歴史が示している様に幾ら造り維持する立場の人々が腐心し努力しようとも、結果的には破壊されてしまうのはある意味法則的で避けられる事はありえない。それは僕の壁にも言えた、家族と勉強に教師、そして興味ある幾つかの事柄以外の何者も通過出来ない筈であった壁を乗り越える強烈な存在がいきなり現れたのである。もう何年と維持されてきたこの壁を突き破り僕を外へ引きずり出す存在・・・以来、僕を良い意味で煩わせる悩ましい存在となっている。
そして今日もその存在は隣の席に着席している、河島 美香と言う名のその彼女は何事も無いかのように静かに座っているが僕は気が気でならない。どういう訳か彼女から僕を惹き付ける気配が漂っている様に思われてならなかった。分厚い縁付きメガネをして髪を一箇所で束ね、わずかに猫背で常に本を読み耽る・・・いや本に取り憑かれているかの姿の彼女に魅力を感じる者はいないらしく、彼女が何の用事も無しに話しかけられたりその逆を僕は見た事がなかった。
最もそれは周りからすれば僕にも同じ事が言え、教室の窓際の一番後ろの席に隣り合っている僕達は正直言ってクラスから浮いていた。そしてその浮いた2人の間にも目立った交流は無いのだから始末に終えないとも言えよう、だが少なくともその片方が片方に好意を抱いている事を仮に知られた場合良い見世物となるのは否定し難い。そんな中で僕はちょっとした罪悪感と恥ずかしさを抱きながら観察を続けていたのである。
そしてある日の事、僕は半ば闇の中へと落ちつつある校内を1人歩いていた。普段ならまだ賑わっているのであるが学年末と言う事もあって半日授業が続いており、職員室付近を除けば人気は殆ど無く静まり返っている。そんな中をどうして歩いているかと言えば一旦帰宅したものの忘れ物に気がついて取りに戻ったからで、要は自らのしでかした不注意のせいでここを歩いていると言う訳だ。
人の気配も無く暖房が止まった校舎内は何とも冷え切っている、まるでもう長きに渡って使われず放置されているような錯覚すら感じられる。増してや明かりをつけても何処か冷たい蛍光灯は頼り無く、床から反響する靴音と相まって居心地は最悪だった。無意識の内に足早になりあと50メートルほど先の階段へと歩を早める、そして角を回り視界に入った階段に一息入れてゆっくりと降り始めようとした時、ふと僕は片足を中空に浮かせたまま動きを止めた。
"何だ・・・?"
そのまま僕は視線を上へと向け耳を傾けた、電気が消えて暗闇にすっかり包まれた上階へと続く階段。しばらくそうして待機するが何の音も聞こえなかった、空耳だったかも知れないと何処かで思えたりもしたがあれ程はっきりと聞こえたのだから考え難かった。だが今は静まり返っている、まるで自分がここでこうして立ち止まっていてはいけないと暗に諭されているような気配である。正直、僕もどの様に立ち回るべきかと思いを巡らせている所だった。
確かにまず浮んだのはこのまま立ち去るべきだ、と言う物であった。しかしどうにも気になって仕方が無い、結局悩んだ挙句僕は音を立てぬ様静かに向きを変えるとそれこそ忍び足で息を潜ませながら、手摺につかまって階上へと向う階段を上り始めた。この階段の先にあるのは4階と5階、先程の音が空耳でないのならば階段からそう遠くは無い所から発せられた筈、そう読んだ僕はまず4階に達すると踊り場とその周辺の廊下に加え、幾つかの教室の中を確認したが何の以上も見られなかった。
4階に異常が見られないとなると残るは5階のみ・・・5階にあるのは視聴覚室と音楽室、そして文化部系の幾つかの部室である。前の2つについては今日はそれらを使った授業自体が無いので人は立ち入れ無い筈であるから、人の気配が感じられる可能性があるのは部室のみであった。5階にある部室については部活を掛け持ちしている都合でその全てに入った事があるが、あそこまで響く様な音を果たして立てられるのかどうか疑問が残るのだが可能性としては廊下と踊り場、そして部室しか残されていないのもまた事実だった。
