの様に狩をして帰山している所であった。仕留めた獲物は全て回収してくる、お陰で服が何時も血で汚れる等していたが致し方ないしそれをやめようとは思わない。何故ならこの山の登山道の入口にある神社にて仕留めた獲物を回収しているからだ、そしてそこに仕留めた獲物を出すと幾ばくかのお金が渡される。
 何でも自らの楽しみの為に命を奪った鳥獣を野辺に放置するのではなく、この山の山神の住むこの神社まで連れて来たことに対するお礼なのだと言う。そう聞かされるとなるほどと思うもので、金目当てではないのだがその様に運んでくるのが常となり、何時しかこの山以外には行かなくなってしまった。
 そして今日も彼は狩りに来ていた。今の所予定しているのは2匹、気分で決めた訳であるが彼の日課として上る前に何時も神社にて一人本殿に向ってそう誓っているのだから、心情としても翻す事はし難かった。
"さてと良い獲物は見当たらないかな・・・。"
 彼は辺りを見回す、山は何時もと変わらず静かであり思わず身構えながら前へと進む。この山が気に入っている理由は先の事だけではない、意外に獣が多いのだ。これも神社の聖域として開発から逃れているが所以であろうか、とにかく多い。最も聖域の中で狩りが出来るというのも何だか妙な感じではあるが、やって良いと言うのだからやらせてもらおうと考えていた。
 獲物が見つかったのは朝食を食べてしばらくしてからの事であった、見つけたのは1頭の大きな猪、中々のここ最近相手にしていなかった大物である。
"よし・・・今日はこいつにするか・・・。"
 大岡は茂みに上手く身を隠すと銃を構えて照準を付ける、指に思わず緊張がこもる。この感覚だけは彼は手放したくはなかった、長年こう言った事をしているとそう言った緊張感無しに撃てる者もいる。だが大岡は銃を始めて手にした時の緊張感を忘れず、常に初心に立ち返れる様にと考えて銃が変わらないのと同じくこの感覚を極めて大切にしていた。
 そして照準が丁度猪の頭に合う、思わず息を飲みそして引き金を引き掛けたその瞬間何の前触れも無しに強い風が彼を襲った。余りに突然の事であったので思わずバランスを崩してしまうも、指には力がむしろこもりそして引き金は引かれた。

 轟く銃声香る火薬、そして獣の一瞬の悲鳴・・・ようやくバランスを取り戻して茂みの中から見ると、そこには確かに猪がいた。だが倒れてはいない、その代わり猪は何かを見て頻りに鳴いては鼻面を動かしている・・・凝視して見た大岡は顔を青くした、何故ならあの猪の傍らに別の猪、正確に言えば一回りも二周りも小さな子供が胴から血を流して倒れていたのだから。
"しまった・・・ウリ坊を撃ってしまった・・・。"
 猪の母親の子供に対する愛情はかなり強い、その子供を誤りとは言え射殺してしまったものだから母親の怒りはかなりの物、また豚の元になった生き物なので鼻が良く茂みに隠れていてもすぐに臭いを嗅ぎ付けられてしまい・・・気が付いた時には、怒りに身を震わした母親がこちらに向かって今にも突撃しようとしている所であった。
 それを見た途端に大岡の理性は半ば失われた、その場で急いで逃げて何処かで逸れれば良かったものの猪に突撃される事による恐れが先行し、無意識に銃を構えて照準を合わせるとその場で連射した。猪もほぼ同時に走り出したのだが、当然の事ながら弾丸の方が遥かに高速である。猪がその場から僅かに動いた所で銃弾は連続して猪の脳天に突き刺さり、ライフル銃特有の破壊力によって脳髄が中から弾け飛び、顔の半分は瞬く間に失われた。
 しかしながら猪はその様な無残な姿になってもしばらくはそのままの勢いで走り続け、そして茂みから数メートル前にて突然よろけて脇にあるブナの太い幹に衝突して顔を半ば潰して倒れ臥した。しばらくは横倒しになった足がピクリピクリと未練がましく痙攣したもののの、程無くしてその動きすらなくなり辺りには静寂が広がる。
「た・・・助かった・・・死ぬかと思った・・・。」
 茂みの影にて身を震わせて腰を抜かしていた大岡は恐る恐る立ち上がって、微動だにせぬ猪の姿を見てようやく安堵の息を漏らした。それとともに何処か猪を仕留めた事に対する満足感の様な気持ちが持ち上がり、憎き者を成敗したかの様に思いながら一先ず無残な姿になって死んだ猪の姿を見詰めて、今度は誤射してしまったウリ坊を見に行く。
 ウリ坊の死骸は腹の辺りから血が流れている以外は全くの無傷で、今にも瞳が開きその愛くるしい体が今にも動き出すのではないかと思えるほどであった。
「可哀想な事をしたな・・・すまん・・・。」
 そう呟き彼はしばし合掌をする。

