サイコロ冬風 狐作
「さてと、久し振りに飲むとするかな。」
 軽やかな靴音を立てて男は階段を降りていた。ここは都心の繁華街、その一角にある有り触れた雑居ビルの地下にある行きつけのバーへ向っているのだった。学生時代の頃から通っているバーとの付き合いはもう10年余り、この所海外出張やら何やらで忙しく数ヶ月ほど訪れていなかったが、ようやく明日から休みであるので久々に楽しもうと思い立ち来た次第である。
 コツコツコツと規則正しく狭苦しい地下の通路を歩く、地上に劣らず狭い区画に幾つもの店を半ば無理矢理入れているので途中で道は横へ直角に曲がり、また戻ると言う構造をしている。目指すべきバーはその一番突き当たりの最奥、とても地震や火事があっては敵わない場所だが平時では何だか隠れ家に行くような雰囲気がして何ともたまらない。もしかするとそれこそが彼を10年に渡って、そこへと通わせている最大の要因なのかも知れなかった。
 そして最後の角を曲がった時、彼はふと目を細めた。どうして目の前にあるバーの入口の看板に光が灯っていないのかと、と同時に小さく張られている紙の上の赤い4文字に彼は目を走らせた。
「臨時休業」
 その4文字とその下に細々と書かれた文字の羅列、読んで見ると何でもオーナーが海外旅行中に付き盆明けまで休業との事。長い休みにしたものだと感じつつ、そう言えばあのオーナーは旅行好きでいつもこの時期になると店を閉めて、国内なり海外なりへと旅行に出かけていた事を今更ながら思い出したのだった。そして、時計を眺める。時間はまだ早い。
"折角だから、別の未開拓の店でも行って見るか・・・こんなに早いのに帰っては勿体ない。"
 そう思うと彼は足早に、その地下の空間はそのバー以外はどちらかと言うと怪しげな店が多かったので、変な店に捕まらぬ様通路を階段へ向けて駆けて行き夜の街へと彼は、黒井正夫は消えて行った。

「いらっしゃいませ。」
 さてここは同じ街区にある個人経営の隠れ家的雰囲気の漂うスナック、狭い店内にいるのは腕っ節の強そうな大柄な女主人のみ。体がデカイとは言え背もまた高く、筋肉質なお陰で標準よりも大きいが気は優しい・・・そんな雰囲気を漂わせていた。そして響く女主人の声、入ってきたのはこの店の常連である女であった。
「ママ、久し振り。元気にしてた?」
「あら、明美ちゃんじゃないの。お久し振りねぇ・・・おなたこそ元気にしてたの?」
「はいお陰様で。ただこの所、立て続けに仕事が入ってしまいまして来れなかったんですよ。どうもすみません。」
「いいのよ、いいのよ。そんな事言わなくて、仕事があるという事は幸せな事なのだから・・・さぁて今日は存分に疲れを癒していってね。どうせ限られた人しか来ない店なんだから、思う存分飲んでちょうだい。」
「ありがとう、じゃあ早速何時ものを・・・。」
「はいはい、ちょっと待ってね。今出すわよ。」
 女主人をママと呼んだのは石倉明美、都内の大手企業に勤める彼女はほんの数日前にかなり大掛かりな数年越しのプロジェクトを完了させると言う大仕事を成し遂げたばかりであった。それで昨日、一昨日と家で休暇を取ってノンビリしていたのだが、今日は久し振りにこの行きつけのスナックを尋ねたのだった。彼女にしてみれば、プロジェクトが本格化するまで毎日の様に訪れていたスナックへ急に来なくなった事に、ママが怪しんで無用な思いを抱かせてはいないかと気懸かりであったし、彼女にとっても思いの丈を酒と共に是非とも一度にぶちまけたかったのである。
 幸いにしてママは以前と変わらず明美を受け入れてくれ、その理由にも特に何も言わずに納得してくれた。真実の事であるので信じてもらえなかったらどうしようかとも考えていたが、実際にはそう思い悩むまでもなかったのでわずかな助走を以って、明美とママは大いに酒を潤滑材にして盛り上がったのだった。
「そうだ、明美ちゃん。」
 良い加減になっていた所でふとママが思いついた様に口にした。
「なーに?ママ、何かあったの?」
「先日ね、ある人の勧めで面白いと評判のゲームを入れてみたのだけど、如何?一度試してみない?」
「ゲームですか〜?」