そして僕は唾を飲み込んで4階と5階の間の踊り場を回った。妙に緊張しているのに加え、不思議とここまで来たからには何が何でも確認しなければ・・・そう心に決め込んでいる自分が何処か滑稽に思えたりもした。少し笑いたくもなったが言葉には出さず、自然と口元が緩んでしまう。
意を決して上り詰めた割にはその先には大した物は見られなかった。まず踊り場は平穏その物で非常口を示す緑の光に床の一部が染まっている、そして廊下も特には無い。念の為視聴覚室と音楽室も確認してみたが鍵は硬く閉じられており、窓越しに見る室内にも変わった気配は見られなかった。そうなると残るは部室のみ、だがこちらもドアの上の通風孔からは全く光が漏れてはおらずそれこそ静まり返っている。
"やっぱり空耳だったのかも・・・疲れてるのかなぁ・・・。"
ここまで深入りしておいて僕はようやく自分を強く疑い始めていた、そうなると僕の中には俄然時間を無駄にしてしまったと言う後悔の念が湧き起こって来る。腕時計を見ればあの時教室を出てから既に15分が経過していた、今から走って玄関まで行き更に駐輪場から自転車を駅まで信号を無視する位の勢いで飛ばしても10分はかかるだろう。改札まで走り・・・どう考えてもとても電車には間に合わない。多分改札を潜る寸前で発車してしまう事だろう。その次は一時間後、間に1本電車があるが快速なので下車駅は通過してしまい乗っても意味が無かった。
その様な事を思っている内にとうとう一番端の部室の前まで来てしまった、当然その部室にも鍵がかかっており静まり返っていた。結局あれは僕の聞き間違いに過ぎなかったのだ、そうして踵を返して元来た道を戻ろうとした時、再びあの大きな音が耳に聞こえてきた。それも間近な所から、慌てて視線をそちらにやれば狭かった廊下が壁が大きく外に食い込む事によって広がっている場所からそれは響いていた。
ざっと見た感じでは何も見つけられないのだが、その片隅にある唯一の掃除用ロッカーの裏から仄かな光が細く漏れているのに僕は気が付いた。どうやらロッカーの後ろに扉か何かが、扉が存在しているようだ。これまでそう気にした事もなく、またこの廊下の掃除当番にもなったことは無かったので全くその扉の事は知らなかった。
最も仮に気が付いていてもむしろ更に何とも思わなかったかもしれない。例え最初の頃は気にかけていても日頃接する機会の多い方が、何時の間にやら気にしなくなってしまう可能性が高くなってしまうかもしれないのだから。そして僕はそっと近付き、壁にまるでヤモリの様に張り付いて隙間からその光の中を凝視した。
漏れ出ている光は外から見ると非常に明るく見えた、昔話の中にある天から血の池地獄へと吊るされた蜘蛛の糸・・・あれとは比較になる物ですらないが、どこかそう言った様な物に感じられたのも事実であった。だが覗いた先に見えた光は薄暗い物でとても先程の様な気配は感じ取れない、それでも薄暗い灯りの下に何者かがいるのは分かった。服の感じから女子の制服だろう、扉に対して背を向けている少女の顔は分からなかった。
"何してるんだ・・・?こんな所で・・・。"
見える範囲の室内は雑然として埃を被った段ボール箱や紐で綴じられた本等が山積みになっていた。天井に灯っている光は今時希少な白熱電球で、それも寿命が来ているのか非常にぼんやりと灯っており点いて無くとも変わらない様にも感じられる。そんな部屋の中に彼女はいた、唯一整っている中心部を前に立ち尽くすかのように直立不動なまま・・・思わずその姿につられてこちらも息を飲んでしまう。