 その後苦労して体重70キロ余りの母猪とまだ軽いウリ坊を神社まで運んだ大岡は、事情を話して何時も引替えに渡されるお金の受け取りを今回ばかりは断ると、服を着替えて銃を仕舞い車に乗り込んで自宅を目指した。
"早く家に帰って一風呂浴びるか・・・その後は酒でも飲んで寝よ。"
 と考えながら山道を下って行った。しかしながら丁度その頃、彼の自宅ではとんでもない出来事が起きていた。彼には家族がいる、妻1人に子1人と言う典型的かつ平凡な核家族だが彼も妻も皆が満足している幸せな一家でもあった。そして妻の祥子は夫の狩猟と言う趣味に何処か納得しない面はあったが、それでも普段から家族の為に尽くしてくれているのだから・・・と認めていたのだった。
「さてと・・・洗濯物でも取り込みましょうか、そろそろ帰って来る頃でしょうし。」
 リビングにてテレビを見ていた彼女はテレビを切って立ち上がると、伸びをしながら窓の鍵を開けようとしたその時だった。
「うわぁっ!なっ何だこれっ!?」
 2階から大きな声が響いた、その声は悲鳴とも取れる声で・・・聞き違える筈が無い、息子の敏孝の声であった。今は2階の自室にて受験勉強をしている最中である。
「どうしたの?敏孝。」
 祥子が大声で声をかけるも返事が無い、その事に不審感を感じた彼女が階段を上って閉じられている彼の部屋を覗くと思わず息を飲んだ。部屋の中には喘ぎ声が充満している、そして何処と無く臭い臭いも同時に漂っている、見れば椅子は脇に倒れて床に筆箱が中身を散乱させている脇に息子が倒れていた。
 だがその姿は想像を絶する正視に絶えない物であった、あの若者らしい背の高い筋肉質の体はいまや半ばこげ茶色と言うかとにかくその系統の毛に随所を覆われ、そして何だか小さな形へと体が縮み行く姿・・・途端に祥子は絶叫した。恐慌状態に陥った彼女は次第に後退りをし、そして階段を飛ぶ様に駆け下りていく。
 そしてそれと共に彼女の体も変貌して行った。あの白い肌には息子よりも濃い毛が一気に覆い尽して影は無く、手足も走れば走るほど短くなり胴は膨らみ顔は凹み・・・鼻だけが前へと出る。走るのと同様に叫べば叫ぶほど思考も失われて、窓を突き破って飛び出した頃にはもう外見も中身の何処にも彼女の面影は見られなかった。
「ブビーッ!ブビィィィッ!」
 と絶叫しながら一目散に突進していくその姿は完全なる猪、その鳴き声に驚いて出て来た近所の人々が眼を丸くしている前で木の塀を突き破って敷地外へと出た猪は、自ら街路樹の桜の木へ衝突し弾みで水銀灯の鉄柱にも衝突して歩道にその身を横たえた。夥しい流血と脳髄を撒き散らしてその場に・・・すぐに通報が飛んで警察と保健所が駆けつけてきた、野次馬も集まって辺りは騒然とした所へ一台の車が走ってきた。そう大岡の車である。
「あれ・・・?家の周りで事故でもあったのか・・・まぁいい祥子に聞いてみるとするかな・・・。」
 そうして彼は角を曲がって近所に借りている駐車場へと向った。近所に彼の驚愕の声が響くのはもう間も無くの事である。


 完
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