隠されしもの・第1話冬風 狐作
 1870年8月、インド駐留英軍に所属するエドワード少尉率いる測量隊は道案内など雑用のインド人と共にインド東北部、ネパールとブータンに挟まれたシッキムの奥地の測量を命じられてガントクを出発したのは早朝の事であった。1ヶ月の予定で測量の計画は組まれ、誰もが万事上手く行くと予想していた。何故なら、この測量隊の隊長であるエドワード少尉はもう数十年近くインドに駐留しているベテラン中のベテランとしてその名が知られていたからである。無論、その事は本人も思っていた。誰もが無事に終わると信じている中を彼らは北へ向って出かけて行った。
 だが、一ヵ月後の予定日彼ら測量隊は戻って来なかった。大方、途中で何かがあって数日程度遅れるのだろう・・・皆がそう思っている内に時間は刻々と過ぎ去り、結局一週間が経過しても帰ってこない事でようやく人々は測量隊の身の上に何かが発生した事を知った。すぐに捜索隊が編成され、彼らの辿ったと思われるコースを進む事1週間、捜索隊はようやく測量隊のキャンプの痕跡を発見した。予測通りのコースを辿った事が分かった今彼らは道を急いで測量隊を探し、更に2日を費やした末に彼らはようやく測量隊に巡り合えた。そこに張られた幾張りかのテントの中はどれももぬけの殻で人の姿が全く見当たらなかったので、そこを拠点に周囲を捜索すると間も無く測量隊の内の一人が発見されたがその姿を見た時誰もが声を詰らせて目を丸くした。
――それは真に奇怪な物であった。とても人であったとは思えない・・・神よ、彼を救いたまえ。
 これはその時の捜索隊のある将校が自らの日記に書いた一文である。その後、数日間そこに留まり辺りを捜索したものの、結局初日に見つけた1人以外は誰の痕跡すらも見付ける事は適わず捜索隊は測量隊の荷物一式と発見された1名を伴ってガントクへと戻った。その結果を報告された部隊司令部は無いように大いに驚き、測量隊は全員死亡したと公式発表し、回収された遺品はそれぞれ彼らを待ち望んでいた遺族の元へと送られた。だが不可解な事に回収された物品の中に1つだけ、誰の持ち物でも無い物があった。それは鼎の様な形をした青銅製の壷であったがその存在は唯一の生き残りの存在と共に闇に葬られ、その後のドサクサの中で何処かへと消えて行った。人々の記憶も含めて・・・。

 それから一世紀以上が経過した2005年、1人の日本人がバンコクの骨董品街を歩いていた。彼の名前は黒川正友、31才の彼は久し振りの休暇を利用して家族と共にタイの有名観光地を巡る旅行の最中であった。明日は日本へ帰国する、その前に彼は自分の趣味である骨董品を是非とも見たく、家族と別行動を取ってこの骨董品街を訪れた訳である。
"今日は見るだけにしておくか。"
次々に声をかけて来る商魂たくましい商人達を適当にあしらいながら、彼は雑踏の中を静かに店頭に並べられている物を見、時折店内に入っては並べられている骨董品に見惚れていた。そして、そろそろ骨董品街も終わろうとする所で彼はとある店、間口が2メートルあるかどうかと言う狭い店の入口脇に置かれていたある物に目が入った。
"ほう・・・これはこれは・・・。"
 彼は思わず近付くとしゃがみ込んでそれをまじまじと見つめた。黒川が興味を惹かれた物、それは1つの壷であった。周りに並べられているのっぺりとした陶製の壷とは異なり、その壷は深い緑の上に緑青の筋が幾つも浮かんだ青銅製の壷でその表面には複雑な幾何学的な文様が施されている。
「これはいくらだい?」
次の瞬間、彼は前言を撤回して奥でその行動をじっと見つめていた店主に値段を尋ねていた。
「100・・・いや、200バーツだ。」
「200バーツ・・・高いな。120バーツでどうだ?」
「いや駄目だ。せめて・・・150バーツが値引きの限界だよ。どうする?買うのか買わないのか?」
「まぁいい、じゅあ150バーツで手を打とう・・・梱包の手間賃込みでな。」
「あぁ、良いとも・・・では確かに、ちょっと待っていろ。」
二言三言言葉を交わして値引きに成功した黒川は150バーツ、日本円で約1200円でその壷を手に入れた。金を手にした店主はその壷を持ち上げて奥へと盛って行くと新聞紙を巻いて、木箱の中に入れて寄越した。
「毎度あり。」
店主のその声に押されて駆け足でその場を立ち去った。どうして、駆け足なのか?それはゆっくり歩いていると一度物を買ってしまった事に押されて更に別の物を買ってしまいかねないからである。
"ついつい買っちゃったよ・・・衝動買いって奴だな、ハハハ。"
壷の梱包されたやや重い木箱を片手に彼は雑踏を通り過ぎて行った。しかし、その時彼は壷について何も知らなかった・・・その壷が一世紀以上前に英軍測量隊総勢20名と引換に発見された曰く付きの一品である事を知らなかった。