しばらく見詰めていると突然彼女は手を上に上げた、するとここからは見えないダンボールの影から何かが姿を現した。それも女子であった、この学校の見慣れた制服を身に纏っている。だが何処か様子がおかしいしっかりと歩いている様に見受けられるのだが、何処か覚束なく危うげで何かに酔っているみたいな心持を感じてしまう。何とも先程からずっと立ち尽くしている女子とは対照的・・・そう思えた。
新たに現れた女子はその懐に何かを抱え込んでおり、それを手を差し出していた女子に渡して自ら膝を折り腰を深く下げ、まるで犬がお座りをしているかの様な姿勢を取って視線を彼女へと向けて黙り込んでいた。一方で受取った筒状の物を手に取った女子はその筒の蓋を開けて脇に放ると、その中身を確認して一人頷き何事かと呟いた。僕はすぐさま耳をそばだてるが、生憎距離とその小ささに阻まれて完全に聞き取る事は出来なかった。
ただかすかに聞き取れた物は、お座りの姿勢を取っている女子に対して確認を取った様な内容で、言葉が途切れると共にその女子もまた首を縦に降ったのだから恐らく間違いはないだろう。そして僕が更に関心を抱く前でお座りをした女子の額へと指先を走らせる、一瞬光に・・・今気がついた事だが四方の四隅には燭台が置かれ蝋燭が灯っていた。そして蝋燭の細い炎が反射したのかその指先にわずかな反射光が見られると共に、一筆書きに走らせ終えて外された指先から何か一滴の滴りを、彼は決して見過ごしはしなかった。
カン・・・
気が付いた時にはもう消えた後だった、音は何の痕跡も残さずに消えていた。しかしその微細な音は別の場所に痕跡を残していた、そう僕の動揺と中にいる女子の耳に・・・女子の動きが瞬時に止まる、そして静かに首がこちらへと回される。逃げなくては・・・そう強く僕は危機を感じた、しかしいざ動き出しても動揺しているせいか緩慢で思う様な具合には行かない。
それでもようやく立ち上がりかけた時、彼女の顔もこちらに向けられ運悪く視線があってしまった。その瞬間僕は窒息したかの様な錯覚に捉われた、そのまま立ち上がる事もままならず半ば崩れる様にそのままの姿勢で後退りをすると、一気に立ち上がり形振り構わぬ姿勢でその場を離脱した。とにかく恐ろしかった、何がなんでもその場から遠ざかりたかった。しかし運命はそれを許さない、僕があたふたとようやく角を曲がろうと言う時に盛大な音が轟いたのだから。
「おわっ!?」
その余りの音に肝を潰された僕は思わず廊下の中ほどにて半ば角を曲がりながら立ち止まり、そして背後を振り返った。そこには驚くべき光景が展開されていた、扉の大部分を覆い隠していた掃除用ロッカーはくの字に大きく拉げて反対側の壁に寄り掛かっている。周囲の廊下には飛び散った無数の木片、それらは皆あの部屋の扉として今の今まで機能していた物の残骸だった。そして埃舞う中に響く靴音・・・生きた心地はその時点でしなかったのは言うまでも無いが、それでも何とか力を振り絞って角の陰の様子を窺える位置へ移動した。
そして角から様子を窺っていると何者かがただ靴音だけを響かせて現れた。靴音以外は余りにも静かであると共に鈍い常人並の感覚しか持ち得ない僕でさえ、思わず全身がキリキリと小さな痛みに苛まれる様に錯覚される静かに渦巻く怒気を感じ取ってしまう程であった。思わずそれに飲み込まれそうになるが何とか気を強く保って耐える。
「・・・誰だ、今覗いていたのは・・・。」
男の様な低さを持った女の声だった、そしてその声は耳に入ると共にナイフであるかの様に僕のわずかな精神力を削ぎ取っていく。誰かと聞かれて易々と答える訳が無い・・・何処かの小説で読んだ一文がふと脳裏に浮んだ。脂汗の吹き出る中僕は瞳を強く閉じて自分を確かめ、次なる一手に臨んだ。