「そうよ、ゲーム。酔いを少し醒ますには持って来いだと思うわ、今日は何時もよりもペースが早いしね。」
「そうですね〜じゃあやりたいで〜す。」
 酔いながらも一瞬考えた明美は興味を抱いたのか、すんなりとそれを希望し同意した。その途端、どこか嬉しそうに微笑んだママはついて来てと、一言言ってカウンターから出て明美をやや斜め後ろにつけて狭い店内の、カウンターの中に置かれた棚の後ろにある小さな扉をあけてその中へと導いた。
「今、電気をつけるわ。」
 女主人がそう言うと小さな音と共にぼんやりとした白熱灯がその部屋を照らした。緋色の絨毯の敷き詰められた床上には木製の角ばった椅子とその右の脇に机が置かれ、その先の壁には濃緑をしたカーテンが壁に張られている以外は扉と白熱灯以外何も無い部屋であった。
「ちょっとそこで見ていて、今実演してあげるから。」
 そう言うと女主人は部屋の隅にある事に気が付かない程の小さな丸椅子を持ってきて、元から据え付けられている椅子の隣へ遠く。そこへ座る様に促された明美が腰掛けると、彼女は軽く頷いて座り、机の棚から一掴みほどの大きさのサイコロを手に取って明美に示した。
「大きなサイコロですね〜これどうするんですか〜?」
「これでゲームをコントロールするのよ。さぁ前を見て、何が映っているか分かるかしら?そして選んで頂戴。」
 そこには複数の人物が映っていた。明美はしばらく眺めるて、ある1人を指名した。それは長身の男で明美の好きな男性タレントに良く似た姿をしていた。
「いいわよ、じゃあ所で明美ちゃんは犬と猫どちらが好みなの?」
「犬と猫じゃあ・・・犬ですね〜。」
「そう、ありがとう。じゃあ画面を見ていてね、始めるわよ・・・。」

「すご〜い!何だか面白そうなゲームですね〜!」
「でしょう?良かったわ、喜んでもらえて・・・じゃあ今度はやってみなさい。やり方は覚えたでしょう?」
「はい、それではやらせてもらいまーす!」
 明美はまるで子供の様に全身で喜びを示すと、そのままの勢いでサイコロを受け取り椅子に座ると先程選んだ男とは別の男を選んで興じ始めた。その様子を見た女主人は無言でその部屋から退出したが、明美はまったくそれに気が付かず図面の上で展開される事に熱中していたのだった。やがて幾度と無く遊び終えたその時、急に画面が白地に人の姿が浮かんでいるだけと言うものから別の物へと展開した。
「あれ?これってお店じゃな〜い、誰かいないかな〜。」
 新たに展開した画面に映し出されたのは、先程まで自分が飲んでいたスナックの店内だった。誰かいないかと見て視点を変えていると入口の扉が開き1人の男が店内へと入り、カウンターに座って何事かと注文している姿に明美は何処か親近感を感じた。どこかで見たことのある人、何だか正夫みたい・・・と彼女は思った。それも当然だろう、この男はすなわち彼女の恋人である黒井正夫その人なのだから。
 だが、このゲームはあくまでも仮想現実・・・女主人の説明をまともに受け取って信じていた明美は、後で正夫本人にゲームの中に酷似したキャラクターが出て来た、と教えてあげようと思いつつその男を選択しサイコロを振る。軽やかに調子よく回ったサイコロが最初の示したのは6・・・それは左足に当てられた数、その後は5・1・3・4・2の順で回りそれぞれが頭・右足・右手・左手・胴体に振り分けられていた。
「うふふ、じゃあ今回はー・・・猫にしよう、前のときは柴犬だったから今度は・・・和猫にね。」
 と呟いた後その姿を念じてサイコロを回した。その途端、画面の中の男の体に異変が発生した。

 気持ちよく飲んでいた正夫は、お代わりをしようかとグラスをカウンターの上に置いたその時。不意にその全身を得体の知れない何だか重苦しい物に包まれたような気がした、姿は見えない。だが次第に息苦しくなり、急な圧迫感を体のあちらこちらで感じそのまま固まる、目の前にいる女主人に訴え様としても声は出ず、身動き1つは出ずそればかりかその女主人がじっと無言のまま自分を見詰めている理由がわからなかった。異変に気が付いているのだろうか?しかし何か行動を起こそうとする気配は微塵も感じられない、正夫は何やら嫌な予感を胸中に感じた。
"えっ?"