 日本へ帰国後、黒川の到着より遅れる事一週間をしてタイより発送した荷物が家へ届いた。持ち込み検査で引っかかる恐れがあったので壷は衣類などの荷物と共に別便で発送していたので、彼はその到着を心待ちにしていた。
「さてさて、開けるとしますか・・・。」
届いた荷物の中から真っ先にそれを取って自室へと篭った黒川は木箱の縄を解き、中から新聞紙に包まれたその壷を取り出した。新聞紙を剥ぎ取ると壷はあの時と同じ様な状態のままそこに姿を現し、彼はしばし机の上に置いたそれをじっと見つめる。店頭で見かけた時と違い、暗い室内で机の上のスタンドの白熱電球に照らされるその姿はどこか違う印象を彼に与えた。
「中々いい紋様だな、これは・・・。」
と軽くその流れに沿って指を動かす。
ツツツツツ・・・。
長年、風雨に晒されてきた事から多くの緑青の筋が走るなど決して状態が良いと言い切れないが、自然と指は進み見掛けに反して質は保たれているのが分かった。
"これだけ状態が良いなら、磨けばもっと美しくなるだろう・・・やってみるかな。"
 そう思い立った彼は机の棚の中からこう言った物に対応のクリーナーを取り出し、布に湿らせて静かにその筋1本1本を拭っていく。一度拭うだけで筋はすぐに薄くなり、2度3度拭けばもう輝きを取り戻していた。調子に乗ってそのまま延々と拭い続ける事、2時間余り入念な手入れの終わった壷はすっかり輝きを取り戻し、それを見る黒川の瞳もどこかホッとした充実感のあるものに転じていた。
"予想以上に綺麗になったな・・・拭いて正解だったよ、本当に・・・。"
彼は何時の間にやら用意したコーヒーを傾けながら、更なる輝きを放っている壷を見つめていた。そして、コーヒーを空にすると立ち上がって壷の上部に取り付けられていた蓋の取っ手に手をやり、軽く引っ張ってみるがビクともしなかった。
"何だこの蓋は・・・何て硬さだ、溶接してある訳でも鍵か何かがかけられている形跡は皆無と言うのにビクともしない・・・何だか悔しいぞ・・・よし、今度は力を入れて・・・。フンッ!"
彼は今一度力を強めてその取っ手を上へと引き上げた、しかし前と同じく一行に動く気配が無い。そればかりか取っ手の中にあった微妙な突起が皮膚に刺さってわずかにだが血が出てしまった。慌てて離してティッシュで拭き取ろうとした時、ほんの一滴が壷の蓋の淵へと落下した事に黒川は気が付かないまま血を拭き取っていた。するとその時、
ガタッ・・・。
「・・・何の音だ?」
小さく静かな部屋の中に響いた物音に気が付くと彼は辺りを見回して、その音の元凶を探した。しかし、見た限りでは何ら異常は見られなかった。
「何の音だったんだろ・・・気のせいだった・・・!?」
ガタッ・・・ガタガタガタッ・・・。
 疑問を抱えながら視線を指へと戻したその時、指の下にあった壷が大きく動揺したのは。驚きの余り、彼は口をあんぐり開けて言葉を詰らせた。するとまるでその時を狙っていたかのように壷は更に動揺すると、突如として蓋が弾ける様に飛び上がり強い風が壷の中から吹き上げてきた。
"な・・・何が起きたんだっ・・・壷の中から強風が吹くなんて・・・。"
 余りの強風に彼は目を細めている間に、部屋の中に置かれていた数々の書類や本が強風に舞い飛ばされていく風はいよいよ強まり、瞳を閉じかけようとしたその時途端に風は収まった。一連の不可解な出来事に驚きながら辺りの惨状を見ていると、背中を向けた壷から何やら強い気配を感じた。言っておくが彼には霊感やそれに類するものは殆ど存在しないばかりか、人の来た気配すら気が付かないと言う鈍感な男である。
そんな彼が気が付くほどの気配、先ほどの強風と言い尋常ならざる物を察した黒川は恐る恐る体を後ろへ向けると、机の上には壷に寄り添うような形で男とも女とも取れる容姿をした謎の人物が腕組みをし、机に腰掛けて興味深げな瞳で黒川を見つめていた。黒い瞳に透き通るほどの白い肌が何とも強く印象に残された。


 第1話終 第2話へ続く
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