「答えないのなら・・・力尽くで聞くとしようか、行け。」
何を聞くのか、そしてどうして行けと言うのだろうか?一瞬頭が白くなったが前者が自分の事を暴こうとしているのを意味するのは次の瞬間に分かった、だか後者については良く分からなかった。しかし何だか自分にとって不利益な事を意味している・・・そう思っていた時、荒い吐息と犬が固い床の上を走る時の様な音が耳に入り動かした視線の先に姿を現した。
姿を現した物、それは人・・・先程のお座り姿勢をしていた少女であった。ただその姿は異様で四つん這いになって狂犬の様に喉から唸り声を上げてダラダラと涎を垂らし、輝きを失った瞳と舌が最早姿の一部を含めて中身が人とは異なる者に変質、いや変質しつつある事を明確に表していた。僕がその姿から感じたのは前述の様に狂犬、或いは飢え切った犬や狼の類の姿だろう。思わず膝が震え始めてしまう、しかし僕は敢えて視線に力を集中させて見詰め合わせるのに努めた。
「やれ。」
静かな怒気を含んだ声が静かに響く、次の瞬間その女子の姿をした狂犬は僕に飛び掛ってきた。それは有り得ない以外に何とも言い表せない動きだった、最早人外の動きだった。そして一瞬反応が鈍った僕は腕こそ守る事は出来たがブレザーの袖を奪われ、大きく引き裂かれてしまった。
グウルルルルル・・・
しばらくその引き千切った袖の一部を噛んでいた少女は、不味そうにそれを床に吐き落とすと体勢を整えて再び対峙し隙をうかがってくる。その間に僕は廊下の脇に転がっていた鉄棒を手に、自分なりで抵抗する姿勢を整えていた。恐らくこの鉄棒は演劇部が部室の掃除の際に外に出したまましまい忘れた物なのだろう、演劇部員の一時の不注意に感謝しつつ僕は構える。
程無くして再開された格闘に僕は懸命に対応した。実際の所火事場の馬鹿力と言うのであろうがここまで立ち向かえるとは予想以上で、もう必死になって鉄棒を乱打しそれでもなお襲い掛かってくる少女と争った。しかし一瞬の空きを付かれて僕は絶叫した、左腕に噛み付かれたのだ。凄まじい力が肘から下の左腕にかかり筋肉、神経、骨が今にも押し潰され引き千切られるかと悲鳴を上げている。
余りの圧力と痛みに意識が薄れかけたが、唸りながら噛み付いている少女の顔に視線をやった瞬間僕は驚きの余り気を確かにした。少女の顔はもう人ではなくなっていたのだから、正確には変貌しつつあると言えよう。一応今の今まで外見的な姿は人を保っていた少女は、今やそれさえも捨て去りつつあったのだ。
その新たに少女が獲得しその中身に合わせた姿は犬・・・いや狼その物で、あの白い肌は最早人のそれから狼の骨格を覆いもう見ている傍から変形と共に変色し、そして獣毛に、黒と白の獣毛に急速に覆われていき独特な精悍さと共にその爛々と輝く瞳が妖しさを強く醸し出していた。加えて顎の下の白い毛を染める赤い鮮血・・・それは紛れも無く僕の腕からあふれた血で不思議と美しくもあり、同時に僕の痛みに負けそうになる気力を震えた立たせる様にも作用していた。
そして僕は反撃した、わずかにその少女の変貌した狼が余裕の表情とも取れる物を浮かべた瞬間、拘束されていなかった右手でまだ握っていた鉄棒で腹に一撃を食らわす。大きな賭けだったがどうやら目論み通りに上手く行き、急所に入ったらしく狼は衝撃の余り口の力を緩めてその巨躯が床に倒れる。余りの大きさに僕は思わず目を見張ってしまうほどの巨大な狼だったのだから。
一瞬の隙の次には僕は新たな痛みを感じながらも、腕を引き抜いてその場から一目散に駆け始めた。鉄棒を片手に握ったまま、非常階段へと出ると何段飛びをしたか分からない位の勢いで駆け下りる。そして駐輪場に止めてある自転車に飛び乗ると、左腕から血が滴り他にも無残な姿になっている事には全く気を払う事無く、夜の街へ夢中になって漕ぎ去って行った。