 それから間も無く、不意に何の前触れもなしに足が軽くなった。強く感じていた足への圧迫感が消えたのは幸いだったが元から何の意識無く感じていた足の重さ、つまり重力によってひっぱられる足の重さまでも軽くなったのはどうも解せない。だが、確認したくとも体を動かすことは敵わず混乱していると、今度は顔に違和感を感じた。こちらも軽い、重さが軽いのだ。心なしか、視野も広がった様な気がしてならずますます疑問を感じたその時、ふと目の前に掲げられていた鏡に気が付いて覗き込んだ途端、正夫は心底からその姿に大いに動揺した。
 その鏡には映っている筈の自分の顔の代わりに一回りも二周りも小さい猫の顔が映されていたのだ。その猫は動向を大きく開いて、照明の下にいると言うのに驚いた目をしている。薄黄色の瞳、オレンジの掛かった明るい毛並み・・・毛はともかくとして、その姿は正しく猫である。
 人の首についている猫の顔、余りのギャップの大きさに思わず彼は自らの身の上に起こっている事ながらも、思わず笑ってしまいそうになる始末。そうこうしている内に変化は広がる、次には右足の重さが無くなり、今度は鏡に映っていた右手が猫の手と化したのでバランスが取れなくなって、そのまま椅子から転げ落ちて床に仰向けになる。猫の足へと変化した足が見えた、不思議な事に服は何処にも見当たらない。再び彼の心中には混乱と動揺が広がる反面、どこかそれを楽しんでいる自分がいる事を正夫は感じていた。
 やがて左足も変わると、カウンター脇の床の上には人の胴体に猫の手足と顔をつけた奇妙な物体、一瞬見ただけでは胴体だけが血も流さずに転がっている・・・その様に錯覚される光景が広がっていた、カウンターの上からは楽しそうに微笑んで女主人がそれを見詰めている。正夫はと言えば次第に何も考えられなくなり、その記憶すらも薄れ掛けていた。そして仕上げとしてその胴体も猫のそれへと姿を変えた、尻尾が生えて軽く床の上に広がる。猫はしばらくそこで手足で空気を漕ぐと、ごろんと横になって立ち上がり丸椅子の上に登ってまだじっと見詰めている女主人に対して一鳴きをした。
「かわいい子ね、どこから来たの?」
 何もかも知っている女主人は然も知らん、と言う調子で猫に言葉を投げかけ顎の下を撫でた。
「ニャー。」
 それに対して猫はただ一つそう応じた。もうこの猫の中に正夫はいない、かつては正夫であったとしてもその意識や記憶は全て消え去り、そこには純粋な少し毛色の違うオス猫が撫でられるままに目を細めていた。
「ママ、楽しかったわー。」
 丁度その時、あの扉が開いて中から明美がすっかり満足したという顔を見せて、足取りも軽やかに戻って来た。夜はまだまだ長い、明美の幸せも後少しは続きそうだ。


 完
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